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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第5章 その男、カエサル
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鎖の付け替え

その一言で、部屋の空気が“刃”になった。

机の上の封蝋、硬貨の袋、蝋板。どれも小さいのに、重い。


セリスィンは息を止めなかった。止めれば、また足が逃げる。

テオトニクスも同じだった。ふらつきはあるのに、視線だけは真っ直ぐに立っている。


カエサルは二人を見比べ、淡々と続けた。


「今の暮らしを続けるなら、それでもいい。闘技場は分かりやすい。勝てば名、負ければ死。誰が見ても理解できる」


言葉は平たいのに、言い方が平たくない。

“理解できる”という言葉が、まるで「浅い」と言っているみたいだった。


カエサルは机の封蝋を指先で軽く叩く。


「だが、戦場は違う。勝っても名前が残らないことがある。負けても死なないことがある。――その代わり、命令に背けば、確実に終わる」


テオトニクスが口を挟んだ。


「……終わる言うても、結局は死ぬんやろ」


部屋の男(側近らしい)が眉を動かしたが、カエサルは止めなかった。

むしろ少しだけ口元を歪める。


「良い。口が回るのは悪くない。だが“口”で生きるつもりなら、闘技場に残れ。俺が要るのは、“口”より“足”と“目”だ」


テオトニクスは肩をすくめた。


「足と目やったら、今日見たやろ。……それでも足りんのか」


「今日見たから、呼んだ」


その即答に、テオトニクスの目が一瞬だけ鋭くなる。

冗談が挟まる余地がない。本気の場だ。


カエサルはセリスィンへ視線を移す。


「お前は、何を望む」


セリスィンは喉の奥で言葉を探した。

望みはある。だが口にすれば、また自分が固くなる気がした。


それでも、答えないわけにはいかない。


「……強くなる」


カエサルは頷きもしなかった。否定もしなかった。

ただ、次の言葉を置く。


「強さは目的ではない。道具だ。何に使う」


その問いで、橋の欄干が脳裏に浮かぶ。

掴めなかった手。落ちた影。届かなかった距離。


セリスィンは、短く答えた。


「……届くために」


カエサルの目が、ほんの僅かだけ細くなる。

気に入ったのか、気に入らないのか、判別できない薄い変化。


「なら、選択は早い」


カエサルは机の上の封蝋の書面を、側近の男に顎で示した。

側近は蝋板を開き、事務の声で説明する。


「闘技場の管理者とルドゥスの頭に命じた。お前たち二人の契約は、こちらが“買い取る”。身柄は我々の預かりになる」


セリスィンの胸がひやりとした。


「……自由になるのか」


側近は即答しない。代わりにカエサルが答えた。


「鎖は外す。だが、別の鎖をつける。俺の遠征が終わるまでだ」


テオトニクスが、寝台の端を指先で叩きながら言う。


「“終わるまで”って、いつや。ガリアて、すぐ終わる話ちゃうやろ」


カエサルはまっすぐ見た。


「すぐ終わらせるつもりで行く。だが、終わる保証はしない。――だから選べと言っている」


沈黙が落ちる。


セリスィンは、自分の手を見た。

剣闘士の手だ。砂の匂いが染みついた手。勝つたびに何かを失って、負けるたびにもっと失う手。


(剣闘士としてやっていく覚悟を決めたのに)


だが、覚悟を決めた直後に、世界のほうが別の道を差し出してくる。

それがローマだ。強い者の国だ。


カエサルは椅子に腰掛けず、立ったまま言う。


「お前たちに兵の礼儀は教える。隊列の動きも、命令の聞き方も。剣闘士のままでは使わない」


テオトニクスが鼻で笑う。


「使う気まんまやん」


「使う」


カエサルは隠さない。


「だが、使い潰しはしない。良い刃は、研いで残す」


その言い方が、妙に現実的で、妙に信用できた。

甘い言葉より、ずっと。


側近が続ける。


「明朝、夜明け前。テヴェレ川沿いの詰所へ来い。遅れれば話は終わりだ。――来れば、まず署名と誓約。次に装備と宿舎。そして監督官の下へ」


セリスィンは問うた。


「拒めば?」


側近の目が冷たくなる。


「拒める。だが“買った”金は戻らない。闘技場の側は、お前たちを快くは戻さないだろうな」


要するに、戻っても以前と同じではない。

“上”に目をつけられた剣闘士は、もう元の檻では飼えない。


テオトニクスが小さく舌打ちした。


「綺麗な言い方で逃げ道塞ぐん、上手いな」


カエサルは気にした様子もなく、最後にセリスィンへ言う。


「迷いは分かる。だが迷いは、戦場で最初に死ぬ」


そしてテオトニクスへ。


「お前は口が回る。口を回す前に、頭を回せ」


テオトニクスは、なぜか少しだけ笑った。


「……嫌いやないわ、その言い方」


カエサルはそれ以上、何も言わなかった。

踵を返し、護衛と側近が道を作る。部屋の空気が、彼の背中について動いた。


扉の前で、カエサルが一度だけ振り向いた。


「明朝だ」


それだけ言って出ていく。


残された部屋に、ようやく人の息が戻った。

ジムージーが壁際から現れ、肩をすくめる。


「な? 言ったとおりだろ」


セリスィンは答えない。

代わりに、床に落ちた自分の呼吸を拾うみたいに、ゆっくり息を吸った。


テオトニクスが小さく言う。


「……お前、行くんか」


セリスィンは少し間を置いて答えた。


「行く」


即答ではなかった。

だが言った瞬間、肩の奥の重みが少しだけ整理された気がした。


テオトニクスは天井を見て、短く笑う。


「しゃあないな。……ほな、俺も行くわ。置いてかれたら腹立つし」


ジムージーが愉快そうに鼻を鳴らした。


「決まりだな。――さあ、戻れ。夜明け前だ。寝ろ。寝られなくても、目を閉じろ」


部屋を出ると、夜風が冷たかった。

だが、セリスィンの足は逃げなかった。


闘技場の砂から、戦場の土へ。

鎖が外れるのではない。鎖が付け替わるだけだ。


それでも――届く先が変わるなら。

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