霧の街道
テヴェレ川の霧は、離れてもしばらく肌に残った。
ローマの灯りが背中で小さくなるほど、音が減っていく。代わりに、土を踏む音と馬の鼻息がはっきり聞こえた。
隊列と呼べるほどの列じゃない。
荷を引く獣が一頭、護衛が数名、そして火のそばで名乗らずに場を支配していた男――カエサル。
彼は歩きながら、何でもない話をしていた。
「おい、昨日の闘技場の歓声、耳に残ってないか? あれな、酒より回るんだよ」
誰かが苦笑した。
ラビエヌスだけは笑わない。背筋を崩さず、周囲の影を読んでいる。
「閣下、前を見てください」
「見てるさ。ほら、今も見てる」
カエサルは軽く言いながら、ちゃんと“見ている声”だった。
セリスィンは歩きながら、頭の中で足を数えた。
一定。乱れない。乱れないようにしている。
それでも、身体の奥に残るものがある。
――闘技場の砂。
――門を抜ける時の刃の音。
――そして、仲間の拳。
(戻らない)
戻れないのに、前もまだ遠い。
その宙ぶらりんの感覚が、足首のあたりに絡みついて離れなかった。
「なぁ、セリスィン」
隣を歩くテオトニクスが、軽い声で言った。
「お前、ずっと考え事してる顔やで。ローマの霧より濃い」
セリスィンは答えない。
答えようとすると、喉の奥が詰まる。言葉はまだ、ここに置いていくべきものだった。
テオトニクスは気にしたふりもせず、前の若い貴族たちに声をかけた。
「なぁ、あんたらは何者なん? さっきから背筋ピンピンで、見てるこっちが肩こるわ」
若い男の一人が横目で見て、淡々と返した。
「名乗る必要はない」
「冷たっ。砂の上ならもうちょいサービスあるで」
「砂の上ではない」
会話が噛み合わない。だがテオは噛み合わせに行くのをやめない。
場を温める、というより“空気が固くなるのを防ぐ”喋りだ。
ラビエヌスが短く言った。
「静かに。鳥が先に飛ぶのは、風だけじゃない」
その言葉の直後だった。
道の脇の草が揺れた。
霧の中から、低い笛の音。合図だ。
次に、馬のいななき。
護衛の一人が倒れ、槍が地面を叩いた。
「伏せろ!」
ラビエヌスの声が鋭く落ちた。
同時にカエサルが、まるで散歩の延長みたいな調子で言う。
「来た来た。……早起きは得だな」
得、で済む空気ではない。
霧の中から現れたのは、山賊――の皮を被った連中だった。動きが揃っている。刃の持ち方が雑じゃない。狩り慣れた手。
狙いは荷でもない。馬でもない。
一直線に、カエサルへ来る。
(……俺たちじゃない。あの男だ)
セリスィンの背中が冷えた。
闘技場で砂に降りたのは見世物じゃない。命が狙われる世界の人間だ。
「閣下!」
護衛が前へ出る。
ラビエヌスが相手の足を止めるように動く。短く、確実に。戦場の動きだ。
若い貴族の一人――鋭い目の男が剣を抜いた。
もう一人も抜く。貴族の剣は飾りじゃない。抜く所作に迷いがない。
テオトニクスも剣を構えた。
さっきまで軽口だった顔が、急に静かになる。闘技場の時と同じ、“入る”顔。
「セリスィン! 来い!」
呼ばれて、セリスィンは――動こうとして、足が止まった。
霧。血の匂い。短剣の光。
橋の欄干。落ちる影。届かない手。
胸の奥が一瞬で狭くなる。
息が浅くなる。足裏の感覚が消える。
(……動け)
頭が命じる。身体が従わない。
闘技場なら、身体が勝手に動いた。
今は違う。ここは“誰かが死ぬ場所”だと、身体が理解してしまっている。
目の前を刃が横切った。
護衛の一人が切られ、倒れる。
「おいおい! 今のは笑えんて!」
テオトニクスが叫び、踏み込んだ。
一歩で距離を殺し、相手の手首を叩いて刃の線を外す。
次の一歩で、肩をぶつけて体勢を崩す。
闘技場の派手さじゃない。短く、確実に“終わらせる”動き。
賊の一人が倒れ、もう一人が後退した。
テオは追いすぎない。追えば囲まれると分かっている。
「次! 来いや!」
声は軽いのに、刃先は冷たい。
テオトニクスは活躍していた。ここが自分の場所だと言うみたいに。
一方でセリスィンは、まだ足が地面に戻らない。
(動けない)
情けなさが熱になる前に、現実が来る。
賊の一人がセリスィンに気づいた。
“動かない獲物”を見つけた目だ。刃を上段に構える。
セリスィンの指が剣の柄を握りしめた。
握っているのに、踏み込みが出ない。
――その瞬間、横から石が飛んだ。
賊の頬に当たり、刃が僅かに逸れる。
投げたのは、若い貴族の一人だった。顔立ちの整った男。投げ方が迷っていない。
「動け!」
彼が低く言う。命令でも叱責でもない。
“現実”をぶつける声だった。
それで、セリスィンの足裏が戻った。
一歩。
遅い。だが一歩。
セリスィンは踏み込み、剣を振った。
荒い。闘技場で“速さを鈍らせた”時と同じ、合図の少ない剣。
賊の刃が受けに回り、手が止まる。止まった瞬間、セリスィンは肩で入って距離を殺した。
刃が振れない距離。拳で相手の胸を押し、膝を崩す。
倒れた賊は呻き、刃を落とす。
殺さない。止めるだけ。
息が荒い。
動けたのに、動いた分だけ肺が焼ける。
戦いは、あっけなかった。
ラビエヌスが二人を倒し、護衛が一人を縛り、若い貴族たちが残りを散らした。
賊は“山賊”の顔で現れたくせに、散り方だけが兵だった。
カエサルは、血の匂いの中でも肩を落とさずに言った。
「朝から走らせるなよ。……靴が汚れた」
ラビエヌスが低く返す。
「閣下、冗談は後で」
「冗談じゃない。靴は大事だ」
軽い。軽いのに、目だけは周囲を見ている。
その矛盾が、逆に怖い。
若い貴族の一人がセリスィンを見た。
さっき石を投げた男だ。
「……足が止まっていたな」
セリスィンは言い訳を探し、飲み込んだ。
言い訳を出した瞬間、また止まる。
男は冷たくもなく、優しくもなく言った。
「帰るなら今だ。ローマは近い。次は石では助けない」
その一言が、刃より刺さった。
テオトニクスが口を挟みかけたが、男は視線を動かさない。
名を言っていないのに、声に“家柄”の重さがある。
セリスィンは歯を食いしばり、首を振った。
「……帰らない」
男はそれ以上言わず、前を向いた。
カエサルが、軽い調子で手を叩く。
「はい、決まり。帰らないなら歩け。次はもっと面倒なのが来るかもしれない」
そして、セリスィンにだけ聞こえるくらいの声で付け足した。
「……止まったのは悪くない。止まった理由を持ってる奴は、強くなる。
ただし、次に止まったら死ぬ。そこは覚えろ」
軽いのに、現実そのものの言葉だった。
一団は再び動き出した。
霧の街道を北へ。血の匂いを置き去りにして。
セリスィンは、遅れながらも皆の後を追った。
悔しさで足が動く。――それでも動く。




