熱砂の序章
砂に足を下ろした瞬間、コロッセウムは“器”ではなく“生き物”になった。
石段のざわめきが皮膚を撫で、天蓋の陰の貴賓席から落ちる視線が、背骨の芯を冷やす。
呼び出し役の声が張り上がる。
「――セリスィン!」
続けて、名が叩きつけられた。
「――テオトニクス!」
歓声の質が変わった。期待というより、確信に近い。
“勢い”を見に来た者の声だ。
セリスィンは面の内側で息を吸い、吐いた。肩を落とす。腰を座らせる。
身体は軽い。だが、軽いまま浮いたら終わる。足裏で砂を掴む。
向かいから、テオトニクスが歩いてくる。
兜の下の目がよく動く。観客に一度、審判役に一度、相手に一度。全部に礼をするような視線の配り方だ。場を味方につけるのが上手い。
「よろしゅうな」
声は軽い。軽いのに、刃の位置はもう決まっている。
セリスィンは返事をしない。返事の代わりに構えを低くした。
審判役が二人の間に入り、杖を振り下ろす。
「――始め!」
最初の一拍で、世界の速度が変わった。
テオトニクスが踏み込む。
“踏み込んだ”というより、砂の上を滑るみたいに距離が詰まる。刃先がセリスィンの視界に入った時には、もうそこにある。
(速い)
セリスィンは受けない。受ければ持っていかれる。
半歩だけ角度を変え、刃を外す。木剣ではない。今日は本番の刃だ。防具があっても痛みは残る。
一撃、二撃、三撃。
テオトニクスの連撃は“打って止まる”がない。打って、次の打点へ移る。間合いの外へ出て、また入る。呼吸の切れ目が見つからない。
「おいおい、ええ反応するやん。ほな、もうちょい早よするで」
観客が笑う。煽っているのに、嫌味がない。
セリスィンの中の何かが苛立つより先に、身体が対応を選ぶ。――防ぐ。避ける。下がらない。下がりすぎれば、観客が作る“壁”に追い詰められる。
セリスィンはあえて一歩、前へ出た。
距離を殺す。刃が振り切れない位置へ。
テオトニクスの目が一瞬だけ細くなった。
だが彼は慌てない。半身になって肩でいなし、手首へ浅く当てて逃げる。
逃げられた。追えば、またあちらのリズム。
(追うな。影を踏むな)
セリスィンは追わずに、剣を振った。
狙いではない。合わせでもない。――ただ、振った。
無謀な一閃。二閃。三閃。
剣筋は荒い。けれど、荒いぶんだけ“読み”から外れる。
テオトニクスの足が止まったわけではない。
だが、ほんの僅かに“線”が乱れた。連撃の間に、空白が生まれる。
「……あ?」
テオトニクスの声が、初めて素で漏れた。
観客がどっと沸く。乱暴な剣は分かりやすい。分かりやすいものは、盛り上がる。
セリスィンはその歓声を背中で受けたまま、さらに振った。
一心不乱。脳が熱に塗りつぶされる前に、身体だけで“止める”。
テオトニクスは一歩引き、距離を取り直す。
取り直したのに、すぐ入ってこない。入れないのではない。入る瞬間の“読み”が定まらない。
「……無茶するなぁ。そっちのが先に折れるで」
軽口が戻る。戻るが、目は笑っていない。
セリスィンの剣が荒い分だけ、当たれば危ない。相手はそれも分かっている。
(効いてる)
効いている、と言うほどではない。
ただ、速さだけで押し切る“道”が、一瞬塞がった。
セリスィンは振り続けた。
振り続けながら、身体の内側で別の音が鳴り始める。
息が荒くなる。腕が重くなる。指が痺れる。
体力が削れていく速度が、自分でも分かる。
(まずい)
このまま振り続けたら、先に自分が止まる。
止まった瞬間に、テオトニクスの刃が入る。
セリスィンは一歩、二歩と下がり、距離を切った。
観客が「逃げた」と騒ぐ前に、セリスィンは膝を落とし、重心を低く沈めた。
剣先を前に出すのではなく、刃を“溜める”ように構える。
腰を落とし、上体をわずかに前へ。視線は相手の胸元――手と肩の動きを読むための位置。
テオトニクスが、少しだけ首を傾げた。
「……なんやそれ」
セリスィンは答えない。
答える息が惜しい。いま必要なのは言葉じゃない。――一度で流れを変える刃だ。
コロッセウムの喧騒が、奇妙に遠のいた。
砂を踏む音、旗のはためき、どこかの鳥の声まで聞こえる。
テオトニクスが一歩、入ってくる。
その足の角度が変わる瞬間を、セリスィンは待った。
(来い)
刃を引き絞ったまま、セリスィンの身体は静止していた。
次の一閃が、何かを決める。




