砂が鳴る朝
夜明け前、宿舎の空気は薄い布みたいに冷たかった。
寝息が並ぶ部屋の中で、セリスィンだけが目を開けていた。
天井の染みを数えるのは、もうやめた。
数えたところで、時間は戻らない。来るものは来る。
起き上がり、床に足をつける。
足裏が木の冷たさを拾い、そこから体の芯が目を覚ます。セリスィンは静かに息を吐き、肩を回した。昨日までの“硬さ”が、いない。
動くたびに、骨と筋がきしむような日がある。
今日は違った。関節が滑る。筋が伸びる。刃ではなく、身体のほうが先に「いける」と言っている。
(……変な朝だ)
怖いはずなのに、怖さが尖っていない。
水のように薄く全身に広がって、熱に変わる手前で留まっている。
隣の寝台で布が擦れ、カタルスが起きた。
彼は目を擦らず、最初から起きていたみたいな顔でセリスィンを見る。
「眠れたか」
「少しは」
嘘ではない。眠りの深さより、起きたときの軽さのほうが大事だ。
カタルスは小さく頷き、セリスィンの足元に視線を落とした。
「足が落ち着いてる」
セリスィンは自分の足を見た。
いつもなら、どこかが浮いている。今日は床をつかんでいる。
「……お前の言う“捨てる”ってやつか」
カタルスは答えを急がない。
「捨てたと言うより、握り直したんだろ」
その言い方が、妙に腹に入った。
捨てるのは怖い。握り直すならできる。指の力を変えるだけだ。
食堂ではシリアスに声を掛けられる。
「……今日は、若い連中が死んだ顔をする日だ」
シリアスはそう言って、セリスィンを見る。
「お前は……死んだ顔じゃないな」
セリスィンは返事をせず、手のひらを開いて閉じた。
震えがない。鼓動は速いが、散っていない。
シリアスは鼻で笑ってから、声を落とした。
「勝ちたいなら、勝とうとしすぎるな。生きたいなら、生きようとしすぎるな」
カタルスが横で短く言う。
「余計な力が入る」
「そうだ」
シリアスは言葉を畳むみたいに続けた。
「今日は観客がいる。剣闘士は観客に喰われる。歓声にも、沈黙にも。——だが、お前の相手は観客じゃない」
セリスィンはようやく口を開いた。
「相手は、テオトニクスだ」
「相手は、お前の中にいる“影”だ」
シリアスの言い方は、説教じゃない。経験の重さだ。
セリスィンは息を吐き、顎を引いた。
カタルスが小さく手を伸ばし、セリスィンの肩の位置を直す。ほんの少しだけ下げる。
「肩が上がりそうになったら、今みたいに下げろ。上げたままだと、足が逃げる」
セリスィンは頷いた。
体がやわらかい。だからこそ、崩れるのも早い。崩れる前に戻す。
外で合図の鐘が鳴った。
“出る時間”の音だ。
通路を出ると、空は青く、日がすでに強かった。
石畳が熱を孕み始め、露店は朝から声を張り上げている。パンの匂い、酢の匂い、獣の糞の匂い。人の生活の匂いが混ざって、嫌でも現実に引き戻される。
コロッセウムへ向かう道は、いつもより人が多い。
今日の札が立っているのだろう。噂が先に歩いている。
「テオトニクスだってよ」
「新しい勝ち馬だ」
「いや、もう一人……最近勝ち続けてるやつがいる」
自分のことだと気づいても、セリスィンは顔色を変えない。
歓声にも罵声にも慣れたふりをするのは、剣闘士の皮膚だ。
だが今日は、皮膚の下が違う。
歩きながら、身体の内側が静かに整っていく。足裏が石を掴み、腰が座る。呼吸が深くなる。
(……悪くない)
入口の影が近づくと、コロッセウムの石壁が空を切り取った。
見上げたとき、いつも胸が狭くなる。今日は狭くならない。狭くなる前に、呼吸が入る。
関係者用の通路へ入る直前――
人の流れの隙間に、一つ、見覚えのある顔があった。
ジムージー。
壁の陰に寄り、誰に見られても平気な顔で立っている。
口元だけが笑っていて、目は笑っていない。まるで「ほらな」と言っている。
セリスィンと目が合う。
ジムージーは小さく顎を上げた。祝福でも励ましでもない。結果を先に知っている者の仕草。
(……お前の言うとおり、か)
セリスィンは視線を逸らさずに通り過ぎた。
背中に、ジムージーの笑いが貼りつく。剥がそうとすると、逆に意識がそっちへ行く。だから剥がさない。背中に乗せたまま進む。
通路の奥で、鎧の擦れる音が増える。
控え室の扉。武具。革紐。油。いつもの段取り。
カタルスが短く言った。
「今の顔、忘れるな」
「……ジムージーの?」
「違う。お前の“動じなかった”顔だ」
セリスィンは小さく頷いた。
控え室から砂へ出る直前、係が耳打ちしてきた。
「今日は上が多い。目を上げすぎるな」
その忠告はいつもと違う重さを持っていた。
“上”――貴賓席。
セリスィンは返事の代わりに、革面を締め直した。
締める手が震えていない。そこだけが頼りだ。
鉄格子が開く。
熱風と、客席のざわめきが一気に流れ込む。砂の光が目に刺さる。
セリスィンは一歩、踏み出した。
歓声はまだ本格的じゃない。試合が始まる前の、期待のざわめき。
その中で、特等席の天蓋が揺れているのが見えた。
ふと、そちらを見てしまった。
そこに――とてつもない顔があった。
派手な装飾ではない。
声を張ってもいない。
ただ座っているだけで、周囲の空気が“従っている”ように見える顔。
護衛の位置が違う。侍る者の姿勢が違う。
そして何より、視線が違った。剣闘士を見る目ではない。剣闘士の先――この国の行く先まで測っている目。
セリスィンは、無意識に息を止めていた。
(……なんだ、あれは)
名は知らない。呼ばれているのも聞こえない。
けれど、あの席にいるべき“格”の人間だと本能が理解してしまう。
審判役の杖が鳴り、呼び出し役が声を張った。
「本日の注目の一戦——!」
次に呼ばれるのは、自分と、テオトニクスだ。
セリスィンは視線を前へ戻した。
貴賓席の顔を、頭の片隅へ押し込み、足裏に意識を戻す。
(相手は影だ)
(相手はテオトニクスだ)
(そして——俺だ)




