呼び出し
夜のルドゥスは、昼よりも音がはっきり聞こえる。
遠くの犬、見回りの槍の金具、誰かの寝返り。そういう細い音の合間に、セリスィンの鼓動だけがやけに大きかった。
「今夜。お呼びだ」
ジムージーの言葉が、まだ耳の奥で鳴っている。
呼ばれた理由は分かっている。分かっているから、腹の底が冷える。
相部屋ではカタルスが寝台に腰を下ろし、革紐を手入れしていた。顔を上げずに言う。
「行くな、とは言わない」
セリスィンは短く頷いた。
「……行かない選択肢は無い」
「そうだな」
カタルスは手を止め、ようやく視線を上げた。
「ただ、向こうの言葉に呑まれるな。相手は“剣”じゃない。――場だ」
場。
今日、砂に降りてきた男は、立っているだけで場を変えた。
セリスィンが外套を掴んだとき、廊下の奥から足音がした。医務室のほうだ。
世話役に支えられたテオトニクスが、ふらつきながら歩いてくる。
テオトニクスは別のルドゥスのものだが、今夜は堪えた体のために闘技場から近い、セリスィンがいるルドゥスで休むことになっていた。
額に布が巻かれ、顔色はまだ白いが、目だけは妙に澄んでいた。
「お前、起きて大丈夫か」
セリスィンが言うと、テオトニクスは肩をすくめる。
「寝てたら余計しんどい。……それより、呼ばれたんやろ」
「……誰に聞いた」
「雰囲気で分かるわ。お前、今“勝負前の顔”してる」
セリスィンは口を閉じた。
当てられるのが嫌だったわけじゃない。自分でも気づいていなかったから、腹が立つ。
テオトニクスは世話役を追い払うように手を振って、セリスィンにだけ声を落とす。
「俺も行く」
「無理だ」
「無理ちゃう。歩ける。喋れる。……倒れたからって、話まで取り上げられる筋合いないやろ」
それが強がりだと分かっていても、止める言葉が見つからなかった。
セリスィンが何か言う前に、ジムージーが廊下の影から現れた。
「時間だ」
ジムージーは二人を見比べ、鼻で笑う。
「まさかと思ったが、揃って来る気か。……まあ、手間が省ける」
「揃って呼ばれてるのか」
セリスィンが問うと、ジムージーは答えない。答えないことが答えだった。
外は冷えていた。夜風は乾いていて、昼の闘技場の熱を容赦なく剥がす。
ジムージーは街の明るい通りを避け、荷車の影や壁沿いを選んで歩いた。目的地が「表に出していい場所」ではない歩き方だ。
「どこへ行く」
セリスィンが聞くと、ジムージーは前を見たまま言う。
「会う相手にとって都合のいい場所だよ。お前らにとってじゃない」
テオトニクスがふっと笑った。
「正直でええな」
「商売人は正直じゃないと損する。嘘は、値段が上がる時だけでいい」
やがて、門が見えた。
邸宅というほどではないが、普通の家よりは明らかに“守り”が固い。灯りは抑えられ、護衛が二人、道を塞ぐように立っている。
ジムージーが短い合図を出すと、護衛は無言で道を開けた。
その無言が怖い。声を出す必要がないほど、命令が通っている。
中庭を抜け、石の廊下を通される。香の匂いが薄く漂う。
壁には装飾があるが豪奢すぎない。あくまで“使うため”の場所だ。
扉の前で、ジムージーが立ち止まった。
「ここから先は、俺の口は軽くなる。――気をつけろ」
珍しく忠告らしい言葉だった。
セリスィンは扉を見た。テオトニクスは一歩だけ前へ出て、咳払いをする。
護衛が扉を開けた。
部屋の中は静かで、灯りが少ない。
机が一つ、椅子が二つ。壁際に水と布。余計なものがない。
椅子に座っていた男が、ゆっくり立ち上がった。年は若くない。だが老いてもいない。
軍人の立ち方だ。目が硬い。
「セリスィン。テオトニクス」
名を呼ばれ、二人は同時に眉を動かした。
名簿を握っている者の呼び方ではない。最初から“知っている”呼び方だ。
男は名乗らないまま、机の上の蝋板を指で叩いた。
「今日の闘技場の件は、忘れろ。口にすれば損をする」
テオトニクスが口を開きかけたが、男の視線が刺さって止まった。
男は淡々と続ける。
「――お前たちに提示するのは二つだ。拒否もできる。だが拒否には、代価がある」
セリスィンは喉の奥で息を整えた。
「何の話だ」
男は机の上に小さな袋を置いた。硬貨の音が小さく鳴る。
「金ではない。身分だ」
次に、封蝋のついた紙片。
そして最後に、短い言葉。
「“鎖を外す”」
セリスィンの背中が冷えた。
剣闘士の鎖。契約。名簿。ルドゥス。あらゆる柵。
男は続ける。
「ただし、外した鎖の代わりに、お前たちは別の紐で結ばれる。軍だ。遠征だ。命令だ」
テオトニクスが、ようやく口を挟んだ。
「……誰の軍や」
男は答えを言わなかった。言う必要がないという顔をした。
代わりに、扉のほうへ視線を送る。
その視線に合わせるように、部屋の外で足音がした。
ゆっくりで、迷いがなく、近づくほど空気が変わる足音。
護衛が扉を開ける。
入ってきたのは、昼に砂へ降りた男だった。
言葉より先に、場がその男に従う。
セリスィンは立ったまま、息を止めかけて、止めなかった。
テオトニクスも同じだった。目だけが笑っていない。
男は机の前に立ち、二人を見て、短く言った。
「選べ」
その一言で、部屋の静けさが刃物になった。




