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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第6章 少年の旅立ち
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軍団の朝、軽い号令

次の日の朝。


幕舎の列の間を歩くと、視線が刺さる。

闘技場の視線とは違う。値踏みでも憧れでもなく、もっと単純な――「こいつは味方か、役に立つか」という目だ。


セリスィンはそれを受けて、足を止めなかった。

吐く。吸う前に吐く。昨日カエサルに言われた、それだけを守る。


「おい、見ろよ。剣闘士だってさ」

「闘技場の“商品”が軍に来るのか?」

「まあ強いだろ。強くなきゃ生きてねぇ」


囁きはすぐ噂になり、噂はすぐ形を持つ。

一人の兵が、わざとらしく肩をぶつけてきた。


「邪魔だ」


セリスィンはぶつかられた肩を押さえず、ただ一歩だけ位置をずらした。

喧嘩は簡単だ。簡単な方に行けば、また“止まる足”が戻ってくる。


その横でテオトニクスが、もう輪の中に入りかけていた。


「邪魔って言うたらあかんやろ。ほら、こっちも初出勤みたいなもんでな。案内してくれたら助かるわ」


軽い声で、相手の苛立ちを“仕事”に変える。

兵が鼻で笑い、「誰が案内なんか」と言いながらも歩き出す。気づけば周りに人が増え、空気が柔らかくなる。


(こいつは……こういう戦い方をする)


セリスィンが見ていると、背後から低い声が落ちた。


「上手いな」


デキムスだった。昨日より距離が近い。


「お前は、ああいうのはやるなよ。余計な火種になる」


「……分かってる」


「分かってるならいい」


デキムスはそれだけ言って、前へ行く。冷たいようで、目は現実だけを見ている。


臨時の天幕に通された。

中にはすでに数人いた。


ラビエヌスが地図板の前に立っている。背筋がまっすぐで、声が少ない。

その横に、若い貴族が二人三人。デキムスのほかに、どこか育ちの良さが消えない男と、腕の動きが戦場寄りの男。


カエサルは遅れて入ってきた。遅れているのに、空気が先に整う。


「おはよう。……ああ、堅い堅い。顔が堅い」


開口一番それを言って、地図板の端を指で叩いた。


「ラビエヌス、難しい顔しすぎだ。折れるぞ」


ラビエヌスは顔色一つ変えない。


「閣下が難しいことを言うからです」


「じゃあ簡単に言う。——行くぞ」


それだけで天幕の温度が変わった。


テオトニクスが思わず口を挟む。


「行く、って……どこへです?」


カエサルはさっと地図板を撫でる。


「北だ。ローヌまで。……“早い方”でな」


「軍団が揃ってからでは?」


ラビエヌスが淡々と補足する。


「第七、第八、第九はここに集結中。新編成の軍団も到着を待っている。だが——」


カエサルがその続きを軽く奪った。


「待つと、相手も待ってくれる。待つと、噂が先に走る。噂が先走ると、今度は道が詰まる。道が詰まると、面倒だ。最後は糞まで詰まってしまう」


「結局それですか」と誰かが言いかけ、飲み込む。

カエサルは笑った。


「結局それだ。面倒は嫌いだ。だから面倒になる前に面倒を殴る」


セリスィンはその言い方に、闘技場の乱入を思い出した。

軽い言葉で、本気のことを言う男。軽いからこそ嘘に聞こえない。


「で、何人で?」


テオトニクスが聞くと、カエサルは答えを楽しむように間を置いた。


「第十」


ラビエヌスが続ける。


「第十軍団、一個軍団で先行する。先遣ではない。“先行”だ」


天幕の空気が一瞬、止まった。

若い貴族たちが目を細める。護衛が微かに姿勢を変える。常識が追いつかない止まり方だ。


テオトニクスが笑ってしまう。


「……え、ほんまに? 一個だけ?」


カエサルは肩をすくめた。


「足りない?」


その言い方が、挑発に聞こえないのが怖い。

本気で「足りないのか?」と聞いている。


ラビエヌスが釘を刺すように言う。


「笑っている暇はない。軍団が揃うまで待つのは安全だ。だが安全は遅い。閣下は遅いのが嫌いだ」


「嫌いだ」とカエサルがすぐ言い、続けて手を叩いた。


「はい。説明終わり。——お前ら二人」


セリスィンとテオトニクスを見る。


「軍の中での扱いは“剣闘士”じゃない。兵でもない。最初は俺の荷物みたいなものだ。……だから勝手に死ぬな」


軽口の形なのに、命令だ。


セリスィンは頷いた。


「はい」


テオトニクスは笑って返す。


「荷物やったら丁寧に扱ってくださいよ」


「雑に投げない程度にはな」


カエサルはそう言って、天幕の入口を指した。


「まず軍団を見せる。第十の顔を覚えろ。第十もお前らの顔を覚える。——覚えたら出る」


“出る”が軽い。軽いのに、もう決まっている。


天幕を出ると、演習場で兵が動いていた。

隊列が揃い、槍が揃い、命令で一斉に向きが変わる。個の強さではない。塊の強さだ。


セリスィンはその塊を見て、喉が乾いた。


(闘技場は一対一だ)


(ここは、波だ)


波の中に入れば、泳げない者は沈む。

止まった足は、次は戻らないかもしれない。


そのとき、カエサルが隣でぼそりと言った。


「怖いか?」


セリスィンは嘘をつかなかった。


「……怖いです」


カエサルは笑った。


「よし。怖いなら、ちゃんと見ろ。怖さは目を増やす。——目が増えた奴は強い」


言い終えると、いつもの調子に戻る。


「さ、行くぞ。第十はいい顔するぞ。あと、靴を見ろ。靴が悪い軍はだいたい弱い」


また靴だ、とテオトニクスが笑い、兵の方へ走り出しかけて止まる。

今は勝手に動けないと、もう学んでいる。


セリスィンは吐いた。吸う前に吐く。

そして、第十軍団の列へ向かって歩き出した。

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