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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第6章 少年の旅立ち
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第十軍団

第十軍団の演習場は、闘技場と同じ“砂”でも匂いが違った。

汗と油の匂いに、革の擦れる匂いが混じる。何より――同じ呼吸が何十も重なる匂いがする。


合図。号令。足並み。槍の向き。

ひとつの声で、百の身体が同じ方向を向く。個で勝つ世界じゃない。塊で生きる世界だ。


「すげぇな……」


テオトニクスが、珍しく小声で言った。


「闘技場の客の声より、こっちの方が怖いわ。揃いすぎてて」


セリスィンは返さなかった。

その“揃いすぎ”が、今はありがたい。自分が止まりそうになったとき、流れが引っ張ってくれるかもしれないからだ。


列の前に立つ男が一人、こちらへ歩いてきた。

兜は被っていない。傷のある顔。目が乾いている。兵の目だ。


「貴様らが“闘技場上がり”か」


言い方に棘がある。だが怒りではない。試す声だ。


カエサルが横から軽く言った。


「そう。今日から“俺の荷物”だ。落とすなよ」


兵の男が、ほんの一瞬だけ眉を動かした。

笑うべきか、真面目に受けるべきか迷う顔。だがすぐに戻る。


「荷物なら、ラビエヌスに渡せ。あの男は荷造りが上手い」


ラビエヌスは遠くで、聞こえているのに聞こえていない顔をしていた。


カエサルが肩をすくめる。


「ほら見ろ。人気だぞ」


人気という言葉の軽さと、周囲の緊張の硬さが噛み合わない。

なのに、場だけは動く。カエサルの“軽さ”は空気を壊さずに形を変える。


兵の男がセリスィンを上から下まで見た。


「名は」


「セリスィン」


「お前」


次にテオトニクスを見る。


「テオトニクス。長いからテオでええです」


「戦場では短くしろ」


「ほな、テオで」


兵の男は鼻で息を吐いた。


「口は動く。……足はどうだ」


セリスィンは答えを探した。

「動く」と言い切るには、昨日が近すぎる。

「動かない」と言うのは、死ぬ宣言だ。


結局、セリスィンはこう答えた。


「動かす」


兵の男が初めて、僅かに口角を動かした。


「悪くない。動くかどうかじゃない。動かすかどうかだ」


その男は名乗った。


「俺は第十の百人隊長、ルキウスだ。——今日から、お前らは俺の目の前で動け」


テオが笑ってしまう。


「めっちゃ嫌な宣言やな」


「慣れろ。嫌な宣言は命を守る」


ルキウスはそう言って踵を返し、演習場の端へ二人を連れていった。


最初に渡されたのは剣ではなく、木の槍だった。


「まずはこれだ」


ルキウスが言う。


「闘技場の剣は“見せる刃”だ。こっちは“届かせる刃”だ。——持て」


木槍は重い。重いのに、妙に扱いにくい。

セリスィンの指が自然に剣の位置を探してしまい、手首が迷う。


その迷いを、ルキウスは見逃さない。


「剣の癖が出てる。直せ。槍は剣の延長じゃない」


テオトニクスが槍を振ってみて、顔をしかめた。


「うわ、これ、絶妙に腹立つな……長いくせに言うこと聞かん」


「長いから命が拾える。言うことを聞かせるのが兵だ」


ルキウスは冷たい声で言い、次に地面へ線を引いた。


「ここから出るな。お前らは“ここ”を守れ。守れないなら、列は崩れる。列が崩れたら、後ろが死ぬ」


セリスィンの胸の奥がきしんだ。

昨日、守れなかったものがある。

その記憶が、今は足を止める鎖にも、足を動かす楔にもなる。


(吐け)


セリスィンは一回、息を吐いた。

足裏が戻る。線の内側に、体重が落ちる。


ルキウスが見ていた。


「……今の、悪くない。止まりそうになったら吐け」


セリスィンは一瞬だけ目を上げた。

カエサルの教えが、もう軍団の言葉になっている。


昼過ぎ、演習場の端に人が集まった。

隊列の前へ出たラビエヌスが短く命じる。


「整列。出発の準備をする」


ざわめきはない。

命令が落ちれば、身体が勝手に揃う。


カエサルが列の前を歩きながら、兵の顔を見て回る。

硬い顔が多い。けれどカエサルは、そこに軽い言葉を差し込んでいく。


「顔が固いぞ。歯、折るなよ」

「腹は減る前に食え。減ってから食うと遅れる」

「靴紐、結び直せ。勝つ前に転ぶな」


ふざけているようで、全部が実務だった。


テオトニクスが小声で言う。


「軽いこと言うてるのに、全部正しいの、反則やろ……」


デキムスが横を通りながら、テオトニクスにだけ低く言った。


「反則じゃねぇ。ああいうのが上だ」


一人称は俺。呼称はお前。昨日頼んだ通りの口。

テオトニクスは「せやな」と珍しく素直に返した。


出発の直前、ラビエヌスがセリスィンとテオトニクスを呼び、短く告げた。


「お前らは正式な兵ではない。だが、戦場に出るなら同じだ。——勝手に死ぬな。勝手に英雄になるな。命令で動け」


命令で動け。

それは鎖だ。だが今は、足が止まらないための鎖でもある。


カエサルが横から割り込む。


「ラビエヌス、固い固い。二人とも、簡単に言うとだな」


カエサルは指を二本立てた。


「一つ、迷子になるな。二つ、靴を大事にしろ。以上」


ラビエヌスが一瞬だけ目を閉じた。


「……閣下」


「分かりやすいだろ?」


テオトニクスが思わず笑う。


「分かりやすいっす」


セリスィンは笑えなかった。だが頷けた。


「……はい」


その返事に、カエサルは満足そうに手を打った。


「よし。ローヌへ行く。——遅れるなよ」


第十軍団が動き出す。

旗が揺れ、革が鳴り、足音がひとつに揃う。


セリスィンは列の中で、一度だけ吐いた。

吸う前に吐く。


そして、足を前へ出した。


闘技場の砂から、軍団の土へ。

ここから先は、勝ち負けじゃない。進めるかどうかだ。

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