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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第5章 その男、カエサル

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呼び出し

夜のルドゥスは、昼よりも音がはっきり聞こえる。

遠くの犬、見回りの槍の金具、誰かの寝返り。そういう細い音の合間に、セリスィンの鼓動だけがやけに大きかった。


「今夜。お呼びだ」


ジムージーの言葉が、まだ耳の奥で鳴っている。

呼ばれた理由は分かっている。分かっているから、腹の底が冷える。


相部屋ではカタルスが寝台に腰を下ろし、革紐を手入れしていた。顔を上げずに言う。


「行くな、とは言わない」


セリスィンは短く頷いた。


「……行かない選択肢は無い」


「そうだな」


カタルスは手を止め、ようやく視線を上げた。


「ただ、向こうの言葉に呑まれるな。相手は“剣”じゃない。――場だ」


場。

今日、砂に降りてきた男は、立っているだけで場を変えた。


セリスィンが外套を掴んだとき、廊下の奥から足音がした。医務室のほうだ。

世話役に支えられたテオトニクスが、ふらつきながら歩いてくる。

テオトニクスは別のルドゥスのものだが、今夜は堪えた体のために闘技場から近い、セリスィンがいるルドゥスで休むことになっていた。

額に布が巻かれ、顔色はまだ白いが、目だけは妙に澄んでいた。


「お前、起きて大丈夫か」


セリスィンが言うと、テオトニクスは肩をすくめる。


「寝てたら余計しんどい。……それより、呼ばれたんやろ」


「……誰に聞いた」


「雰囲気で分かるわ。お前、今“勝負前の顔”してる」


セリスィンは口を閉じた。

当てられるのが嫌だったわけじゃない。自分でも気づいていなかったから、腹が立つ。


テオトニクスは世話役を追い払うように手を振って、セリスィンにだけ声を落とす。


「俺も行く」


「無理だ」


「無理ちゃう。歩ける。喋れる。……倒れたからって、話まで取り上げられる筋合いないやろ」


それが強がりだと分かっていても、止める言葉が見つからなかった。

セリスィンが何か言う前に、ジムージーが廊下の影から現れた。


「時間だ」


ジムージーは二人を見比べ、鼻で笑う。


「まさかと思ったが、揃って来る気か。……まあ、手間が省ける」


「揃って呼ばれてるのか」


セリスィンが問うと、ジムージーは答えない。答えないことが答えだった。


外は冷えていた。夜風は乾いていて、昼の闘技場の熱を容赦なく剥がす。

ジムージーは街の明るい通りを避け、荷車の影や壁沿いを選んで歩いた。目的地が「表に出していい場所」ではない歩き方だ。


「どこへ行く」


セリスィンが聞くと、ジムージーは前を見たまま言う。


「会う相手にとって都合のいい場所だよ。お前らにとってじゃない」


テオトニクスがふっと笑った。


「正直でええな」


「商売人は正直じゃないと損する。嘘は、値段が上がる時だけでいい」


やがて、門が見えた。

邸宅というほどではないが、普通の家よりは明らかに“守り”が固い。灯りは抑えられ、護衛が二人、道を塞ぐように立っている。


ジムージーが短い合図を出すと、護衛は無言で道を開けた。

その無言が怖い。声を出す必要がないほど、命令が通っている。


中庭を抜け、石の廊下を通される。香の匂いが薄く漂う。

壁には装飾があるが豪奢すぎない。あくまで“使うため”の場所だ。


扉の前で、ジムージーが立ち止まった。


「ここから先は、俺の口は軽くなる。――気をつけろ」


珍しく忠告らしい言葉だった。

セリスィンは扉を見た。テオトニクスは一歩だけ前へ出て、咳払いをする。


護衛が扉を開けた。


部屋の中は静かで、灯りが少ない。

机が一つ、椅子が二つ。壁際に水と布。余計なものがない。


椅子に座っていた男が、ゆっくり立ち上がった。年は若くない。だが老いてもいない。

軍人の立ち方だ。目が硬い。


「セリスィン。テオトニクス」


名を呼ばれ、二人は同時に眉を動かした。

名簿を握っている者の呼び方ではない。最初から“知っている”呼び方だ。


男は名乗らないまま、机の上の蝋板を指で叩いた。


「今日の闘技場の件は、忘れろ。口にすれば損をする」


テオトニクスが口を開きかけたが、男の視線が刺さって止まった。


男は淡々と続ける。


「――お前たちに提示するのは二つだ。拒否もできる。だが拒否には、代価がある」


セリスィンは喉の奥で息を整えた。


「何の話だ」


男は机の上に小さな袋を置いた。硬貨の音が小さく鳴る。


「金ではない。身分だ」


次に、封蝋のついた紙片。

そして最後に、短い言葉。


「“鎖を外す”」


セリスィンの背中が冷えた。

剣闘士の鎖。契約。名簿。ルドゥス。あらゆる柵。


男は続ける。


「ただし、外した鎖の代わりに、お前たちは別の紐で結ばれる。軍だ。遠征だ。命令だ」


テオトニクスが、ようやく口を挟んだ。


「……誰の軍や」


男は答えを言わなかった。言う必要がないという顔をした。

代わりに、扉のほうへ視線を送る。


その視線に合わせるように、部屋の外で足音がした。

ゆっくりで、迷いがなく、近づくほど空気が変わる足音。


護衛が扉を開ける。


入ってきたのは、昼に砂へ降りた男だった。

言葉より先に、場がその男に従う。


セリスィンは立ったまま、息を止めかけて、止めなかった。

テオトニクスも同じだった。目だけが笑っていない。


男は机の前に立ち、二人を見て、短く言った。


「選べ」


その一言で、部屋の静けさが刃物になった。

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