鎖の値段
夜明け前のルドゥスは、昼の喧騒が嘘みたいに静かだった。
砂地に残った足跡だけが、まだ昨日を引きずっている。
セリスィンは目を開けたまま、天井の暗がりを見ていた。
眠れなかった、というより――眠る必要を身体が忘れていた。
廊下の奥で、鍵束が鳴る。
続いて、世話役の足音。焦っている足だ。
「……起きてるな?」
戸口に立った世話役は、いつもの横柄さを隠しきれずに言った。だが声の端に、妙な丁寧さが混じっている。
「支度をしろ。“引き渡し”だ」
引き渡し。
カエサルが言ったあの言葉が、ここまで届いたということだ。
セリスィンは立ち上がり、外套を掴む。
指先が震えていない。代わりに、胸の奥が冷えていた。命令が届くほどの“上”に目をつけられたと、身体が理解している冷えだ。
隣ではテオトニクスが、すでに起きていた。
額の布は取れているが、頬はまだ青白い。それでも口は回る。
「お、来た来た。ほな行こか……って、なんやその顔。葬式ちゃうで?」
セリスィンは答えずに歩いた。答える言葉がなかった。
正門前には松明が焚かれ、門番が二人、槍を持って立っていた。
その前に、役人風の男が二人。護衛が一人。封蝋のついた書面を掲げ、声を張っている。
「執政官閣下の命による! 契約の買い取りは成立した。直ちに二名を引き渡せ!」
命令は明確だった。
それでも空気が動かないのは、門の内側に立つ男のせいだ。
ラニスタ――ルドゥスの頭。
腹は出ていても目は鋭く、剣闘士を見る目ではない。“金額”を見る目だ。
「成立、だと?」
ラニスタはわざとゆっくり言った。
「金は届いちゃいねえ。こっちは“商品”を預かっている。渡してから揉めたら、誰が尻を拭く?」
役人が歯を食いしばる。
「金は既に送られている。受領の確認を——」
「受領の証がない」
ラニスタは肩をすくめた。
その仕草ひとつで、門番の背が強張る。命令が上でも、檻の鍵はこっちが持っている――そう言わんばかりだ。
セリスィンは門の内側、少し離れた位置でそのやり取りを見ていた。
“命じた”はずなのに、現場は止まる。止められる。
ローマはそういう国だ。
剣より金。命令より損得。正しさより体裁。
テオトニクスが、隣で小さく息を吐いた。
「……引き延ばす気やな。露骨すぎん?」
「黙れ」とセリスィンは言いかけて、飲み込んだ。
黙るべきは自分だ。ここは闘技場じゃない。声を出せば、弱みになる。
役人が声を落として言う。
「ラニスタ殿。これは閣下の——」
「閣下の、何だ?」
ラニスタはにやりと笑った。
「閣下にも体裁ってもんがある。俺にもある。ほら、見ろ」
ラニスタが顎で示した先――門の外、道の端に“余計な影”があった。
荷運びのふりをした男が二人。手が空いている。視線が鋭い。足が静かで、揃っている。
役人の護衛とは違う。
門番の立ち方とも違う。
狩りの立ち方だ。
セリスィンの背中に、冷たい汗が流れた。
引き渡しが揉めている間に、“狩る”つもりの連中が寄ってきている。
(ただの金の揉め事じゃない)
“誰か”が、この隙を待っている。
賭けの胴元かもしれない。元老院派の手先かもしれない。理由は何でもいい。二人がカエサルの手に渡る前に消せば、それで目的は達する。
テオトニクスも気づいたらしく、声を抑えて言った。
「……おい、あれ。友達ちゃうやろ」
セリスィンは返さない。返せば、視線が吸われる。
吸われた瞬間に足がずれる。足がずれれば終わる。
そのとき、背後から乱暴な声が飛んできた。
「朝っぱらから何やってんだよ、うるせぇな!」
振り向くまでもない。声で分かる。
ダグラス。
取り巻きを連れて、門前の空気を割るように入ってきた。
顔は不機嫌そのものだが、目だけが妙に落ち着いている。空気を読んでいる目だ。
ダグラスは役人とラニスタを一瞥し、それからセリスィンを見た。鼻で笑う。
「お前さぁ……何その顔。勝ったくせに、毎回“負けた顔”してんじゃねぇよ」
セリスィンは言葉を返さない。
返した瞬間、何かが崩れそうだった。
ダグラスは続けた。悪態の形で、妙に核心を突く。
「ていうか、こっちが困るんだよ。稼ぎ頭が抜けたら、誰が飯食わせるんだ?」
「おい、ダグラス!」と世話役が咎めるが、ダグラスは聞かない。
「……でもよ」
ダグラスは声を少し落とし、取り巻きにだけ通じる合図を指で作った。
取り巻きが散る。門番の後ろへ、廊下の角へ、武具庫のほうへ。目的が見える散り方だ。
「外のあいつら、臭い。賭け屋か、政治屋か知らねぇけど、ろくでもねぇ。
ここでお前らが“消えた”ら、うちの面子が潰れる」
面子。
それは、剣闘士の世界でも通じる言葉だった。
テオトニクスが、少し笑う。
「結局、自分のためやん」
ダグラスは即座に吐き捨てる。
「当たり前だろ。誰が好き好んで他人のために動くかよ」
そう言いながら、ダグラスはセリスィンの肩を――痛い程度に叩いた。
乱暴だが、叩き方が合図だった。
“今から動く”という合図。
ダグラスはわざと大きな声に戻す。
「おいラニスタ! 金がどうとか知らねぇけどよ、門塞いでんじゃねぇよ! 俺らの朝稽古、遅れるだろ!」
ラニスタが眉を吊り上げる。
「ダグラス、黙ってろ。話が——」
「話? 話はいいから飯を寄越せ!」
取り巻きが笑い、周りの剣闘士がざわつく。
門番の注意が一瞬だけ、内側へ寄った。
セリスィンは見逃さなかった。
門前の空気が“割れる”一拍。
ダグラスがセリスィンの横に寄り、歯を見せずに言う。
「表で揉めさせる。裏で出す。
お前らは“脱走”じゃねぇ。“引き渡し”だ。分かるな?」
セリスィンは、短く頷いた。
その頷きだけで、胸の奥に火が点いた気がした。
ダグラスが最後に、笑うでもなく言う。
「……行け。ここで死なれたら、寝覚め悪い」
悪態の形をした、餞別だった。
その瞬間――取り巻きの一人が、わざとらしく足をもつれさせた。
「うわっ!」
松明の台にぶつかり、火が跳ねる。
油がこぼれ、煙が上がる。門番が叫び、世話役が走り、護衛が体勢を変える。
門前が一気に乱れた。
「火だ!」「下がれ!」「水桶持ってこい!」
その混乱の影で、ダグラスの取り巻きがセリスィンの腕を掴んだ。
「こっち!」
セリスィンは一瞬だけ、門の外の“影”を見た。
あの男たちも動いた。混乱に乗じて、こちらへ寄ってくる。
(来る)
テオトニクスが隣で舌打ちする。
「ほんまに来よったな……!」
セリスィンは走り出した。
ダグラス一派が作った煙幕の中へ、そして裏手の闇へ。
背後で、ラニスタの怒鳴り声が聞こえる。
「待て! どこへ——!」
だが待つ理由はない。
ここで止まれば、命令でも金でもなく、“刃”が来る。




