表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第6章 少年の旅立ち
58/165

霧の街道

テヴェレ川の霧は、離れてもしばらく肌に残った。

ローマの灯りが背中で小さくなるほど、音が減っていく。代わりに、土を踏む音と馬の鼻息がはっきり聞こえた。


隊列と呼べるほどの列じゃない。

荷を引く獣が一頭、護衛が数名、そして火のそばで名乗らずに場を支配していた男――カエサル。


彼は歩きながら、何でもない話をしていた。


「おい、昨日の闘技場の歓声、耳に残ってないか? あれな、酒より回るんだよ」


誰かが苦笑した。

ラビエヌスだけは笑わない。背筋を崩さず、周囲の影を読んでいる。


「閣下、前を見てください」


「見てるさ。ほら、今も見てる」


カエサルは軽く言いながら、ちゃんと“見ている声”だった。


セリスィンは歩きながら、頭の中で足を数えた。

一定。乱れない。乱れないようにしている。

それでも、身体の奥に残るものがある。


――闘技場の砂。

――門を抜ける時の刃の音。

――そして、仲間の拳。


(戻らない)


戻れないのに、前もまだ遠い。

その宙ぶらりんの感覚が、足首のあたりに絡みついて離れなかった。


「なぁ、セリスィン」


隣を歩くテオトニクスが、軽い声で言った。


「お前、ずっと考え事してる顔やで。ローマの霧より濃い」


セリスィンは答えない。

答えようとすると、喉の奥が詰まる。言葉はまだ、ここに置いていくべきものだった。


テオトニクスは気にしたふりもせず、前の若い貴族たちに声をかけた。


「なぁ、あんたらは何者なん? さっきから背筋ピンピンで、見てるこっちが肩こるわ」


若い男の一人が横目で見て、淡々と返した。


「名乗る必要はない」


「冷たっ。砂の上ならもうちょいサービスあるで」


「砂の上ではない」


会話が噛み合わない。だがテオは噛み合わせに行くのをやめない。

場を温める、というより“空気が固くなるのを防ぐ”喋りだ。


ラビエヌスが短く言った。


「静かに。鳥が先に飛ぶのは、風だけじゃない」


その言葉の直後だった。


道の脇の草が揺れた。

霧の中から、低い笛の音。合図だ。


次に、馬のいななき。

護衛の一人が倒れ、槍が地面を叩いた。


「伏せろ!」


ラビエヌスの声が鋭く落ちた。

同時にカエサルが、まるで散歩の延長みたいな調子で言う。


「来た来た。……早起きは得だな」


得、で済む空気ではない。

霧の中から現れたのは、山賊――の皮を被った連中だった。動きが揃っている。刃の持ち方が雑じゃない。狩り慣れた手。


狙いは荷でもない。馬でもない。


一直線に、カエサルへ来る。


(……俺たちじゃない。あの男だ)


セリスィンの背中が冷えた。

闘技場で砂に降りたのは見世物じゃない。命が狙われる世界の人間だ。


「閣下!」


護衛が前へ出る。

ラビエヌスが相手の足を止めるように動く。短く、確実に。戦場の動きだ。


若い貴族の一人――鋭い目の男が剣を抜いた。

もう一人も抜く。貴族の剣は飾りじゃない。抜く所作に迷いがない。


テオトニクスも剣を構えた。

さっきまで軽口だった顔が、急に静かになる。闘技場の時と同じ、“入る”顔。


「セリスィン! 来い!」


呼ばれて、セリスィンは――動こうとして、足が止まった。


霧。血の匂い。短剣の光。

橋の欄干。落ちる影。届かない手。


胸の奥が一瞬で狭くなる。

息が浅くなる。足裏の感覚が消える。


(……動け)


頭が命じる。身体が従わない。

闘技場なら、身体が勝手に動いた。

今は違う。ここは“誰かが死ぬ場所”だと、身体が理解してしまっている。


目の前を刃が横切った。

護衛の一人が切られ、倒れる。


「おいおい! 今のは笑えんて!」


テオトニクスが叫び、踏み込んだ。


一歩で距離を殺し、相手の手首を叩いて刃の線を外す。

次の一歩で、肩をぶつけて体勢を崩す。

闘技場の派手さじゃない。短く、確実に“終わらせる”動き。


賊の一人が倒れ、もう一人が後退した。

テオは追いすぎない。追えば囲まれると分かっている。


「次! 来いや!」


声は軽いのに、刃先は冷たい。

テオトニクスは活躍していた。ここが自分の場所だと言うみたいに。


一方でセリスィンは、まだ足が地面に戻らない。


(動けない)


情けなさが熱になる前に、現実が来る。


賊の一人がセリスィンに気づいた。

“動かない獲物”を見つけた目だ。刃を上段に構える。


セリスィンの指が剣の柄を握りしめた。

握っているのに、踏み込みが出ない。


――その瞬間、横から石が飛んだ。


賊の頬に当たり、刃が僅かに逸れる。

投げたのは、若い貴族の一人だった。顔立ちの整った男。投げ方が迷っていない。


「動け!」


彼が低く言う。命令でも叱責でもない。

“現実”をぶつける声だった。


それで、セリスィンの足裏が戻った。


一歩。

遅い。だが一歩。


セリスィンは踏み込み、剣を振った。

荒い。闘技場で“速さを鈍らせた”時と同じ、合図の少ない剣。


賊の刃が受けに回り、手が止まる。止まった瞬間、セリスィンは肩で入って距離を殺した。

刃が振れない距離。拳で相手の胸を押し、膝を崩す。


倒れた賊は呻き、刃を落とす。

殺さない。止めるだけ。


息が荒い。

動けたのに、動いた分だけ肺が焼ける。


戦いは、あっけなかった。


ラビエヌスが二人を倒し、護衛が一人を縛り、若い貴族たちが残りを散らした。

賊は“山賊”の顔で現れたくせに、散り方だけが兵だった。


カエサルは、血の匂いの中でも肩を落とさずに言った。


「朝から走らせるなよ。……靴が汚れた」


ラビエヌスが低く返す。


「閣下、冗談は後で」


「冗談じゃない。靴は大事だ」


軽い。軽いのに、目だけは周囲を見ている。

その矛盾が、逆に怖い。


若い貴族の一人がセリスィンを見た。

さっき石を投げた男だ。


「……足が止まっていたな」


セリスィンは言い訳を探し、飲み込んだ。

言い訳を出した瞬間、また止まる。


男は冷たくもなく、優しくもなく言った。


「帰るなら今だ。ローマは近い。次は石では助けない」


その一言が、刃より刺さった。


テオトニクスが口を挟みかけたが、男は視線を動かさない。

名を言っていないのに、声に“家柄”の重さがある。


セリスィンは歯を食いしばり、首を振った。


「……帰らない」


男はそれ以上言わず、前を向いた。


カエサルが、軽い調子で手を叩く。


「はい、決まり。帰らないなら歩け。次はもっと面倒なのが来るかもしれない」


そして、セリスィンにだけ聞こえるくらいの声で付け足した。


「……止まったのは悪くない。止まった理由を持ってる奴は、強くなる。

ただし、次に止まったら死ぬ。そこは覚えろ」


軽いのに、現実そのものの言葉だった。


一団は再び動き出した。

霧の街道を北へ。血の匂いを置き去りにして。


セリスィンは、遅れながらも皆の後を追った。

悔しさで足が動く。――それでも動く。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ