ルドゥスへのお別れ
裏門へ向かう通路は細く、石壁が夜気を噛んで冷たかった。
遠くでまだ、正門の騒ぎが燻っている。怒鳴り声と咳、金具の音――火が落ち着いても混乱は落ち着かない。
セリスィンとテオトニクスが足を止めたのは、裏門の手前、影が濃い角だった。
そこで待っていたのはカタルスとシリアスだ。
カタルスは言葉を削るように言った。
「ここから先は、走るな。音が響く」
シリアスが苦笑する。
「走りたいのは分かるが、走るほど追手に“ここだ”と言うだけだ」
テオトニクスが鼻で息を吐いた。
「追手、まだおるんか」
「いる」とカタルスは即答した。「ダグラス一派が噛んでも、全部は止まらない」
セリスィンは喉の奥で、ダグラスの悪態を思い出した。
面子だ、貸しだ、返せ――言い方は荒いのに、背中は頼もしかった。
(返す)
そう心の中で言った瞬間、カタルスがセリスィンの手に小さなものを押し込んだ。
青銅の留め具――フィブラ。
擦れているが、歪みがない。使い込まれた頑丈さがある。
「外套を留めろ。走るとずれる。ずれたら手が塞がる」
次にシリアスが、掌にもう一つ落とした。
黒い小さな砥石。握ると冷たい。
「刃は命だ。兵でも剣闘士でもな。……研ぐのを忘れるな」
セリスィンは受け取った。
フィブラの硬さと砥石の冷たさが、指先から胸へ刺さる。
言葉が出ない。代わりに、カタルスが拳を差し出した。
「行け」
セリスィンも拳を出した。
拳と拳がぶつかる乾いた音が、通路の石に短く跳ねた。
シリアスも同じように拳を出す。
「生きろ。勝てとは言わん。死ぬな」
テオトニクスも拳を合わせた。まだ少しふらつく身体で、それでもしっかりと。
「……世話になった」
カタルスは表情を変えないまま、ほんの少し顎を上げた。
「礼はいらない。借りは生きて返せ」
その直後、足音が増えた。
遠いが、近づいている。数がいる。狩りの足音だ。
カタルスが一歩前へ出る。
「最後の砦は――俺たちが引き受ける」
シリアスが笑った。
「砦というより、関所だ。――通るには“体裁”がいる」
セリスィンの背中が冷える。
体裁。その言葉は今夜、鎖より強い。
角を曲がると、裏門が見えた。
大きな木の門。鉄の補強。
そして門の前に、ひとり。
グラシアムは杖ではなく、剣を抜いて立っていた。
刃は月光を拾い、動かないのに圧がある。
「止まれ」
低い声が落ちる。
それだけで、ここが“教育の場”であり“檻”であり“商品置き場”であることを思い出させる声だった。
セリスィンが一歩出かけた、その前に――
カタルスとシリアスが、すっと前へ出た。
「行け」
カタルスは振り返らずに言った。
シリアスも同じく、門へ向けて顎をしゃくる。
「走れ。……ここは俺たちが引き受ける」
セリスィンは拳の中のフィブラと砥石の冷たさを確かめ、テオトニクスの袖を掴んだ。
二人は息を殺し、壁際を抜けて裏門へ向かう。
その間に、カタルスとシリアスは“戦う位置”に立った。
剣闘士の立ち方だ。相手の線を潰す立ち方。
グラシアムは剣先をわずかに上げた。
「難儀なものですね」
カタルスの声が冷たく落ちる。
「全くその通りだ」
グラシアムは即答した。
「俺が何もせず門を開けたら、このルドゥスは“命令に逆らった”ことになる。……だから止める」
シリアスが苦笑する。
「命令に従って出すのに、逆らったことになる。上の世界は面倒だな」
「多くは語るな。――来い」
グラシアムが一歩踏み、刃が走った。
カタルスが受ける。
受けるのではなく、角度で外す。刃と刃が触れ、乾いた金属音が通路に跳ねた。
シリアスはすぐ横に立ち、門番たちの視界を遮るように位置をずらす。
戦いの形は見せる。だが、殺し合いにはしない――それが“体裁”だ。
「……お前ら、早く行け」
シリアスが、剣を合わせながら吐き捨てる。
口調は軽いのに、目は笑っていない。
セリスィンとテオトニクスは、その背中をすり抜けるように走った。
門番の一人が「待て!」と叫びかけたが、シリアスが一歩寄り、剣先で床を叩くように制する。
「動くな。巻き込まれたいか」
門番が凍る。
それだけの“迫力”が、シリアスにはあった。
裏門の閂は、すでに半分外されていた。
カタルスがどこで手を回したのかは分からない。だが今は感謝を言う暇もない。
セリスィンが肩で門を押す。
重い。だが開く。隙間から夜の空気が流れ込む。川の湿り気、土の匂い、遠い街の灯。
「――行け!」
カタルスの声が背中から飛ぶ。
刃が鳴る。足音が増える。追手が近づく気配がする。
セリスィンとテオトニクスは門を抜けた。
二人の影が外へ滑り出た瞬間――
グラシアムが、すっと剣を下ろした。
金属音が止む。
空気が一段、冷える。
「そこまでだ」
カタルスもシリアスも動きを止めた。
息が荒いわけではない。最初から“止めるための戦い”しかしていない。
門の外へ消えた足音を確かめるように、グラシアムは一度だけ視線を外へ投げ、それから門番と世話役へ向き直った。
「見た通り、俺は止めた。……だが通り抜けられた。こいつらの妨害でな」
門番が唾を飲む。
世話役が青い顔で頷く。
グラシアムは声を落とし、最後の釘を刺す。
「――脱走者は罰しようもないが脱走の手引きは“規律違反”として罰せられる」
カタルスが苦笑した。
「そう言うと思った」
シリアスも笑う。
「できるだけお手柔らかに頼みますよ」
グラシアムは鼻で息を吐き、剣を鞘へ戻した。
「軽くはしない。だが、お前らが跳んで喜ぶような追加訓練を添えてやる」
あぁあ、当面は食事もままならない日が続きそうだなと二人はぼやくもどこか嬉しそうな顔で頷いた。
その頷きが、セリスィンとテオトニクスを外へ通すための最後の楔だった。
門の外では、もう足音が遠ざかっている。
ここに残った者たちは、罰を受ける。
それでも――通した。
体裁のために剣を抜き、体裁のために罰を与え、
その裏で剣闘士たちの夢を外へ流した。




