裏門へ走れ
煙が目に刺さる。油の匂いが喉に絡む。
正門の方角では怒号と咳が混じり、松明が倒れて火が跳ねた。――ダグラスの一派が作った、わざとらしい混乱だ。
「こっち! 走れ!」
取り巻きの一人がセリスィンの腕を掴み、廊下へ引きずる。
テオトニクスも続いた。ふらつきはあるが、遅れない。遅れればそこで終わると分かっている目だった。
曲がり角ごとに、別の男が待っている。
「次、右だ」「ここは通るな」と短い指示だけが飛ぶ。まるで普段から抜け道の稽古でもしていたみたいに迷いがない。
「……お前ら、いつの間に」
セリスィンが息の合間に絞り出すと、取り巻きは口だけ歪めた。
「自慢じゃねえが、このルドゥスの“裏”は俺らの飯だ。裏が分からん剣闘士は、いつか死ぬ」
廊下の先、木戸の隙間から外光が差していた。獣舎の搬入口だ。
臭気が強い。藁と糞と汗。鎖の金具の匂い。剣闘士が“商品”だと否応なく思い知らされる場所。
木戸の前で、案内役が足を止めた。
「……静かに」
耳を澄ますと、外から足音が聞こえる。
世話役の走り方じゃない。もっと静かで、間が揃っている。狩りの足音だ。
テオトニクスが眉を寄せ、声を落とす。
「……あの影、もう回り込んできとる」
案内役が歯噛みした。
「正門で揉めてる間に、裏へ来やがった。早い。――こいつら、ただの賭け屋じゃねえ」
木戸の隙間から覗く。
路地の影に二人、いや三人。荷を持つふりは捨てている。短剣の柄が見える。顔は見えないが、立ち方が“兵”に近い。
セリスィンの背中が冷えた。
(殺しに来てる)
引き渡しが成立しようがしまいが関係ない。
このまま揉めて時間が伸びれば伸びるほど、狩りは近づく。
そのとき、背後からドスの利いた声が飛んだ。
「おい」
振り向くと、ダグラスが立っていた。息は上がっていない。むしろ楽しそうにすら見えるのが腹立たしい。
「出番だ。お前らは“ここ”から先に行け。俺らがあいつらを噛ませる」
セリスィンが口を開く前に、ダグラスは先回りして吐き捨てた。
「勘違いすんな。義理じゃねえ。面子だ。
このルドゥスの稼ぎ頭が、檻の中で“消されました”じゃ、誰の顔が潰れると思ってんだ」
取り巻きが短く笑う。
悪態の形でしか言えない連中の、覚悟の笑いだ。
木戸の鍵が外された。
軋む音が嫌に大きい。外の影がわずかに動くのが見えた。
ダグラスが顎で命じる。
「行け」
セリスィンは一瞬だけ迷った。
ここで立ち止まるのは簡単だ。助太刀もできる。だが――それをした瞬間、逃げ道が潰れる。
テオトニクスがセリスィンの袖を掴み、低く言った。
「今は、行くんや。……借りは返せる」
ダグラスが、わざと軽い調子で追い打ちした。
「そうそう。返せ。あとでな」
セリスィンは歯を食いしばり、木戸を抜けた。
冷たい外気が肺に刺さる。路地は狭く、壁が高い。逃げ道は一本に見える。
その背後で、ダグラスの声が響いた。
「おい、犬ども。ここは通行止めだ」
影が応じる。金属が鳴る。短剣が抜かれる音。
「どけ。二人を渡せ」
「渡す? 誰に? ここは俺の通り道だ。勝手に歩かせるかよ」
次の瞬間、乱戦の音が始まった。
殴打、壁に叩きつける鈍い音、鎖が鳴る音。刃の“走る”音が混じり、それを“潰す”音が追いかける。
セリスィンは走りながら、背中越しにそれを聞いた。
胸の奥が熱くなるのに、足は止めなかった。
(生きろ――“ここで”じゃない)
カタルスの声が脳裏に落ちる。シリアスの声も続く。
生きろ。勝てとは言わん。死ぬな。
路地を二つ曲がったところで、案内役が最後の指示を吐いた。
「この先、獣舎の裏を抜けて、井戸の横の低い塀を越えろ。裏門へ出る。
……そこに、待ってる奴がいる」
「誰だ」
案内役は答えなかった。答える余裕がない。
後ろから追い足が来る。ダグラス一派が噛みついているはずなのに、それでも“狩り”は一匹ではない。
塀を越えた瞬間、背後の路地に影が一つ現れた。
短剣の刃が月明かりを拾う。
「止まれ」
セリスィンが振り向くより早く、テオトニクスが前に出た。
足元はまだ万全じゃない。それでも、出た。
「悪いな。急いどる」
軽口の形のまま、テオトニクスは短剣の手を“崩す”ように踏み込んだ。
闘技場の剣じゃない。街の喧嘩より早い。短く、確実に距離を殺す動き。
短剣が振られる前に、手首が止まる。
肩がぶつかり、相手が壁へ背を打った。息が漏れる。
セリスィンは一撃だけ添えた。
殴るのではない。倒すための押し。相手の足を奪い、砂利の上へ転がす。
殺さない。止めるだけ。
それがいま必要な“勝ち方”だった。
二人が走り出すと、すぐ先の影から声がした。
「……遅い」
聞き覚えのある、冷たい声。
カタルスが、井戸の陰から現れた。
その横に、シリアス。腕を組み、苦笑している。
「若いのは走り方が派手だ。追手に分かりやすい」
セリスィンは息を整える暇もなく、二人を見た。
「なぜ……ここに」
カタルスは答えず、短く言った。
「裏門はもうすぐだ。――最後の砦が待っている」
シリアスが頷く。
「ここから先は、体裁の話になる」
体裁。
その言葉が、今夜のすべてを支配している。
路地の向こうから、また足音が増えた。
狩りは終わっていない。
カタルスが一歩前へ出る。
「行くぞ」
セリスィンは頷いた。
拳を握り、ほどき、また握る。
次の角を曲がれば、裏門。
そこに立つのが誰か――もう想像はついていた。




