買われた砂
コロッセウムの熱は、いつまでも肌に貼りついて離れなかった。
だが控え通路へ戻った瞬間、熱の質が変わる。歓声の熱ではない。命令が通った後の熱だ。
医務係が走り、担架が行き来する。
管理者たちは顔色を失ったまま、ひたすら頭を下げ、ひたすら誰かに指示を飛ばしていた。
セリスィンは傷を洗われ、布を当てられ、革面を外された。
頬の血は止まっている。腕と肋が鈍く痛む。だが、痛みより先に残っているものがあった。
――剣が落ちた音。
――膝が落ちた感触。
――そして、あの男の「来い」。
控えの隅で、カタルスが黙って水袋を差し出した。
セリスィンは受け取り、二口だけ飲む。喉が焼けるように乾いていたことに、そこで気づく。
「……俺は、負けた」
独り言みたいに漏れた声に、カタルスは頷かなかった。否定もしなかった。
「負けたな」
短い肯定。余計な慰めがない。
だからこそ、セリスィンは次の言葉を吐けた。
「……あれは、剣の勝負じゃない」
「違う」
カタルスは視線を落としたまま言う。
「お前は“剣闘士の勝ち方”で戦って、あの男は“戦いの終わらせ方”で終わらせた。土俵が違う」
そこへ、シリアスが現れた。医務係の肩越しにテオトニクスが運ばれていくのを見て、顔をしかめる。
「生きてるか」
医務係が「意識は戻る」と答える。
シリアスはそれを聞いて、ようやく息を吐いた。
「……良かったな。あいつが死ねば、ここは血で済まなくなる」
セリスィンが眉を寄せると、シリアスは低い声で続けた。
「上の男が砂に降りた。しかも“買った”と言った。——この闘技場は、今から政治の中に沈む」
政治。
セリスィンには遠い言葉のはずなのに、今日は近い。あの男の一挙手一投足が、もう剣より強い命令だったからだ。
医務室の薄暗い寝台に、テオトニクスが寝かされた。
頬に残る砂を拭われ、首元の脈を確かめられ、ようやく瞼が動く。
「……っ、いてて……」
声が出た瞬間、医務係が顔を寄せる。
「動くな。頭を打った。水は少しずつだ」
テオトニクスは不満そうに口を曲げたが、言いつけは守った。
その目が、ゆっくりと周りを探し、セリスィンで止まる。
数拍。
それから、笑った。
「……負けたわ。あれ、一発やん。えぐいな」
悔しさより先に“面白がり”が出るのが、こいつらしい。
セリスィンは一歩近づき、低く言う。
「ふざけるな。お前が死んでたら――」
「死んでへんやろ?」
テオトニクスは軽く遮って、目を細めた。
「それより、お前もやられた顔やな。……あの人、何者や」
セリスィンは答えなかった。
代わりに、カタルスが淡々と告げる。
「執政官だ。カエサル」
テオトニクスの眉が上がった。
「……執政官が、砂に降りてくるんかいな」
シリアスが鼻で笑う。
「降りてきたからには、理由がある」
その理由を口にしたのは、医務室の入口に現れた男だった。
「そりゃあ、あるさ」
ジムージー。
誰よりも場違いに見えるのに、誰よりも場に馴染む顔で、壁にもたれて立っていた。
目が合うと、彼は口元だけで笑う。
――言ったとおりだろ。
そう言わんばかりの笑い方。
「……お前が呼んだのか」
セリスィンの声は低くなった。
ジムージーは肩をすくめる。
「呼べるかよ。俺はそんな大物じゃねえ。けどな、風向きくらいは読める」
ジムージーは視線を医務係に向け、「少しだけいいか」と小声で頼み、寝台の間を歩いてきた。
そしてセリスィンの耳元へ、紙片の存在を匂わせるように言う。
「……今夜。お呼びだ」
「誰に」
ジムージーは答えを楽しむみたいに間を置いた。
「カエサルの側近から。闘技場の外でな。ここじゃ話にならねえから」
セリスィンの胃が沈んだ。
逃げられない。闘技場の砂の上で“買われた”言葉が、まだ空気に残っている。
テオトニクスが寝台の上で、面倒くさそうに片目を細めた。
「……俺ら、今から何になるんやろな」
カタルスが答える。
「何かを選ばされる」
シリアスが付け足す。
「選ばされる前に、選べ」
ジムージーは最後に、セリスィンの頬の傷を見て、にやりとした。
「剣闘士としての傷は、今日で“終わり”かもしれねえぞ」
その言葉が、セリスィンの胸を妙に冷やした。
剣闘士としてやっていく覚悟を固めたばかりだった。なのに、もう終わりだと言われる。
だが同時に、橋の欄干が脳裏をよぎる。
届かなかった手。届かなかった声。
(届く先が違う)
あの男の言葉が、遅れて刺さる。
セリスィンは水袋を握り、息を整えた。
今夜、呼ばれる。
そして次の一言で、人生がまた曲がる。




