表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第5章 その男、カエサル
49/165

その男、カエサル

「――そこまで!」


審判役の杖が高く掲げられた。合図は明確だった。

止めろ。これ以上は“興行”ではなくなる。


だが、セリスィンの腕は止まらなかった。

止め方が分からない――というより、止めた瞬間に折れるものがある気がした。


テオトニクスも同じだ。

彼の刃はすでに次の線へ走りかけていた。互いの距離は近すぎる。呼吸は熱い。視界は狭い。観客の声が遠い。


(止まれ)


頭の中では命じている。

命じているのに、身体はもう一度だけ“確かめたがる”。


刃と刃が触れ――金属音が鳴りかけた、その瞬間。


「下がれ!」


管理者の怒声が通路から飛び、続いて鞭の音が空を裂いた。

砂地の端で係員が割って入ろうとする。だが、遅い。近づけば近づくほど、二人の刃は危険になる。


審判役が一歩踏み出し、杖を強く振り下ろす。


「やめろ! 止めろッ!」


その声でようやく、セリスィンの視界の端に“杖”が入った。

テオトニクスの刃も、わずかに鈍る。


止まる――止まれる。

そう思った瞬間、客席が一斉にざわついた。


ざわつき方が違う。歓声でも、怒号でもない。

人が群れとして同じ一点を見たときの、嫌な波だ。


セリスィンの視線が、その波に引っ張られる。

天蓋の影――貴賓席の近くから、誰かが立ち上がった。


次の瞬間、その人物は手すりを越えた。


「――っ!」


管理者たちが色を変え、数人が駆け出す。

「止めろ!」「取り押さえろ!」と叫びながら、砂地へなだれ込む。


乱入者は軽かった。

重い衣ではない。鎧でもない。だが、落ち方に無駄がない。砂を蹴り、着地が静かだ。闘技場に慣れている動きではなく、“兵の地面”に慣れている動き。


管理者がその男の腕を掴もうとした――


掴む寸前で、全員が止まった。


男の顔を見た瞬間、空気が凍った。

掴もうとした手が宙で固まり、次に膝が落ちる。


ひれ伏すように、管理者たちが砂へ額を向けた。


「……っ」


審判役も杖を下ろしたまま、動けない。

通路の係員も、武装した護衛も、誰ひとり声を出せない。


コロッセウム全体が、息を止めた。


セリスィンは剣を下ろしたまま、その男を見た。

派手な装飾はない。だが、そこに立つだけで“命令”になる顔だった。

一瞬見えた、あのとてつもない顔――。


男は誰にも言葉をかけない。

ただ、二人の剣闘士を見比べ、指先をちょい、と曲げた。


来い、とでも言うみたいに。


テオトニクスが先に反応した。

さっきまでの苛烈さのまま、口元が吊り上がる。


「……おもしれぇ」


その短い一言だけで、テオトニクスは間合いに入った。

相手が誰であろうと関係ない、とでも言う踏み込み。勢いのままの剣。


だが、乱入者は退かなかった。


半歩――いや、ほんの僅かに体をずらしただけで、テオトニクスの刃が空を切る。

次の瞬間、男の手が伸びた。剣ではない。掌の動きだけで、テオトニクスの手首の角度を“折る”ように変える。


ルーディスではない、本番の刃が、砂へ落ちた。


「……っ!?」


驚きの声が出る前に、男の膝がテオトニクスの腿へ入った。

派手な蹴りではない。体重の置き方を狂わせる一撃。


テオトニクスの体が沈む。


男は最後に、指先でテオトニクスの喉元――ではなく、顎の下を軽く打った。

音は小さい。だが衝撃は深い。


テオトニクスの目が一瞬泳ぎ、そのまま糸が切れたように倒れた。

砂がふわりと舞い、落ちる音がやけに大きく聞こえた。


闘技場が静まり返ったまま、数拍が過ぎた。


セリスィンは動けない。

あまりにも一方的で、あまりにも短い。自分たちが“ゾーン”だと思っていた場所が、ただの浅瀬に見えた。


乱入者は倒れたテオトニクスを一瞥し、次にセリスィンへ目を向けた。

その視線は、剣闘士を見る目ではない。兵を見る目でもない。


――道具ではなく、人間の“使いどころ”を測る目だった。


ひれ伏していた管理者の一人が、震える声で名を漏らした。


「……カ、カエサル閣下……」


その名が落ちた瞬間、闘技場の沈黙が形を変えた。

歓声ではない。恐れと興奮が混ざった、ざわめき。


ガイウス・ユリウス・カエサル。

昨年の元日、執政官コンスルとなった男。


そして今、砂の上でセリスィンを見ている男。


カエサルは何も言わず、ただもう一度、指先でちょいちょいと挑発した。

次はお前だ、と。


セリスィンは剣を握り直した。

喉が乾く。だが不思議と、足は逃げなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ