軍の匂い
夜明け前、セリスィンは吐いた。
吸う前に、吐く。カエサルが言ったとおりに。
白い息がほどけると、足裏の感覚が戻ってきた。
昨日の“止まり”が、まだ脚の奥に残っている。だが今日は、それを抱えたまま動ける気がした。
「お、やってるやん」
火のそばで欠伸をしながら、カエサルが言った。
軽い声で言って、すぐ歩き出す。
「はいはい、出るぞ。朝は混むからな」
ラビエヌスがため息をつく。
「閣下、ここは街道です」
「だから混むんだ」
冗談みたいに言って、冗談ではない。――この男の“軽さ”は、油断じゃなく癖だ。人を動かす癖。
一団は北へ進んだ。
霧は薄れ、土は固くなり、道の匂いが変わっていく。ローマの外が近づく匂い。兵の匂い。
テオトニクスは相変わらず口が回っていたが、今日は軽口に“仕事”が混じっていた。
「なぁ、護衛の人。さっきの賊、どっちの方角から来た? 風向き的に、あれ、待ち伏せちゃうやろ」
護衛が答えかけて口を閉じる前に、ラビエヌスが短く言った。
「良い質問だ。だが口に出すな。癖になる」
「癖になったら死ぬ、ってことっすね」
テオが笑って言うと、ラビエヌスは笑わずに頷いた。
「そうだ」
笑いが起きないのに、場は締まった。
ラビエヌスはこういう男だ。
昼前、道が開けた場所で短い休憩になった。
水を回し、乾いたパンを割る。
セリスィンは外套の留め具を直し、砥石の位置を確かめた。
小物なのに、拳の温度が残っている。カタルスとシリアスの“残った覚悟”が、指先に乗っている気がして、視線を落とした。
「おい」
声がして顔を上げると、デキムスが立っていた。
整った顔に似合わず、言い方がぶっきらぼうだ。
「……昨日の件」
セリスィンが言うと、デキムスは肩をすくめる。
「礼は要らねぇ。俺が投げたのは“石”じゃなくて“時間”だ。お前が動く一拍を買っただけ」
「……それでも助かった」
デキムスは頷かない。頷かないまま、言葉だけ置く。
「助かったなら次は自分で買え。昨日みたいに止まったら、次は終わる。……分かるな?」
「分かる」
「よし」
デキムスはそれで会話を終わらせるつもりだった。だが、足を止めて付け足す。
「お前、闘技場の剣だ。戦場の剣に変わるのに、時間が要る。
けどな、時間を使える奴は強い。焦って形だけ変える奴は死ぬ」
それは忠告というより、評価に近かった。
セリスィンは一つ息を吐いた。吐くと、前に出られる。
「……俺は、帰らない」
デキムスは初めて、ほんの少しだけ口元を動かした。
「帰らねぇなら、せめて“止まり方”を覚えろ。止まるなら、次に動くために止まれ」
言い切って去っていく背中は、冷たいのに嘘がなかった。
テオトニクスが横から小声で言う。
「お前、好かれてるで。ああいうの、認めた相手にしか言わん」
「……好かれてはいない」
「せやな。けど“見られてる”やろ」
その言葉が、妙に胸に刺さった。
闘技場で見られるのとは違う。生き残るかどうかを見られている。
午後、道の向こうに軍の気配が増えた。
歩兵の列ではない。まず匂いだ。油、革、鉄、干し肉、馬の汗。人の数が作る匂い。
「来たな」
カエサルが、楽しそうに言った。
丘を越えた先に、広い平地。
そこに――幕舎が並び、旗が立ち、歩哨が動いていた。
ローマ軍。
まだ本隊全部ではない。だが“軍の形”がある。
セリスィンの喉が鳴った。剣闘士の世界とは別の大きさだ。
ラビエヌスが、いつもより少しだけ声を硬くした。
「あそこにいるのは第十軍団だ」
「やっと“まともな人数”やな」とテオが言うと、カエサルが笑う。
「まともって言うな。少数には少数の良さがある。……ほら、迷子が減る」
「迷子の話まだ引っ張るんすか」
「引っ張る」
軽口で場を緩めながら、カエサルは速度を落とさない。
歩哨がこちらを見つけ、合図が走る。護衛が前に出る。認証の言葉。身分の確認。
セリスィンは、兵の目を受けた。
闘技場の観客の目ではない。敵味方を切り分ける目。無駄のない目。
(ここが、戦場の入口か)
手が汗ばむ。だが足は止まらない。
吐く。吸う前に、吐く。胸が少し軽くなる。
門の内側へ通されると、若い兵がざわついた。
剣闘士が混じっているのを嗅ぎ取る。噂は早い。
「闘技場のやつか?」
「テオトニクスって……」
「もう一人、セリスィン?」
名が口にされるたびに、胸の奥が少しだけ熱くなる。
それは嬉しさではなく、責任に近い熱だった。
カエサルが振り返り、わざとらしく肩をすくめる。
「ほら見ろ。人気者だ。——だが今日からは、人気じゃなく“役に立て”。それだけだ」
セリスィンは短く頷いた。
「はい」
テオトニクスも、珍しく真面目に言った。
「了解っす」
その返事に、ラビエヌスが一瞬だけ目を細めた。
認めたのか、試しているのか――どちらにせよ、見られている。
カエサルは歩きながら、さらっと言う。
「あとで紹介する。ここの連中、癖が強いぞ。——お前らもだけどな」
軽い。
でも、この軽さに連れられて、足が前へ出る。
闘技場で勝つより、ずっと大きい場所に来てしまった。
それでも、戻らない。
この先、ローヌ川まで――そしてガリアまで。




