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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第6章 少年の旅立ち
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テヴェレ河畔

裏門を抜けた瞬間、空気の匂いが変わった。

砂と油の匂いじゃない。土と川の湿り気――“街の外”の匂いだ。


セリスィンは走った。振り返らない。

振り返れば、門の向こうで刃が鳴った音と、罰を引き受けた背中が、足を止める。


テオトニクスも並走していた。顔はまだ青いのに、息は切らさないように抑えている。倒れた身体で、よくここまで持たせている。


「……生きてるか」


セリスィンが低く言うと、テオトニクスは鼻で笑った。


「死んでたら走られへんやろ。……ほんま、えらい夜やな」


路地を抜け、石畳の広い道を避け、暗い壁沿いを繋いでいく。

追手の足音は遠い。だが消えてはいない。狩りは諦めない。


フィブラで外套を留め直し、砥石の硬さを掌で確かめる。

小物なのに、やけに頼もしい。カタルスとシリアスの拳の温度が残っている気がした。


やがて街の灯りが薄れた。

低い霧が出て、空の端が少し白い。夜明け前。時間は約束どおり、ぎりぎりだった。


テヴェレ川の音が近づく。

水の流れは暗く、湿った風が肌を撫でる。草むらを踏むと、靴底が泥を拾った。


「……ここだ」


霧の中から、先に立っていた影が浮かぶ。


ジムージーだった。


「遅い」


言い方はいつもどおり軽いのに、目が鋭い。背後の暗がりまで見ている目だ。


「追われてた」とセリスィンが言うと、ジムージーは肩をすくめた。


「だろうな。上が動けば下も動く。賭け屋も政治屋も、どっちも同じだ。……ま、来たならいい」


それ以上は聞かない。

聞かないことが、少しだけ助かった。


「こっちだ」


ジムージーが顎で示した先に、火が一つだけ灯っていた。大きな焚き火じゃない。目立たない火だ。

その周りに人影が――思ったより、ずっと少ない。


セリスィンは思わず足を止めた。


(……これだけ?)


護衛が数名。馬が数頭。荷を引く小さな輓獣が一頭。

軍勢の気配がない。旗もない。隊列もない。


火のそばに立つ男がひとり。

昼に砂へ降りた、あの男だ。


けれど今夜の彼は、重々しく立っているわけではなかった。

誰かの庭にでも立ち寄ったような顔で、火に手をかざしている。近くの者に何か言って、短く笑わせてもいた。


カエサルは、セリスィンとテオトニクスを見るなり、まず言った。


「お、来たな。――よし。死んでない。合格だ」


冗談の形なのに、場が締まる。

軽い言い方で、人の背筋を伸ばさせる声だった。


隣に立つ男が一歩前へ出る。背は高く、目が冷静で、武人の静けさがある。


「遅刻は嫌いだが、間に合ったならいい」


ジムージーが小さく言った。


「副将――ラビエヌスだ」


その後ろには若い男が数人いた。

姿勢に育ちが出る。貴族の匂いがする。だが目は甘くない。遊びではなく、仕事でここにいる目だ。


テオトニクスが、人数を数えるように辺りを見て口を開いた。


「……閣下。軍は? もっと大所帯かと思いましたわ」


カエサルは、さらっと言った。


「その顔、好きだな。“もっと人がいるはず”って顔だ」


テオトニクスが言い返す前に、カエサルは肩をすくめる。


「安心しろ。後から来る。今日は先に出るだけだ。――混む前に出たいんだよ」


まるで市の混雑を嫌うみたいな口ぶりで、重大なことを言う。


ラビエヌスが補う。


「本隊は後着する。先遣の随行だ」


「先遣でこれだけ?」とテオトニクスが言うと、カエサルは火のそばの木箱を指した。


「文句は後だ。まず水を飲め。顔が乾いてる。剣闘士は格好を気にするが、兵は喉を気にする」


“喉を気にする”と言いながら、カエサル自身が水袋を取って一口飲む。

それだけで場の空気が少し緩む。緩むのに、だらけない。妙なバランスだった。


セリスィンが問う。


「……ここに長居しないのですか」


カエサルは、面倒くさそうに手をひらひらさせた。


「長居したいなら、良い宿でも取れ。ここは川だ。霧も出る。――それに“客”も来る」


「客?」とテオトニクスが言い返すと、カエサルは笑った。


「狩りのほうの客だ。お前ら、今夜ずいぶん人気だな」


ジムージーが鼻で笑う。


「……ほらな。追ってくる」


火の向こうで、若い貴族たちがこちらを見ていた。

好奇心と警戒が混じった目。剣闘士を見物する目ではない。これから同じ道を行く“人員”を見る目だ。


セリスィンはその視線を受け止め、視線を逸らさなかった。

剣闘士をやめる。戦士になる。――言葉はまだ重いが、足はもう戻らない。


カエサルが、軽い調子で手を打った。


「よし。出るぞ。――迷子になるなよ。迷子は置いてく」


冗談みたいに言って、冗談ではないのが分かる言い方だった。


少数の一団が動き出す。

川霧の中、馬の蹄が湿った土を踏み、荷が小さく揺れる。


セリスィンは最後に一度だけ、ローマの灯りが残る方向を見た。

そこに、門の向こうの背中がある気がして、すぐに目を切った。


(返す)


借りは、必ず返す。


そのとき、道の先――霧の向こうで、鳥が一羽、異様に早く飛び立った。

草がわずかに揺れる。誰かが、そこにいたみたいに。


ラビエヌスが歩きながら短く言った。


「……目がある」


カエサルは、振り返りもせずに言った。


「来るなら来い。起きてるうちに片づけたい」


軽い言葉なのに、背筋が冷えた。

この男は冗談の顔で、本気のことを言う。


少数の一団は、そのまま北へ向かった。

まだ軍団も旗もない。あるのは、速さと、決めた足だけだ。

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