表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第4章 穿つ剣戟
43/165

砂が鳴る朝

夜明け前、宿舎の空気は薄い布みたいに冷たかった。

寝息が並ぶ部屋の中で、セリスィンだけが目を開けていた。


天井の染みを数えるのは、もうやめた。

数えたところで、時間は戻らない。来るものは来る。


起き上がり、床に足をつける。

足裏が木の冷たさを拾い、そこから体の芯が目を覚ます。セリスィンは静かに息を吐き、肩を回した。昨日までの“硬さ”が、いない。


動くたびに、骨と筋がきしむような日がある。

今日は違った。関節が滑る。筋が伸びる。刃ではなく、身体のほうが先に「いける」と言っている。


(……変な朝だ)


怖いはずなのに、怖さが尖っていない。

水のように薄く全身に広がって、熱に変わる手前で留まっている。


隣の寝台で布が擦れ、カタルスが起きた。

彼は目を擦らず、最初から起きていたみたいな顔でセリスィンを見る。


「眠れたか」


「少しは」


嘘ではない。眠りの深さより、起きたときの軽さのほうが大事だ。

カタルスは小さく頷き、セリスィンの足元に視線を落とした。


「足が落ち着いてる」


セリスィンは自分の足を見た。

いつもなら、どこかが浮いている。今日は床をつかんでいる。


「……お前の言う“捨てる”ってやつか」


カタルスは答えを急がない。


「捨てたと言うより、握り直したんだろ」


その言い方が、妙に腹に入った。

捨てるのは怖い。握り直すならできる。指の力を変えるだけだ。



食堂ではシリアスに声を掛けられる。


「……今日は、若い連中が死んだ顔をする日だ」


シリアスはそう言って、セリスィンを見る。


「お前は……死んだ顔じゃないな」


セリスィンは返事をせず、手のひらを開いて閉じた。

震えがない。鼓動は速いが、散っていない。


シリアスは鼻で笑ってから、声を落とした。


「勝ちたいなら、勝とうとしすぎるな。生きたいなら、生きようとしすぎるな」


カタルスが横で短く言う。


「余計な力が入る」


「そうだ」


シリアスは言葉を畳むみたいに続けた。


「今日は観客がいる。剣闘士は観客に喰われる。歓声にも、沈黙にも。——だが、お前の相手は観客じゃない」


セリスィンはようやく口を開いた。


「相手は、テオトニクスだ」


「相手は、お前の中にいる“影”だ」


シリアスの言い方は、説教じゃない。経験の重さだ。

セリスィンは息を吐き、顎を引いた。


カタルスが小さく手を伸ばし、セリスィンの肩の位置を直す。ほんの少しだけ下げる。


「肩が上がりそうになったら、今みたいに下げろ。上げたままだと、足が逃げる」


セリスィンは頷いた。

体がやわらかい。だからこそ、崩れるのも早い。崩れる前に戻す。


外で合図の鐘が鳴った。

“出る時間”の音だ。


通路を出ると、空は青く、日がすでに強かった。

石畳が熱を孕み始め、露店は朝から声を張り上げている。パンの匂い、酢の匂い、獣の糞の匂い。人の生活の匂いが混ざって、嫌でも現実に引き戻される。


コロッセウムへ向かう道は、いつもより人が多い。

今日の札が立っているのだろう。噂が先に歩いている。


「テオトニクスだってよ」

「新しい勝ち馬だ」

「いや、もう一人……最近勝ち続けてるやつがいる」


自分のことだと気づいても、セリスィンは顔色を変えない。

歓声にも罵声にも慣れたふりをするのは、剣闘士の皮膚だ。


だが今日は、皮膚の下が違う。

歩きながら、身体の内側が静かに整っていく。足裏が石を掴み、腰が座る。呼吸が深くなる。


(……悪くない)


入口の影が近づくと、コロッセウムの石壁が空を切り取った。

見上げたとき、いつも胸が狭くなる。今日は狭くならない。狭くなる前に、呼吸が入る。


関係者用の通路へ入る直前――

人の流れの隙間に、一つ、見覚えのある顔があった。


ジムージー。


壁の陰に寄り、誰に見られても平気な顔で立っている。

口元だけが笑っていて、目は笑っていない。まるで「ほらな」と言っている。


セリスィンと目が合う。

ジムージーは小さく顎を上げた。祝福でも励ましでもない。結果を先に知っている者の仕草。


(……お前の言うとおり、か)


セリスィンは視線を逸らさずに通り過ぎた。

背中に、ジムージーの笑いが貼りつく。剥がそうとすると、逆に意識がそっちへ行く。だから剥がさない。背中に乗せたまま進む。


通路の奥で、鎧の擦れる音が増える。

控え室の扉。武具。革紐。油。いつもの段取り。


カタルスが短く言った。


「今の顔、忘れるな」


「……ジムージーの?」


「違う。お前の“動じなかった”顔だ」


セリスィンは小さく頷いた。


控え室から砂へ出る直前、係が耳打ちしてきた。


「今日は上が多い。目を上げすぎるな」


その忠告はいつもと違う重さを持っていた。

“上”――貴賓席。


セリスィンは返事の代わりに、革面を締め直した。

締める手が震えていない。そこだけが頼りだ。


鉄格子が開く。

熱風と、客席のざわめきが一気に流れ込む。砂の光が目に刺さる。


セリスィンは一歩、踏み出した。


歓声はまだ本格的じゃない。試合が始まる前の、期待のざわめき。

その中で、特等席の天蓋が揺れているのが見えた。


ふと、そちらを見てしまった。


そこに――とてつもない顔があった。


派手な装飾ではない。

声を張ってもいない。

ただ座っているだけで、周囲の空気が“従っている”ように見える顔。


護衛の位置が違う。侍る者の姿勢が違う。

そして何より、視線が違った。剣闘士を見る目ではない。剣闘士の先――この国の行く先まで測っている目。


セリスィンは、無意識に息を止めていた。


(……なんだ、あれは)


名は知らない。呼ばれているのも聞こえない。

けれど、あの席にいるべき“格”の人間だと本能が理解してしまう。


審判役の杖が鳴り、呼び出し役が声を張った。


「本日の注目の一戦——!」


次に呼ばれるのは、自分と、テオトニクスだ。


セリスィンは視線を前へ戻した。

貴賓席の顔を、頭の片隅へ押し込み、足裏に意識を戻す。


(相手は影だ)


(相手はテオトニクスだ)


(そして——俺だ)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ