速さの底
テオトニクスが立ち上がった瞬間、闘技場の空気が一段変わった。
さっきまでの彼は、“勝ち方”をしていた。
いま目の前にいるのは――“勝ちに来る”目だ。
「……もう一回や。今の、もう一回見せてみ」
軽い調子のままなのに、声が低い。
セリスィンは返さず、剣を上げた。足裏で砂を噛む。肺の焼ける痛みを、息の深さで押し戻す。
審判役が割って入らない。
管理者たちが止めの合図を出さない。
観客がそれを許していない。――“もっと見せろ”という熱が、石段から降りてくる。
テオトニクスが踏み込んだ。
速い。
だがさっきまでと違う。上滑りの速さじゃない。重さを乗せた速さだ。刃が当たれば、浅くても削れる。
一撃目、セリスィンの肩口を掠める。
二撃目、肋の防具が鳴る。
三撃目、手首。痺れが増す。
セリスィンは受けた。受けて、流して、返そうとした。
返す瞬間に――もう次が来る。
(入る隙がない)
テオトニクスは“連撃”をしているのではない。
セリスィンが息を整える間だけを、刃で塞いでいる。
「ほら、止まるな。止まったら俺の番や」
言いながら、斜めに入る。
セリスィンの利き腕側を避け、弱い側へ触れてくる。触れるだけで、足が揺れる。揺れた足は、踏み込みを殺す。
セリスィンは一歩、詰めた。
距離を殺し、肩で入る。さっきの一閃の後に見えた“勝負の距離”へ、もう一度。
テオトニクスはそれを待っていたように、体を半身にして受け流し、セリスィンの背中側へ回る。
回り込みが速い。セリスィンが振り向くより先に、刃が頬の近くを走る。
血が熱い。視界が赤くなりそうになる。
だがセリスィンは瞬きせず、刃を上げた。上げるだけ。狙っていない。
狙わない剣は、読みづらい。
それをテオトニクスも分かっている。だから――読みづらい剣を“読まない”入り方に変える。
テオトニクスはセリスィンの刃を避けない。
刃の外側を叩いて角度を殺し、刃の芯をずらしたまま懐へ入る。
金属が鳴る。火花が散る。
セリスィンの腕が痺れ、剣先が浮いた。
その浮いた一瞬に、テオトニクスの打ち込みが胸の防具へ入る。肺が潰れるように息が抜ける。
「……っ!」
声が漏れた。
観客が吠える。倒れろ、倒れるな、どっちでもいい。ただもっと叫べる場面が欲しい――そんな声だ。
セリスィンは倒れない。
倒れない代わりに、下がる。下がって距離を切り、もう一度“溜め”へ入ろうとする。
だがテオトニクスは、距離を切らせない。
追う。追うのに、雑にならない。
追い足が速い。砂の上で、足が沈まない。
「溜めるんは嫌いや言うたやろ。……せやけど、あれ、当たったら怖いわ」
笑っているのに、刃先は笑っていない。
セリスィンは歯を噛み、剣を振った。荒く、短く。自分の呼吸を守るための剣。
短い一閃が、テオトニクスの前腕の防具に当たった。
浅い。だが当たった。
テオトニクスの眉が一瞬だけ上がる。
次の瞬間、彼は一歩下がり、すぐに踏み込んだ。
速さが増した。
増したというより、迷いが消えた。
セリスィンも同じだった。
恐さが消えたわけじゃない。むしろ恐い。けれど恐さを処理する余裕がない。目の前の刃を捌くことだけが世界になる。
刃が来る。捌く。返す。外す。踏む。止まる。
呼吸が勝手に整い、足が勝手に動く。
気づけば、セリスィンは下がっていなかった。
押されているのに、押し返している。
痛いのに、痛みが遅れてくる。
テオトニクスの声が、遠くなる。
「……ええやん。そうや。そういう顔や」
言葉の意味が、頭に届かない。
刃の位置だけが届く。
二人の剣が、中央で何度もぶつかる。
金属音が連続し、観客の歓声も途切れない。
そして、その中に混じって――嫌な音がした。
刃が防具を深く噛む音。浅い当たりとは違う、鈍い音。
管理者たちが動いた。
通路側で世話役が叫び、審判役が杖を強く握り直す。止めに入る準備だ。
「まずいぞ、これ……」
「刃が立ってる」
「止めろ、止めろ!」
だが、二人は止まらない。
止められない。止まる理由が、もうどこにもない。
客席の天蓋の下――貴賓席のあたりで、ひときわ静かな視線が落ちている気配がした。
あの“とてつもない顔”が、まだ見ている。
それが、闘技場の誰よりも冷たい。
テオトニクスが一歩、深く入った。
セリスィンも同時に入る。刃と刃が、至近距離で鳴る。
次の瞬間、審判役がついに前へ踏み出した。
「――そこまで!」
杖が上がる。止めの合図。
だが、その合図が届くより先に、二人の刃はもう一度、打ち合おうとしていた。




