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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第5章 その男、カエサル
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買われた砂

コロッセウムの熱は、いつまでも肌に貼りついて離れなかった。

だが控え通路へ戻った瞬間、熱の質が変わる。歓声の熱ではない。命令が通った後の熱だ。


医務係が走り、担架が行き来する。

管理者たちは顔色を失ったまま、ひたすら頭を下げ、ひたすら誰かに指示を飛ばしていた。


セリスィンは傷を洗われ、布を当てられ、革面を外された。

頬の血は止まっている。腕と肋が鈍く痛む。だが、痛みより先に残っているものがあった。


――剣が落ちた音。

――膝が落ちた感触。

――そして、あの男の「来い」。


控えの隅で、カタルスが黙って水袋を差し出した。

セリスィンは受け取り、二口だけ飲む。喉が焼けるように乾いていたことに、そこで気づく。


「……俺は、負けた」


独り言みたいに漏れた声に、カタルスは頷かなかった。否定もしなかった。


「負けたな」


短い肯定。余計な慰めがない。

だからこそ、セリスィンは次の言葉を吐けた。


「……あれは、剣の勝負じゃない」


「違う」


カタルスは視線を落としたまま言う。


「お前は“剣闘士の勝ち方”で戦って、あの男は“戦いの終わらせ方”で終わらせた。土俵が違う」


そこへ、シリアスが現れた。医務係の肩越しにテオトニクスが運ばれていくのを見て、顔をしかめる。


「生きてるか」


医務係が「意識は戻る」と答える。

シリアスはそれを聞いて、ようやく息を吐いた。


「……良かったな。あいつが死ねば、ここは血で済まなくなる」


セリスィンが眉を寄せると、シリアスは低い声で続けた。


「上の男が砂に降りた。しかも“買った”と言った。——この闘技場は、今から政治の中に沈む」


政治。

セリスィンには遠い言葉のはずなのに、今日は近い。あの男の一挙手一投足が、もう剣より強い命令だったからだ。


医務室の薄暗い寝台に、テオトニクスが寝かされた。

頬に残る砂を拭われ、首元の脈を確かめられ、ようやく瞼が動く。


「……っ、いてて……」


声が出た瞬間、医務係が顔を寄せる。


「動くな。頭を打った。水は少しずつだ」


テオトニクスは不満そうに口を曲げたが、言いつけは守った。

その目が、ゆっくりと周りを探し、セリスィンで止まる。


数拍。


それから、笑った。


「……負けたわ。あれ、一発やん。えぐいな」


悔しさより先に“面白がり”が出るのが、こいつらしい。

セリスィンは一歩近づき、低く言う。


「ふざけるな。お前が死んでたら――」


「死んでへんやろ?」


テオトニクスは軽く遮って、目を細めた。


「それより、お前もやられた顔やな。……あの人、何者や」


セリスィンは答えなかった。

代わりに、カタルスが淡々と告げる。


「執政官だ。カエサル」


テオトニクスの眉が上がった。


「……執政官が、砂に降りてくるんかいな」


シリアスが鼻で笑う。


「降りてきたからには、理由がある」


その理由を口にしたのは、医務室の入口に現れた男だった。


「そりゃあ、あるさ」


ジムージー。


誰よりも場違いに見えるのに、誰よりも場に馴染む顔で、壁にもたれて立っていた。

目が合うと、彼は口元だけで笑う。


――言ったとおりだろ。

そう言わんばかりの笑い方。


「……お前が呼んだのか」


セリスィンの声は低くなった。

ジムージーは肩をすくめる。


「呼べるかよ。俺はそんな大物じゃねえ。けどな、風向きくらいは読める」


ジムージーは視線を医務係に向け、「少しだけいいか」と小声で頼み、寝台の間を歩いてきた。

そしてセリスィンの耳元へ、紙片の存在を匂わせるように言う。


「……今夜。お呼びだ」


「誰に」


ジムージーは答えを楽しむみたいに間を置いた。


「カエサルの側近から。闘技場の外でな。ここじゃ話にならねえから」


セリスィンの胃が沈んだ。

逃げられない。闘技場の砂の上で“買われた”言葉が、まだ空気に残っている。


テオトニクスが寝台の上で、面倒くさそうに片目を細めた。


「……俺ら、今から何になるんやろな」


カタルスが答える。


「何かを選ばされる」


シリアスが付け足す。


「選ばされる前に、選べ」


ジムージーは最後に、セリスィンの頬の傷を見て、にやりとした。


「剣闘士としての傷は、今日で“終わり”かもしれねえぞ」


その言葉が、セリスィンの胸を妙に冷やした。

剣闘士としてやっていく覚悟を固めたばかりだった。なのに、もう終わりだと言われる。


だが同時に、橋の欄干が脳裏をよぎる。

届かなかった手。届かなかった声。


(届く先が違う)


あの男の言葉が、遅れて刺さる。


セリスィンは水袋を握り、息を整えた。


今夜、呼ばれる。

そして次の一言で、人生がまた曲がる。

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