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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第5章 その男、カエサル
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剣では測れぬもの

砂の上で倒れたテオトニクスは、ぴくりとも動かなかった。

さっきまで闘技場を支配していた速さが、嘘みたいに静かだ。


セリスィンはその横顔を一瞬だけ見て、すぐ視線を戻した。

見るな。見たら、足が揺れる。


乱入者――カエサルは、何も言わない。

ただ立っているだけで、管理者も審判役も、護衛も、声を失っている。


ひれ伏した管理者の背中が震えている。

誰かが「閣下」ともう一度呼んだが、その声は掠れていた。


カエサルが指先を曲げる。ちょい、ちょい。

挑発というより、犬を呼ぶみたいな気軽さだ。


セリスィンは剣を構えた。手が汗で滑る。喉が乾く。

だが、妙に頭は澄んでいた。澄んでいるからこそ分かる。


(……この男には、勝ち筋が見えない)


テオトニクスを倒した動きには、闘技場の剣の“癖”がなかった。

剣闘士の勝ち方でも、街の喧嘩の勝ち方でもない。

もっと別の場所で身についた、短く、確実な終わらせ方。


カエサルは、ようやく口を開いた。


「来い」


声は低く、短い。

命令なのに、叫ばない。叫ばなくても通る声だ。


セリスィンは一歩踏み込んだ。

剣先を見せ、相手の動きを引き出す。テオトニクスのように速さで押せないなら、間で勝負するしかない。


――その“間”が、最初から奪われた。


セリスィンが踏み込むより先に、カエサルが半歩だけ角度を変えた。

大きく避けない。セリスィンの刃先が「当たらない」角度へ、最小で移る。


セリスィンは剣を返し、二撃目を出す。

カエサルは受けない。受けないのに、セリスィンの剣が“重く”なる。


刃の側面を指先で叩かれた。

叩いたのは刃ではなく、剣の“意志”だ。角度が狂い、腕に痺れが走る。


(なんだ、今の……!)


セリスィンが体勢を立て直す前に、カエサルが一歩入った。

剣を振るための距離ではない。剣を振れなくする距離。


胸の防具に、拳が入る。

拳なのに、刃より痛い。息が抜け、視界が狭まる。


セリスィンは反射で剣を振り下ろした。

だが、そこにカエサルはいない。いるのに、いない。肩がすり抜ける。


次の瞬間、手首が掴まれた。


掴んだ指の力は強くない。なのに、ほどけない。

関節の角度を“正しい方向”に決められている。力で抗えば折れる――そういう掴みだ。


カエサルは、セリスィンの目を見た。


「……いい目だ。だが、剣の目だな」


何を言われたのか分からないまま、セリスィンは肘で払おうとした。

払う前に、膝が打たれた。テオトニクスの時と同じ。派手じゃない。体重の置き場だけが消える一撃。


セリスィンの膝が砂に触れた。


剣が落ちる。


砂に刺さる金属音が、闘技場にやけに大きく響いた。

観客席から、遅れて息を呑む音が広がる。歓声ではない。信じられないものを見たときの沈黙だ。


セリスィンは倒れなかった。倒れそうになった体を、拳で砂を掴んで支えた。

歯を食いしばり、立ち上がろうとする。


カエサルは、それを止めなかった。

止めないまま、言った。


「立てるなら立て。――だが、ここまでだ」


その言い方は冷たいのに、不思議と屈辱だけでは終わらなかった。

“殺さない”と分かる距離で終わらせている。終わらせ方を選んでいる。


カエサルが指を鳴らすと、ようやく管理者たちが動いた。

慌ててテオトニクスの体を抱え、医務係が駆け寄る。審判役は杖を下ろしたまま頭を垂れている。


カエサルは砂を踏み、セリスィンの落とした剣を一度だけ見た。

そして視線を上げる。貴賓席のほうではない。闘技場全体を、まるで軍の陣地みたいに見回す。


「この興行は、俺が買った」


その一言で、管理者の顔色が変わる。

“買った”――つまり、口も判定も、すべて上書きできるということだ。


観客がざわめく。怒号になりそうで、ならない。

誰もが、今ここで怒鳴っていい相手ではないと理解している。


カエサルはセリスィンへ戻り、近づきすぎない距離で言った。


「お前と、あっちの若いの」


倒れたテオトニクスを顎で示す。


「生きがいい。血に慣れている。――だが、血に溺れていない。気に入った」


セリスィンは息を整えながら、ようやく口を開いた。


「……何者だ」


問いが遅い。遅いのに、それでも言わずにいられなかった。

カエサルは口元だけ笑った。


「名は今、聞いたはずだ」


管理者が震える声で補う。


「カエサル閣下……執政官にして……次の属州総督……」


その肩書きが重すぎて、セリスィンの頭は一瞬追いつかなかった。

闘技場の勝ち負けとは別の世界の言葉。


カエサルは続けた。


「ガリアへ行く。兵が要る。――“剣”も要る」


セリスィンの胸がきしんだ。

剣闘士として今からやっていく。そう決めたばかりだ。なのに、また道を変えろと言うのか。


カエサルは、その迷いを読むように言葉を足す。


「お前が望むなら、鎖を外してやる。望まないなら、ここに戻ってもいい」


淡々としている。甘い誘いではない。

だが、次の一言が、セリスィンの中の何かを叩いた。


「ただし――ここで勝って名を上げるのも、戦場で名を上げるのも、同じだ。違うのは“届く先”だ」


セリスィンの脳裏に、橋の欄干がよぎった。

届かなかった手。届かなかった声。


(届く先……)


カエサルは最後に、短く言った。


「返事は急がせない。だが、次の興行の前に決めろ。――選べ」


そして踵を返し、砂地の端へ向かった。

管理者も護衛も、道を作る。誰も止めない。


セリスィンは砂に膝をついたまま、立ち上がれずにいた。

負けたからではない。世界の枠が、突然広がったからだ。


闘技場の喧騒が戻り始める。

だがその音は、もうさっきまでと同じには聞こえなかった。


倒れたテオトニクスが運ばれていく。

その手が、わずかに動いた。生きている。


セリスィンは拳を握った。


(次の興行までに、決める)


何を捨て、何を得るのか。

その答えが、剣より重い。

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