剣闘士への路
結局セリスィンは、男の言うとおり剣闘士になることにした。
――といっても、その場ではそう答えただけだ。頃合いを見て逃げればいい。そう思っていた。
男は、あの後ジムージーと名乗った。気が変わらないうちに話をまとめ、セリスィンを連れ出す。こちらも従順なふりをして、出口を探す――それがセリスィンの算段だった。
「ここが宿舎だ」
翌日、ジムージーに連れてこられたのは、市街地にある塀の高い立派な建物だった。住居というより、施設だ。門をくぐると中庭があり、汗と油と鉄の匂いが混じっている。
「ここが……」
セリスィンは見上げた。
これほどの規模なら、何十人いてもおかしくない。壁に手を当てると、ひやりと硬い。
「火山灰を混ぜた漆喰だ。石灰に割石、水――それで固める。簡単には崩れねえ」
ジムージーは説明を切ると、さっさと敷地の奥へ歩き出した。
「ちょっと待てよ」
この男はマイペースだ。追わせることに罪悪感がない。
中へ入ると、玄関の広間で男が二人話していた。うち一人――腹の出た中年がこちらに気づき、揉み手をしながら駆け寄ってくる。
「これはこれは、ジムージー様。お待ちしておりましたとも」
「おう、プナガンダ。調子はどうだ?」
ジムージーが、からかうように言った。
「へい、おかげさまで。景気がようござんす」
プナガンダは何度も頭を下げる。
「ここの舎監をしてるプナガンダだ。お前も世話になる。挨拶しとけ」
ジムージーがセリスィンへ顎をしゃくる。
「……よろしくお願いします」
セリスィンは一応、丁寧に頭を下げた。
「はいはい。あなたが噂の志願者ですね」
プナガンダは笑い、ジムージーへ視線を投げる。
「ジムージー様が連れてくる方は皆さん腕が立つ。こっちも商売が――いやあ、助かりっぱなしですよ」
「まあな」
ジムージーが不敵に笑った。
志願者じゃない、と言い返したくなる。だが今は黙る。言えば面倒が増えるだけだ。
「ちなみにケニス様は応接間に。立ち話も何ですし、すぐお通ししましょう」
プナガンダが言った。“ケニス”の承認が必要――つまりここはジムージーの私物ではなく、組織として動いている。
「ああ、頼む」
三人は応接間へ向かった。
*
扉の前でプナガンダが、控えめに二度ノックした。
「入れ」
中から嗄れた声。
「失礼します」
扉が開く。
部屋の奥にいた男を見た瞬間、セリスィンは理解した。こいつがケニスだ、と。
ただ立っているだけなのに、空気が締まる。背筋が真っ直ぐで、視線がぶれない。長く伸びた髭が、年齢以上の圧を作っていた。
「よく来たな」
ケニスは言った。
「君が今回の志願者というわけだな」
セリスィンの喉が、わずかに鳴る。
「……はい」
なるべく声を崩さないように答えた。
「座りたまえ」
簡素な机を挟み、ソファが向かい合っている。ケニスが腰を下ろし、セリスィンも倣って座った。
「さて」
ケニスは衣服の襟元を整え、淡々と告げる。
「私がこのルドゥス――この養成所の責任者、ケニスだ。以後、承知しておけ」
そう言って、握手を求めた。
セリスィンもゆっくり手を出し、握る。
瞬間、手から伝わるものに息が詰まった。ごつごつして硬い。力があるだけじゃない。“戦ってきた手”だ。剣だけでなく、人生そのものの険しさが染みついている。
「……」
呆けたセリスィンに、ジムージーが余計な口を挟む。
「こいつ、もともと浮浪の孤児なんだ」
「ほう」
ケニスは髭に指を当て、見定めるように目を細めた。
「家族は?」
「母がいた。だが……ある事件に巻き込まれて死んだ」
それ以来、独りだ。セリスィンは短く答えた。
「なるほど」
ケニスは一度だけ頷き、すっと立ち上がる。
「一本、立ち合ってみるか?」
外へ行け、と顎で示す。
「今から?」
セリスィンは思わずジムージーを見る。ジムージーは「行け」という顔で笑っていた。プナガンダも、面白そうに目を光らせている。
中庭へ出る。
ケニスは木剣を手に取り、軽く素振りをした。初老の男の動きじゃない。重心が低く、無駄がない。
「さあ、来い」
ケニスはチュニカの袖を縛り、腕を出す。
「……いいのか?」
セリスィンは流儀が分からず確認した。
「ああ。どこからでも」
余裕の笑み。
なら容赦はいらない。セリスィンは踏み込み、連撃を浴びせた。
だが、当たらない。
ケニスは“読んだ”というより、“そこにいる”だけで攻撃の道を消してくる。木剣が弾かれ、体勢が崩れた瞬間、肩へコツンと打ち込まれた。
「今ので一回死んだな」
冗談めかして言うケニスに、セリスィンの眉が跳ねる。
苛立ちを噛み殺し、セリスィンは呼吸を整えた。焦って力むほど、相手の間合いに飲まれる。
剣と剣の間に、左脇腹がわずかに空いた――そう見えた。
セリスィンは木剣を寝かせ、水平に払う。
しかしケニスは、腹だけを後ろへ引いてかわした。セリスィンの木剣は衣をかすめるだけ。
「惜しい」
次の瞬間、背中へ二打目。空気が肺から抜ける。喉の奥が詰まる感覚。
強い。しかも落ち着いている。ジムージーと渡り合えるというのも嘘じゃない――いや、もしかすると、こいつのほうが厄介かもしれない。
セリスィンは距離を取った。
低い姿勢。剣は脇に抱え、重心を落とす。
「ふむ」
ケニスの口元が、かすかに上がった。嬉しそうですらある。ケニスもまた、片手で切っ先を向ける独特の構えを取った。
「来なさい」
セリスィンは相手の挑発に乗らない。自分の間で測り、一気に距離を詰めた。
「……ぬ」
ケニスの余裕が一瞬だけ消えた。
セリスィンは懐へ潜り込み、渾身の一閃を叩き込む。
はた目には、決まった。
ケニスが後方へ体を流す。だが、次の瞬間――セリスィンの木剣に、嫌な音が走った。
ひび割れ、真っ二つに折れる。
「いやはや、お見事」
ケニスは立ち上がり、自分の木剣の“甲”を見せた。受けた一点だけが、深く傷ついている。
「……まじかよ」
セリスィンは呆然と呟いた。手応えは確かにあった。なのに、潰された。
いつの間にか傍に来ていたジムージーが、囁くように言う。
「ケニスは元剣闘士だ。拾われて、生き延びて、ここまで上がった」
そして、セリスィンを見て笑う。
「お前が見習うべき“上がり方”の一つだ」
ジムージーはケニスへ声を投げた。
「で、どうよ。こいつ」
「ふむ」
ケニスはセリスィンを眺め、短く答える。
「体力、筋力は十分。判断も速い」
たった一度の立ち合いで、どこまで見たのか。
「それに――面構えだ。凡人にはない“引っかかり”がある」
「確かに」
ジムージーが被せる。
ケニスは一歩近づき、言った。
「結構。採る」
「そいつぁどうも」
ジムージーが、嬉しそうに笑った。
「ただし条件がある」
ケニスが遮る。
「来月、町の競技会がある。そこでの戦いぶりを見て、正式に所属を認める」
ジムージーは一拍おいて頷く。
「ああ、それでいい」
ケニスはセリスィンへ向け、低く笑った。
「お前の剣を見て分かったことが二つある。一つ、確かに強い」
そして、もう一つ。
「……俺と似て、ずる賢い」
セリスィンは内心舌打ちした。逃げる算段まで、見抜かれている。
「プナガンダ。それまでこいつを叩き直せ」
「へい、かしこまりました」
こうしてセリスィンの剣闘士としての生活が始まった。
――この選択が、自分の人生を大きく変えることになると、彼はまだ知らない。




