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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第5章 その男、カエサル
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熱砂の序章

砂に足を下ろした瞬間、コロッセウムは“器”ではなく“生き物”になった。

石段のざわめきが皮膚を撫で、天蓋の陰の貴賓席から落ちる視線が、背骨の芯を冷やす。


呼び出し役の声が張り上がる。


「――セリスィン!」

続けて、名が叩きつけられた。

「――テオトニクス!」


歓声の質が変わった。期待というより、確信に近い。

“勢い”を見に来た者の声だ。


セリスィンは面の内側で息を吸い、吐いた。肩を落とす。腰を座らせる。

身体は軽い。だが、軽いまま浮いたら終わる。足裏で砂を掴む。


向かいから、テオトニクスが歩いてくる。

兜の下の目がよく動く。観客に一度、審判役に一度、相手に一度。全部に礼をするような視線の配り方だ。場を味方につけるのが上手い。


「よろしゅうな」


声は軽い。軽いのに、刃の位置はもう決まっている。

セリスィンは返事をしない。返事の代わりに構えを低くした。


審判役が二人の間に入り、杖を振り下ろす。


「――始め!」


最初の一拍で、世界の速度が変わった。


テオトニクスが踏み込む。

“踏み込んだ”というより、砂の上を滑るみたいに距離が詰まる。刃先がセリスィンの視界に入った時には、もうそこにある。


(速い)


セリスィンは受けない。受ければ持っていかれる。

半歩だけ角度を変え、刃を外す。木剣ではない。今日は本番の刃だ。防具があっても痛みは残る。


一撃、二撃、三撃。

テオトニクスの連撃は“打って止まる”がない。打って、次の打点へ移る。間合いの外へ出て、また入る。呼吸の切れ目が見つからない。


「おいおい、ええ反応するやん。ほな、もうちょい早よするで」


観客が笑う。煽っているのに、嫌味がない。

セリスィンの中の何かが苛立つより先に、身体が対応を選ぶ。――防ぐ。避ける。下がらない。下がりすぎれば、観客が作る“壁”に追い詰められる。


セリスィンはあえて一歩、前へ出た。

距離を殺す。刃が振り切れない位置へ。


テオトニクスの目が一瞬だけ細くなった。

だが彼は慌てない。半身になって肩でいなし、手首へ浅く当てて逃げる。


逃げられた。追えば、またあちらのリズム。


(追うな。影を踏むな)


セリスィンは追わずに、剣を振った。

狙いではない。合わせでもない。――ただ、振った。


無謀な一閃。二閃。三閃。

剣筋は荒い。けれど、荒いぶんだけ“読み”から外れる。


テオトニクスの足が止まったわけではない。

だが、ほんの僅かに“線”が乱れた。連撃の間に、空白が生まれる。


「……あ?」


テオトニクスの声が、初めて素で漏れた。

観客がどっと沸く。乱暴な剣は分かりやすい。分かりやすいものは、盛り上がる。


セリスィンはその歓声を背中で受けたまま、さらに振った。

一心不乱。脳が熱に塗りつぶされる前に、身体だけで“止める”。


テオトニクスは一歩引き、距離を取り直す。

取り直したのに、すぐ入ってこない。入れないのではない。入る瞬間の“読み”が定まらない。


「……無茶するなぁ。そっちのが先に折れるで」


軽口が戻る。戻るが、目は笑っていない。

セリスィンの剣が荒い分だけ、当たれば危ない。相手はそれも分かっている。


(効いてる)


効いている、と言うほどではない。

ただ、速さだけで押し切る“道”が、一瞬塞がった。


セリスィンは振り続けた。

振り続けながら、身体の内側で別の音が鳴り始める。


息が荒くなる。腕が重くなる。指が痺れる。

体力が削れていく速度が、自分でも分かる。


(まずい)


このまま振り続けたら、先に自分が止まる。

止まった瞬間に、テオトニクスの刃が入る。


セリスィンは一歩、二歩と下がり、距離を切った。

観客が「逃げた」と騒ぐ前に、セリスィンは膝を落とし、重心を低く沈めた。


剣先を前に出すのではなく、刃を“溜める”ように構える。

腰を落とし、上体をわずかに前へ。視線は相手の胸元――手と肩の動きを読むための位置。


テオトニクスが、少しだけ首を傾げた。


「……なんやそれ」


セリスィンは答えない。

答える息が惜しい。いま必要なのは言葉じゃない。――一度で流れを変える刃だ。


コロッセウムの喧騒が、奇妙に遠のいた。

砂を踏む音、旗のはためき、どこかの鳥の声まで聞こえる。


テオトニクスが一歩、入ってくる。

その足の角度が変わる瞬間を、セリスィンは待った。


(来い)


刃を引き絞ったまま、セリスィンの身体は静止していた。

次の一閃が、何かを決める。


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