軍団の朝、軽い号令
次の日の朝。
幕舎の列の間を歩くと、視線が刺さる。
闘技場の視線とは違う。値踏みでも憧れでもなく、もっと単純な――「こいつは味方か、役に立つか」という目だ。
セリスィンはそれを受けて、足を止めなかった。
吐く。吸う前に吐く。昨日カエサルに言われた、それだけを守る。
「おい、見ろよ。剣闘士だってさ」
「闘技場の“商品”が軍に来るのか?」
「まあ強いだろ。強くなきゃ生きてねぇ」
囁きはすぐ噂になり、噂はすぐ形を持つ。
一人の兵が、わざとらしく肩をぶつけてきた。
「邪魔だ」
セリスィンはぶつかられた肩を押さえず、ただ一歩だけ位置をずらした。
喧嘩は簡単だ。簡単な方に行けば、また“止まる足”が戻ってくる。
その横でテオトニクスが、もう輪の中に入りかけていた。
「邪魔って言うたらあかんやろ。ほら、こっちも初出勤みたいなもんでな。案内してくれたら助かるわ」
軽い声で、相手の苛立ちを“仕事”に変える。
兵が鼻で笑い、「誰が案内なんか」と言いながらも歩き出す。気づけば周りに人が増え、空気が柔らかくなる。
(こいつは……こういう戦い方をする)
セリスィンが見ていると、背後から低い声が落ちた。
「上手いな」
デキムスだった。昨日より距離が近い。
「お前は、ああいうのはやるなよ。余計な火種になる」
「……分かってる」
「分かってるならいい」
デキムスはそれだけ言って、前へ行く。冷たいようで、目は現実だけを見ている。
臨時の天幕に通された。
中にはすでに数人いた。
ラビエヌスが地図板の前に立っている。背筋がまっすぐで、声が少ない。
その横に、若い貴族が二人三人。デキムスのほかに、どこか育ちの良さが消えない男と、腕の動きが戦場寄りの男。
カエサルは遅れて入ってきた。遅れているのに、空気が先に整う。
「おはよう。……ああ、堅い堅い。顔が堅い」
開口一番それを言って、地図板の端を指で叩いた。
「ラビエヌス、難しい顔しすぎだ。折れるぞ」
ラビエヌスは顔色一つ変えない。
「閣下が難しいことを言うからです」
「じゃあ簡単に言う。——行くぞ」
それだけで天幕の温度が変わった。
テオトニクスが思わず口を挟む。
「行く、って……どこへです?」
カエサルはさっと地図板を撫でる。
「北だ。ローヌまで。……“早い方”でな」
「軍団が揃ってからでは?」
ラビエヌスが淡々と補足する。
「第七、第八、第九はここに集結中。新編成の軍団も到着を待っている。だが——」
カエサルがその続きを軽く奪った。
「待つと、相手も待ってくれる。待つと、噂が先に走る。噂が先走ると、今度は道が詰まる。道が詰まると、面倒だ。最後は糞まで詰まってしまう」
「結局それですか」と誰かが言いかけ、飲み込む。
カエサルは笑った。
「結局それだ。面倒は嫌いだ。だから面倒になる前に面倒を殴る」
セリスィンはその言い方に、闘技場の乱入を思い出した。
軽い言葉で、本気のことを言う男。軽いからこそ嘘に聞こえない。
「で、何人で?」
テオトニクスが聞くと、カエサルは答えを楽しむように間を置いた。
「第十」
ラビエヌスが続ける。
「第十軍団、一個軍団で先行する。先遣ではない。“先行”だ」
天幕の空気が一瞬、止まった。
若い貴族たちが目を細める。護衛が微かに姿勢を変える。常識が追いつかない止まり方だ。
テオトニクスが笑ってしまう。
「……え、ほんまに? 一個だけ?」
カエサルは肩をすくめた。
「足りない?」
その言い方が、挑発に聞こえないのが怖い。
本気で「足りないのか?」と聞いている。
ラビエヌスが釘を刺すように言う。
「笑っている暇はない。軍団が揃うまで待つのは安全だ。だが安全は遅い。閣下は遅いのが嫌いだ」
「嫌いだ」とカエサルがすぐ言い、続けて手を叩いた。
「はい。説明終わり。——お前ら二人」
セリスィンとテオトニクスを見る。
「軍の中での扱いは“剣闘士”じゃない。兵でもない。最初は俺の荷物みたいなものだ。……だから勝手に死ぬな」
軽口の形なのに、命令だ。
セリスィンは頷いた。
「はい」
テオトニクスは笑って返す。
「荷物やったら丁寧に扱ってくださいよ」
「雑に投げない程度にはな」
カエサルはそう言って、天幕の入口を指した。
「まず軍団を見せる。第十の顔を覚えろ。第十もお前らの顔を覚える。——覚えたら出る」
“出る”が軽い。軽いのに、もう決まっている。
天幕を出ると、演習場で兵が動いていた。
隊列が揃い、槍が揃い、命令で一斉に向きが変わる。個の強さではない。塊の強さだ。
セリスィンはその塊を見て、喉が乾いた。
(闘技場は一対一だ)
(ここは、波だ)
波の中に入れば、泳げない者は沈む。
止まった足は、次は戻らないかもしれない。
そのとき、カエサルが隣でぼそりと言った。
「怖いか?」
セリスィンは嘘をつかなかった。
「……怖いです」
カエサルは笑った。
「よし。怖いなら、ちゃんと見ろ。怖さは目を増やす。——目が増えた奴は強い」
言い終えると、いつもの調子に戻る。
「さ、行くぞ。第十はいい顔するぞ。あと、靴を見ろ。靴が悪い軍はだいたい弱い」
また靴だ、とテオトニクスが笑い、兵の方へ走り出しかけて止まる。
今は勝手に動けないと、もう学んでいる。
セリスィンは吐いた。吸う前に吐く。
そして、第十軍団の列へ向かって歩き出した。




