第十軍団
第十軍団の演習場は、闘技場と同じ“砂”でも匂いが違った。
汗と油の匂いに、革の擦れる匂いが混じる。何より――同じ呼吸が何十も重なる匂いがする。
合図。号令。足並み。槍の向き。
ひとつの声で、百の身体が同じ方向を向く。個で勝つ世界じゃない。塊で生きる世界だ。
「すげぇな……」
テオトニクスが、珍しく小声で言った。
「闘技場の客の声より、こっちの方が怖いわ。揃いすぎてて」
セリスィンは返さなかった。
その“揃いすぎ”が、今はありがたい。自分が止まりそうになったとき、流れが引っ張ってくれるかもしれないからだ。
列の前に立つ男が一人、こちらへ歩いてきた。
兜は被っていない。傷のある顔。目が乾いている。兵の目だ。
「貴様らが“闘技場上がり”か」
言い方に棘がある。だが怒りではない。試す声だ。
カエサルが横から軽く言った。
「そう。今日から“俺の荷物”だ。落とすなよ」
兵の男が、ほんの一瞬だけ眉を動かした。
笑うべきか、真面目に受けるべきか迷う顔。だがすぐに戻る。
「荷物なら、ラビエヌスに渡せ。あの男は荷造りが上手い」
ラビエヌスは遠くで、聞こえているのに聞こえていない顔をしていた。
カエサルが肩をすくめる。
「ほら見ろ。人気だぞ」
人気という言葉の軽さと、周囲の緊張の硬さが噛み合わない。
なのに、場だけは動く。カエサルの“軽さ”は空気を壊さずに形を変える。
兵の男がセリスィンを上から下まで見た。
「名は」
「セリスィン」
「お前」
次にテオトニクスを見る。
「テオトニクス。長いからテオでええです」
「戦場では短くしろ」
「ほな、テオで」
兵の男は鼻で息を吐いた。
「口は動く。……足はどうだ」
セリスィンは答えを探した。
「動く」と言い切るには、昨日が近すぎる。
「動かない」と言うのは、死ぬ宣言だ。
結局、セリスィンはこう答えた。
「動かす」
兵の男が初めて、僅かに口角を動かした。
「悪くない。動くかどうかじゃない。動かすかどうかだ」
その男は名乗った。
「俺は第十の百人隊長、ルキウスだ。——今日から、お前らは俺の目の前で動け」
テオが笑ってしまう。
「めっちゃ嫌な宣言やな」
「慣れろ。嫌な宣言は命を守る」
ルキウスはそう言って踵を返し、演習場の端へ二人を連れていった。
最初に渡されたのは剣ではなく、木の槍だった。
「まずはこれだ」
ルキウスが言う。
「闘技場の剣は“見せる刃”だ。こっちは“届かせる刃”だ。——持て」
木槍は重い。重いのに、妙に扱いにくい。
セリスィンの指が自然に剣の位置を探してしまい、手首が迷う。
その迷いを、ルキウスは見逃さない。
「剣の癖が出てる。直せ。槍は剣の延長じゃない」
テオトニクスが槍を振ってみて、顔をしかめた。
「うわ、これ、絶妙に腹立つな……長いくせに言うこと聞かん」
「長いから命が拾える。言うことを聞かせるのが兵だ」
ルキウスは冷たい声で言い、次に地面へ線を引いた。
「ここから出るな。お前らは“ここ”を守れ。守れないなら、列は崩れる。列が崩れたら、後ろが死ぬ」
セリスィンの胸の奥がきしんだ。
昨日、守れなかったものがある。
その記憶が、今は足を止める鎖にも、足を動かす楔にもなる。
(吐け)
セリスィンは一回、息を吐いた。
足裏が戻る。線の内側に、体重が落ちる。
ルキウスが見ていた。
「……今の、悪くない。止まりそうになったら吐け」
セリスィンは一瞬だけ目を上げた。
カエサルの教えが、もう軍団の言葉になっている。
昼過ぎ、演習場の端に人が集まった。
隊列の前へ出たラビエヌスが短く命じる。
「整列。出発の準備をする」
ざわめきはない。
命令が落ちれば、身体が勝手に揃う。
カエサルが列の前を歩きながら、兵の顔を見て回る。
硬い顔が多い。けれどカエサルは、そこに軽い言葉を差し込んでいく。
「顔が固いぞ。歯、折るなよ」
「腹は減る前に食え。減ってから食うと遅れる」
「靴紐、結び直せ。勝つ前に転ぶな」
ふざけているようで、全部が実務だった。
テオトニクスが小声で言う。
「軽いこと言うてるのに、全部正しいの、反則やろ……」
デキムスが横を通りながら、テオトニクスにだけ低く言った。
「反則じゃねぇ。ああいうのが上だ」
一人称は俺。呼称はお前。昨日頼んだ通りの口。
テオトニクスは「せやな」と珍しく素直に返した。
出発の直前、ラビエヌスがセリスィンとテオトニクスを呼び、短く告げた。
「お前らは正式な兵ではない。だが、戦場に出るなら同じだ。——勝手に死ぬな。勝手に英雄になるな。命令で動け」
命令で動け。
それは鎖だ。だが今は、足が止まらないための鎖でもある。
カエサルが横から割り込む。
「ラビエヌス、固い固い。二人とも、簡単に言うとだな」
カエサルは指を二本立てた。
「一つ、迷子になるな。二つ、靴を大事にしろ。以上」
ラビエヌスが一瞬だけ目を閉じた。
「……閣下」
「分かりやすいだろ?」
テオトニクスが思わず笑う。
「分かりやすいっす」
セリスィンは笑えなかった。だが頷けた。
「……はい」
その返事に、カエサルは満足そうに手を打った。
「よし。ローヌへ行く。——遅れるなよ」
第十軍団が動き出す。
旗が揺れ、革が鳴り、足音がひとつに揃う。
セリスィンは列の中で、一度だけ吐いた。
吸う前に吐く。
そして、足を前へ出した。
闘技場の砂から、軍団の土へ。
ここから先は、勝ち負けじゃない。進めるかどうかだ。




