しきたり
その後セリスィンはジムージーとケニスに別れを告げ、プナガンダに連れられて応接間を出た。
「じゃあ次に会うのは試合の後だな。……もっとも、それまでお前が生きていればの話だが」
ジムージーが、最後に縁起でもないことを言う。
剣闘士という仕事柄の冗談か、それとも別の含みがあるのか。ここでの別れが今生の別れになることもある――そう言いたいのだろう。いずれにせよ、セリスィンは「それでも構わない」と思ってしまう自分に気づいた。
「さて」
廊下へ出たところで、プナガンダが改まって言った。
「ここから先は、舎監である私の仕事でございます。以後、お見知りおきを」
深々と頭を下げる。
「それにしても……すごいですよ。あのケニス様から一本取りかけるなんて」
「結局、駄目だったけどな」
セリスィンはぶっきらぼうに返す。
「いえいえ。それでも、十分すごいです」
プナガンダは譲らなかった。
「まずは施設の構造と、剣闘士の一日について押さえましょう」
そう言って、広い建物の中を案内し始める。
「ここが先ほどの広間。こちらが食堂。風呂場と洗濯場、そして医務室がございます」
大人数が寝起きする共同の建物に入るのは初めてで、セリスィンは妙に落ち着かなかった。屋根の下に“居場所”がある感覚が、まだ身体に馴染まない。
「二階と三階は部屋です。基本は二人一部屋。全部で二十四部屋ございます」
(単純に数えれば四十八人。……入れ替わりがあるにせよ、ずいぶんな数だ)
「では、お部屋へ」
プナガンダとともに二階へ上がり、廊下の奥の一室へ通される。
「こちらがセリスィン殿のお部屋になります」
狭い。だが、ベッドが二つある。長いあいだ外で寝てきたセリスィンには、それだけで豪華に見えた。
「相部屋の方がおります。名はカタルス。数年ここでやっている剣闘士です。物静かで、あまり喋りませんが……何か知りたいことがあれば聞けるでしょう」
プナガンダは説明を続ける。
「今は皆、訓練に出払っております。……ところで、セリスィン殿」
そこでプナガンダが振り返り、声を落とした。
「このような場所では、あらぬ噂も立ちます」
「あらぬ噂?」
「はい。剣闘士同士の諍い、いじめ――そういったことです。新人が標的にされることもございます」
セリスィンは眉を動かした。
「中には、それが苦で自殺した者もおります。あるいは、訓練の厳しさに耐えきれず……という者も」
いちばん聞きたくない話だ、とセリスィンは思った。
「私も常に目を行き届かせられるわけではありません。どうしても、手の届かぬところが出ます。くれぐれもお気をつけください」
そして言い添える。
「……もっとも、セリスィン殿の腕前なら、心配は薄い気もいたしますが」
「なるほど」
セリスィンは頷いた。
強い男が密集する場所だ。序列ができ、張り合いが生まれるのは自然だろう。路上でも同じだった。ただ――ここは、その“強さ”の密度が違う。
「説明は以上です。明日の訓練前に皆の前で紹介します。それまでは施設内を自由にして結構。眠りたければ休んでください」
特にやることもない。セリスィンは久々の柔らかいベッドに身を沈め、目を閉じた。
*
どれほど眠ったのか。
気づけば夕暮れだった。セリスィンは目をこすり、顔を洗おうと部屋を出て階段を下りる。
ちょうどそのとき、訓練から戻ってきた剣闘士たちが玄関になだれ込んできた。
(……今は避けるべきか)
一瞬迷う。だが、初日から尻尾を巻けば、余計に舐められる。セリスィンはその場に留まった。
近くで見ると、全員が大きい。十五歳の自分とは違う、“出来上がった体”だ。日々の積み重ねが、肩や胸に刻まれている。
「あー疲れた疲れた。今日もありえねえくらいキツかった」
一人が愚痴をこぼす。
「まじでな、グラシアム。いつかぶっ飛ばしてやる」
別の男が言った、その視線がセリスィンに引っかかった。
「……おい」
戻ってきた男たちの目が、一斉にセリスィンへ向く。
「新入りか?」
「ああ」
「そうかよ。今度の新入りはずいぶん“お子ちゃま”だな」
どっと笑いが起きる。
「ママが怖いよーって泣き叫ぶなよ」
下卑た嘲笑が廊下に反響する。セリスィンは胃の奥が嫌な感じに冷えた。
立ち去ろうとすると、「こっち来いよ」と呼ばれた。
セリスィンは近づく。
次の瞬間、男の一人が腕を上げた。殴る気だと察して、セリスィンは反射で身を引く。
「おいおい、腰が逃げてるぜ」
また笑いが起きる。
(プナガンダの言った通りか……いや、それ以上だな)
ため息を噛み殺した、そのとき。
「どうした?」
別の一団が帰ってくる。先頭にいた男が、場の空気をひと目で掴んだ。
「おう、シリアス。新入りだぜ」
最初の男が言う。
「新入り?」
シリアスと呼ばれた男が近づき、セリスィンを一度見た。それから、取り巻きへ低い声で言う。
「おい。まさか、またやってないだろうな」
「なーに、軽い挨拶だよ」
肩をすくめる。周りもくすくす笑う。
「すまんな。こいつらは分を知らん」
シリアスはそう言って、セリスィンへ手を差し出した。
セリスィンは警戒しつつも握手に応じる。
「何かあれば遠慮なく言え」
シリアスは背後へ目を投げ、「行くぞ」と仲間に告げた。からかっていた連中も含め、一団は水浴び場へ消えていく。
「へいへい」
去り際に、男たちがニヤニヤしながらセリスィンを見る。
嵐が過ぎた後のようだった。
セリスィンは顔を洗いに来たことを思い出す。だが、今から水浴び場に入る気にはなれず、大人しく部屋へ戻った。
*
翌日。
プナガンダの言ったとおり、訓練の前にセリスィンは皆の前で紹介された。すぐに日中の鍛錬へ加わることになる。
相部屋のカタルスにも会った。だが、噂どおり寡黙で、挨拶を交わしただけで会話は終わった。
訓練場へ向かう道すがら、話しかけてくる者もいれば、顔を見て笑うだけの者もいる。砂地に出て準備をしていると、「おっと、悪い」とわざと肩をぶつけてくる者までいた。
新参者が狙われるのは分かっていた。だが、ここまで露骨だとは思わなかった。
――それでも、セリスィンは折れなかった。路上の五年で、心の骨は鍛えられている。
砂地に整列する剣闘士たち。その前に、教官が一人立った。
「今日も一日の訓練を始める」
男が言う。
「その前に。今日は新入りが一人いるな。前に出ろ」
視線が集中する。自分だ。
セリスィンは列から出て、教官の前に立った。
教官は無言で拳を突き出す。セリスィンは動かない。目線を外さない。
「……覚悟はできてるようだな」
教官は拳を引き、名乗った。
「グラシアムだ。ここでは俺が教える」
(昨日、あいつらが愚痴ってた教官か)
厳格そうな空気をまとった男だった。仕事柄なのか、表情が硬い。
「まずは準備運動。周回だ」
合図で全員が走り出す。セリスィンも遅れて加わる。
すぐに集団に追いつく。だが、数人が合図し、露骨に進路を塞いできた。肘で押され、足を引っかけられそうになる。
グラシアムは見ていないのか。見ていて黙っているのか。何も言わない。
セリスィンは最後尾で周回を終えた。
「遅い。追加でもう一周」
罰だ。セリスィンは無言で走った。
*
午後、組み合わせ稽古。
「おい。俺と勝負しねえか」
声をかけてきたのは、昨日絡んできた連中のリーダー格――ダグラスだった。
わざとだ。自分を貶めるつもりが見え透いている。
「ああ。いいぜ」
セリスィンは受けた。
練習とはいえ、初めての一対一――そのはずだった。
木剣がぶつかり合ううちに、セリスィンは違和感に気づく。周囲の組み手が、じわじわと近づいてくる。距離が詰まり、流れ弾のように攻撃が飛んでくる。
ついに、誰かの打ち込みがセリスィンへ直撃した。
セリスィンは反射で振り向き、その相手へ一撃を返した。
「いてえ!」
男が大げさに呻いたところで、グラシアムが近づいてきた。
「何があった」
「セリスィンに殴られました。俺、相手じゃないのに」
「俺も見ていた」
――来た、とセリスィンは思う。悪者に仕立てる気だ。
だが、グラシアムは即断しなかった。
「お前たちの言い分だけでは断定できん。証拠がない」
厳格に言い放ち、周囲に命じる。
「距離を取れ。相手も交代だ」
連中は不服そうに顔を歪めた。だが、手出しは止んだ。グラシアムが“公平な教官”であることが、ここでは効くらしい。
セリスィンは何も言わず、呼吸を整えた。
*
何日か過ぎると、この寮が大きく二つに割れているのが見えてきた。
ひとつは、シリアスを中心とする穏健な連中。
もうひとつは、ダグラスを中心とする過激な連中。
なぜそう分かれたのか、理由はまだ分からない。だがセリスィンは消去法で、シリアス側と口を利くようになった。
セリスィンが一筋縄ではいかないと悟ると、露骨ないじめは徐々に鳴りを潜めていった。
――しかし。
セリスィンが寮に入って一か月が過ぎたころ、ある事件が起きた。




