鎖の付け替え
その一言で、部屋の空気が“刃”になった。
机の上の封蝋、硬貨の袋、蝋板。どれも小さいのに、重い。
セリスィンは息を止めなかった。止めれば、また足が逃げる。
テオトニクスも同じだった。ふらつきはあるのに、視線だけは真っ直ぐに立っている。
カエサルは二人を見比べ、淡々と続けた。
「今の暮らしを続けるなら、それでもいい。闘技場は分かりやすい。勝てば名、負ければ死。誰が見ても理解できる」
言葉は平たいのに、言い方が平たくない。
“理解できる”という言葉が、まるで「浅い」と言っているみたいだった。
カエサルは机の封蝋を指先で軽く叩く。
「だが、戦場は違う。勝っても名前が残らないことがある。負けても死なないことがある。――その代わり、命令に背けば、確実に終わる」
テオトニクスが口を挟んだ。
「……終わる言うても、結局は死ぬんやろ」
部屋の男(側近らしい)が眉を動かしたが、カエサルは止めなかった。
むしろ少しだけ口元を歪める。
「良い。口が回るのは悪くない。だが“口”で生きるつもりなら、闘技場に残れ。俺が要るのは、“口”より“足”と“目”だ」
テオトニクスは肩をすくめた。
「足と目やったら、今日見たやろ。……それでも足りんのか」
「今日見たから、呼んだ」
その即答に、テオトニクスの目が一瞬だけ鋭くなる。
冗談が挟まる余地がない。本気の場だ。
カエサルはセリスィンへ視線を移す。
「お前は、何を望む」
セリスィンは喉の奥で言葉を探した。
望みはある。だが口にすれば、また自分が固くなる気がした。
それでも、答えないわけにはいかない。
「……強くなる」
カエサルは頷きもしなかった。否定もしなかった。
ただ、次の言葉を置く。
「強さは目的ではない。道具だ。何に使う」
その問いで、橋の欄干が脳裏に浮かぶ。
掴めなかった手。落ちた影。届かなかった距離。
セリスィンは、短く答えた。
「……届くために」
カエサルの目が、ほんの僅かだけ細くなる。
気に入ったのか、気に入らないのか、判別できない薄い変化。
「なら、選択は早い」
カエサルは机の上の封蝋の書面を、側近の男に顎で示した。
側近は蝋板を開き、事務の声で説明する。
「闘技場の管理者とルドゥスの頭に命じた。お前たち二人の契約は、こちらが“買い取る”。身柄は我々の預かりになる」
セリスィンの胸がひやりとした。
「……自由になるのか」
側近は即答しない。代わりにカエサルが答えた。
「鎖は外す。だが、別の鎖をつける。俺の遠征が終わるまでだ」
テオトニクスが、寝台の端を指先で叩きながら言う。
「“終わるまで”って、いつや。ガリアて、すぐ終わる話ちゃうやろ」
カエサルはまっすぐ見た。
「すぐ終わらせるつもりで行く。だが、終わる保証はしない。――だから選べと言っている」
沈黙が落ちる。
セリスィンは、自分の手を見た。
剣闘士の手だ。砂の匂いが染みついた手。勝つたびに何かを失って、負けるたびにもっと失う手。
(剣闘士としてやっていく覚悟を決めたのに)
だが、覚悟を決めた直後に、世界のほうが別の道を差し出してくる。
それがローマだ。強い者の国だ。
カエサルは椅子に腰掛けず、立ったまま言う。
「お前たちに兵の礼儀は教える。隊列の動きも、命令の聞き方も。剣闘士のままでは使わない」
テオトニクスが鼻で笑う。
「使う気まんまやん」
「使う」
カエサルは隠さない。
「だが、使い潰しはしない。良い刃は、研いで残す」
その言い方が、妙に現実的で、妙に信用できた。
甘い言葉より、ずっと。
側近が続ける。
「明朝、夜明け前。テヴェレ川沿いの詰所へ来い。遅れれば話は終わりだ。――来れば、まず署名と誓約。次に装備と宿舎。そして監督官の下へ」
セリスィンは問うた。
「拒めば?」
側近の目が冷たくなる。
「拒める。だが“買った”金は戻らない。闘技場の側は、お前たちを快くは戻さないだろうな」
要するに、戻っても以前と同じではない。
“上”に目をつけられた剣闘士は、もう元の檻では飼えない。
テオトニクスが小さく舌打ちした。
「綺麗な言い方で逃げ道塞ぐん、上手いな」
カエサルは気にした様子もなく、最後にセリスィンへ言う。
「迷いは分かる。だが迷いは、戦場で最初に死ぬ」
そしてテオトニクスへ。
「お前は口が回る。口を回す前に、頭を回せ」
テオトニクスは、なぜか少しだけ笑った。
「……嫌いやないわ、その言い方」
カエサルはそれ以上、何も言わなかった。
踵を返し、護衛と側近が道を作る。部屋の空気が、彼の背中について動いた。
扉の前で、カエサルが一度だけ振り向いた。
「明朝だ」
それだけ言って出ていく。
残された部屋に、ようやく人の息が戻った。
ジムージーが壁際から現れ、肩をすくめる。
「な? 言ったとおりだろ」
セリスィンは答えない。
代わりに、床に落ちた自分の呼吸を拾うみたいに、ゆっくり息を吸った。
テオトニクスが小さく言う。
「……お前、行くんか」
セリスィンは少し間を置いて答えた。
「行く」
即答ではなかった。
だが言った瞬間、肩の奥の重みが少しだけ整理された気がした。
テオトニクスは天井を見て、短く笑う。
「しゃあないな。……ほな、俺も行くわ。置いてかれたら腹立つし」
ジムージーが愉快そうに鼻を鳴らした。
「決まりだな。――さあ、戻れ。夜明け前だ。寝ろ。寝られなくても、目を閉じろ」
部屋を出ると、夜風が冷たかった。
だが、セリスィンの足は逃げなかった。
闘技場の砂から、戦場の土へ。
鎖が外れるのではない。鎖が付け替わるだけだ。
それでも――届く先が変わるなら。




