止まった足、進む覚悟
霧の街道を抜けても、血の匂いはしばらく鼻の奥に残った。
倒れた護衛が運ばれ、縛られた賊が引き立てられていく。その横を、カエサルは平然と歩く。
「……朝から面倒ごとだな。ローマってのは眠らせてくれない」
軽い調子のまま、彼は泥のついた靴を見下ろして舌打ちした。
「ほんとに靴の話ですか」と誰かが言いかけ、飲み込む。
ラビエヌスだけが変わらず前を見ている。笑わない男の背中が、逆に落ち着きを作っていた。
セリスィンは最後尾を歩いた。
足は動いているのに、さっき“止まった感覚”がまだ脚の裏に張りついている。
(俺は——あそこで死ねた)
賊の刃が落ちてくる瞬間まで、動けなかった。
あの石がなければ。あの一声がなければ。
横でテオトニクスが、いつもより抑えた声で言った。
「……さっきの、見たで。止まってた」
セリスィンは答えない。
テオは言い方を探すように一拍置いて、雑に続けた。
「責めてるんちゃう。……俺も“あの手の瞬間”は、油断したら固まる。固まったら終わりや」
優しいことを言う奴ではない。
それでも今のは、仲間の言葉だった。
セリスィンは唇を噛み、短く返した。
「……次は止まらない」
「ほな、ええ。次や」
それだけで会話は終わった。
テオは余計に慰めない。余計に踏み込まない。そういう距離の取り方が、逆に助かる時もある。
昼を過ぎ、草地の陰で小休止になった。
水を回し、乾いたパンを割る。護衛が周囲を見張り、賊の縄を締め直す。
セリスィンが水袋に口をつけたとき、あの若い貴族が近づいてきた。
整った顔立ち、迷いのない目。石を投げた男だ。
「さっきの」
唐突に言われ、セリスィンは顔を上げた。
「……助けた」
男は首を振る。
「助けたというより、無駄死にを減らした。お前が死ねば、こちらの損だ」
言い方は冷たい。だが目は冷えきっていない。
“現実”を先に置くタイプの目だ。
「名前を伺ってもいいか?」
セリスィンが問うと、男は少しだけ眉を動かした。
「デキムスだ」
それだけ名乗り、姓や家格は言わない。言わなくても伝わると分かっている態度。
セリスィンは短く頷いた。
デキムスは低い声で続ける。
「帰るなら今だと言ったのは、本気だ。勇気の話じゃない。向き不向きの話だ。戦場は、闘技場より理不尽だ」
セリスィンの胸がきしむ。
理不尽は、もう知っている。だからここにいる。
「帰らない」
セリスィンが言うと、デキムスは頷きも否定もしなかった。
「なら一つだけ忠告する。お前は“剣の腕”でここにいる。だが、この先は腕より——足だ。逃げる足じゃない。踏む足だ」
セリスィンは、自分の足裏を意識した。
止まった足。戻った足。まだ不確かな足。
デキムスは最後に、淡々と言った。
「次は石は投げない。投げれば俺の位置が割れる。俺も死ぬ。……それだけだ」
言い切って去っていく。
優しさではない。だが、背中は嘘がなかった。
夕方、野営になった。
小さな火がいくつか。煙は低く、目立たないように抑えられている。荷を囲んで護衛が立ち、ラビエヌスが短く配置を変える。命令が少ない。だから動きが速い。
セリスィンは火の外側、暗い場所で一人、足を動かしていた。
剣を振らない。いま必要なのは刃より先に出る足だ。
踏む。止める。戻す。
踏む。止める。戻す。
そこへ、軽い足音が来た。
「何してる?」
カエサルだった。
昼間と同じ調子で、火の明かりに顔を半分だけ照らしている。護衛が慌てて止めようとするが、カエサルは手で追い払った。
「閣下、危険です」とラビエヌスが遠くから言う。
カエサルは手をひらひらさせた。
「危険なのは分かってる。だから見に来た。——それに、俺は眠れない夜が嫌いなんだ。お前もだろ?」
セリスィンは答えなかった。
代わりに足を止め、息を整えた。
カエサルはセリスィンの足元を見て、少し笑った。
「いいね。剣闘士は刃を磨く。兵は足を磨く。——どっちも正しい」
軽い言い方なのに、妙に胸に落ちる。
セリスィンは思い切って言った。
「……俺は、止まりました」
カエサルは「ああ」とあっさり答えた。
「止まったな」
責めない。驚かない。
ただ事実として受け取っている。
「……俺は向いていないのか」
カエサルは少し首を傾げた。
「向いてないなら、そもそもここに来ない。向いてない奴は檻から出た瞬間に戻る。——お前は戻らなかった」
セリスィンの喉が動いた。
“戻らなかった”という評価が、剣の勝ち負けより重い。
カエサルは続けた。
「止まった理由がある奴は、伸びる。理由がない奴は、ただ壊れる」
その言い方が軽いからこそ、セリスィンは聞けた。
「理由は……ある」
カエサルは満足げに頷き、急に別の話題へ飛んだ。
「よし。じゃあ明日から一つだけやれ。
“止まりそうになったら、息を一回だけ吐け”。吸うな。吐け。吐いた分、足が戻る」
「……吐く」
「そう。吐くと、人は前に出られる。吸うと、守りに入る。簡単だろ?」
簡単ではない。
だが“やること”が一つに絞られたのは救いだった。
カエサルは背中を向け、歩き出しながら言う。
「俺はお前の剣が欲しいんじゃない。——お前が“止まった次に動く”のが見たい」
振り返りもせず、軽い調子で付け足す。
「あと、靴を大事にしろ。靴が死ぬと足も死ぬ。足が死ぬと、全部死ぬ」
その軽口が、今夜は笑えなかった。
笑えないくらい、真実だった。
カエサルが火の明かりへ戻ると、ラビエヌスの低い声が聞こえた。
「閣下、遊びが過ぎます」
「遊びじゃない。仕事だよ」
その返しすら、軽い。
夜が深くなり、テオトニクスが隣に腰を下ろした。
火の粉が跳ね、彼の横顔が赤く揺れる。
「なぁ。明日も、こんな“少数”で行くんか」
セリスィンが答える前に、テオは自分で答えを出すみたいに笑った。
「……行くんやろな。あの人、ほんまに“混む前に出る”って顔やったし」
セリスィンは足を動かしながら、短く言った。
「ついていく」
テオは頷き、拳を差し出した。
「ほな、ついて行こか。止まってもええ。戻ったら勝ちや」
セリスィンは拳を合わせた。
乾いた音が、小さな火の音に混じって消えた。
霧の向こうに、まだ道がある。
ローヌ川の名は、まだ遠い。
それでも足は、今夜は止まっていなかった。




