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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第6章 少年の旅立ち
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軍の匂い

夜明け前、セリスィンは吐いた。

吸う前に、吐く。カエサルが言ったとおりに。


白い息がほどけると、足裏の感覚が戻ってきた。

昨日の“止まり”が、まだ脚の奥に残っている。だが今日は、それを抱えたまま動ける気がした。


「お、やってるやん」


火のそばで欠伸をしながら、カエサルが言った。

軽い声で言って、すぐ歩き出す。


「はいはい、出るぞ。朝は混むからな」


ラビエヌスがため息をつく。


「閣下、ここは街道です」


「だから混むんだ」


冗談みたいに言って、冗談ではない。――この男の“軽さ”は、油断じゃなく癖だ。人を動かす癖。


一団は北へ進んだ。

霧は薄れ、土は固くなり、道の匂いが変わっていく。ローマの外が近づく匂い。兵の匂い。


テオトニクスは相変わらず口が回っていたが、今日は軽口に“仕事”が混じっていた。


「なぁ、護衛の人。さっきの賊、どっちの方角から来た? 風向き的に、あれ、待ち伏せちゃうやろ」


護衛が答えかけて口を閉じる前に、ラビエヌスが短く言った。


「良い質問だ。だが口に出すな。癖になる」


「癖になったら死ぬ、ってことっすね」


テオが笑って言うと、ラビエヌスは笑わずに頷いた。


「そうだ」


笑いが起きないのに、場は締まった。

ラビエヌスはこういう男だ。


昼前、道が開けた場所で短い休憩になった。

水を回し、乾いたパンを割る。


セリスィンは外套の留めフィブラを直し、砥石の位置を確かめた。

小物なのに、拳の温度が残っている。カタルスとシリアスの“残った覚悟”が、指先に乗っている気がして、視線を落とした。


「おい」


声がして顔を上げると、デキムスが立っていた。

整った顔に似合わず、言い方がぶっきらぼうだ。


「……昨日の件」


セリスィンが言うと、デキムスは肩をすくめる。


「礼は要らねぇ。俺が投げたのは“石”じゃなくて“時間”だ。お前が動く一拍を買っただけ」


「……それでも助かった」


デキムスは頷かない。頷かないまま、言葉だけ置く。


「助かったなら次は自分で買え。昨日みたいに止まったら、次は終わる。……分かるな?」


「分かる」


「よし」


デキムスはそれで会話を終わらせるつもりだった。だが、足を止めて付け足す。


「お前、闘技場の剣だ。戦場の剣に変わるのに、時間が要る。

けどな、時間を使える奴は強い。焦って形だけ変える奴は死ぬ」


それは忠告というより、評価に近かった。

セリスィンは一つ息を吐いた。吐くと、前に出られる。


「……俺は、帰らない」


デキムスは初めて、ほんの少しだけ口元を動かした。


「帰らねぇなら、せめて“止まり方”を覚えろ。止まるなら、次に動くために止まれ」


言い切って去っていく背中は、冷たいのに嘘がなかった。


テオトニクスが横から小声で言う。


「お前、好かれてるで。ああいうの、認めた相手にしか言わん」


「……好かれてはいない」


「せやな。けど“見られてる”やろ」


その言葉が、妙に胸に刺さった。

闘技場で見られるのとは違う。生き残るかどうかを見られている。


午後、道の向こうに軍の気配が増えた。

歩兵の列ではない。まず匂いだ。油、革、鉄、干し肉、馬の汗。人の数が作る匂い。


「来たな」


カエサルが、楽しそうに言った。


丘を越えた先に、広い平地。

そこに――幕舎が並び、旗が立ち、歩哨が動いていた。


ローマ軍。


まだ本隊全部ではない。だが“軍の形”がある。

セリスィンの喉が鳴った。剣闘士の世界とは別の大きさだ。


ラビエヌスが、いつもより少しだけ声を硬くした。


「あそこにいるのは第十軍団だ」


「やっと“まともな人数”やな」とテオが言うと、カエサルが笑う。


「まともって言うな。少数には少数の良さがある。……ほら、迷子が減る」


「迷子の話まだ引っ張るんすか」


「引っ張る」


軽口で場を緩めながら、カエサルは速度を落とさない。

歩哨がこちらを見つけ、合図が走る。護衛が前に出る。認証の言葉。身分の確認。


セリスィンは、兵の目を受けた。

闘技場の観客の目ではない。敵味方を切り分ける目。無駄のない目。


(ここが、戦場の入口か)


手が汗ばむ。だが足は止まらない。

吐く。吸う前に、吐く。胸が少し軽くなる。


門の内側へ通されると、若い兵がざわついた。

剣闘士が混じっているのを嗅ぎ取る。噂は早い。


「闘技場のやつか?」

「テオトニクスって……」

「もう一人、セリスィン?」


名が口にされるたびに、胸の奥が少しだけ熱くなる。

それは嬉しさではなく、責任に近い熱だった。


カエサルが振り返り、わざとらしく肩をすくめる。


「ほら見ろ。人気者だ。——だが今日からは、人気じゃなく“役に立て”。それだけだ」


セリスィンは短く頷いた。


「はい」


テオトニクスも、珍しく真面目に言った。


「了解っす」


その返事に、ラビエヌスが一瞬だけ目を細めた。

認めたのか、試しているのか――どちらにせよ、見られている。


カエサルは歩きながら、さらっと言う。


「あとで紹介する。ここの連中、癖が強いぞ。——お前らもだけどな」


軽い。

でも、この軽さに連れられて、足が前へ出る。


闘技場で勝つより、ずっと大きい場所に来てしまった。

それでも、戻らない。


この先、ローヌ川まで――そしてガリアまで。


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