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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第1章 無名の孤児
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剣闘士への路

結局セリスィンは、男の言うとおり剣闘士になることにした。


――といっても、その場ではそう答えただけだ。頃合いを見て逃げればいい。そう思っていた。


男は、あの後ジムージーと名乗った。気が変わらないうちに話をまとめ、セリスィンを連れ出す。こちらも従順なふりをして、出口を探す――それがセリスィンの算段だった。


「ここが宿舎だ」


翌日、ジムージーに連れてこられたのは、市街地にある塀の高い立派な建物だった。住居というより、施設だ。門をくぐると中庭があり、汗と油と鉄の匂いが混じっている。


「ここが……」


セリスィンは見上げた。


これほどの規模なら、何十人いてもおかしくない。壁に手を当てると、ひやりと硬い。


火山灰ポッツォラーナを混ぜた漆喰だ。石灰に割石、水――それで固める。簡単には崩れねえ」


ジムージーは説明を切ると、さっさと敷地の奥へ歩き出した。


「ちょっと待てよ」


この男はマイペースだ。追わせることに罪悪感がない。


中へ入ると、玄関の広間で男が二人話していた。うち一人――腹の出た中年がこちらに気づき、揉み手をしながら駆け寄ってくる。


「これはこれは、ジムージー様。お待ちしておりましたとも」


「おう、プナガンダ。調子はどうだ?」


ジムージーが、からかうように言った。


「へい、おかげさまで。景気がようござんす」


プナガンダは何度も頭を下げる。


「ここの舎監しゃかんをしてるプナガンダだ。お前も世話になる。挨拶しとけ」


ジムージーがセリスィンへ顎をしゃくる。


「……よろしくお願いします」


セリスィンは一応、丁寧に頭を下げた。


「はいはい。あなたが噂の志願者ですね」


プナガンダは笑い、ジムージーへ視線を投げる。


「ジムージー様が連れてくる方は皆さん腕が立つ。こっちも商売が――いやあ、助かりっぱなしですよ」


「まあな」


ジムージーが不敵に笑った。


志願者じゃない、と言い返したくなる。だが今は黙る。言えば面倒が増えるだけだ。


「ちなみにケニス様は応接間に。立ち話も何ですし、すぐお通ししましょう」


プナガンダが言った。“ケニス”の承認が必要――つまりここはジムージーの私物ではなく、組織として動いている。


「ああ、頼む」


三人は応接間へ向かった。


*


扉の前でプナガンダが、控えめに二度ノックした。


「入れ」


中から嗄れた声。


「失礼します」


扉が開く。


部屋の奥にいた男を見た瞬間、セリスィンは理解した。こいつがケニスだ、と。


ただ立っているだけなのに、空気が締まる。背筋が真っ直ぐで、視線がぶれない。長く伸びた髭が、年齢以上の圧を作っていた。


「よく来たな」


ケニスは言った。


「君が今回の志願者というわけだな」


セリスィンの喉が、わずかに鳴る。


「……はい」


なるべく声を崩さないように答えた。


「座りたまえ」


簡素な机を挟み、ソファが向かい合っている。ケニスが腰を下ろし、セリスィンも倣って座った。


「さて」


ケニスは衣服の襟元を整え、淡々と告げる。


「私がこのルドゥス――この養成所の責任者、ケニスだ。以後、承知しておけ」


そう言って、握手を求めた。


セリスィンもゆっくり手を出し、握る。


瞬間、手から伝わるものに息が詰まった。ごつごつして硬い。力があるだけじゃない。“戦ってきた手”だ。剣だけでなく、人生そのものの険しさが染みついている。


「……」


呆けたセリスィンに、ジムージーが余計な口を挟む。


「こいつ、もともと浮浪の孤児なんだ」


「ほう」


ケニスは髭に指を当て、見定めるように目を細めた。


「家族は?」


「母がいた。だが……ある事件に巻き込まれて死んだ」


それ以来、独りだ。セリスィンは短く答えた。


「なるほど」


ケニスは一度だけ頷き、すっと立ち上がる。


「一本、立ち合ってみるか?」


外へ行け、と顎で示す。


「今から?」


セリスィンは思わずジムージーを見る。ジムージーは「行け」という顔で笑っていた。プナガンダも、面白そうに目を光らせている。


中庭へ出る。


ケニスは木剣を手に取り、軽く素振りをした。初老の男の動きじゃない。重心が低く、無駄がない。


「さあ、来い」


ケニスはチュニカの袖を縛り、腕を出す。


「……いいのか?」


セリスィンは流儀が分からず確認した。


「ああ。どこからでも」


余裕の笑み。


なら容赦はいらない。セリスィンは踏み込み、連撃を浴びせた。


だが、当たらない。


ケニスは“読んだ”というより、“そこにいる”だけで攻撃の道を消してくる。木剣が弾かれ、体勢が崩れた瞬間、肩へコツンと打ち込まれた。


「今ので一回死んだな」


冗談めかして言うケニスに、セリスィンの眉が跳ねる。


苛立ちを噛み殺し、セリスィンは呼吸を整えた。焦って力むほど、相手の間合いに飲まれる。


剣と剣の間に、左脇腹がわずかに空いた――そう見えた。


セリスィンは木剣を寝かせ、水平に払う。


しかしケニスは、腹だけを後ろへ引いてかわした。セリスィンの木剣は衣をかすめるだけ。


「惜しい」


次の瞬間、背中へ二打目。空気が肺から抜ける。喉の奥が詰まる感覚。


強い。しかも落ち着いている。ジムージーと渡り合えるというのも嘘じゃない――いや、もしかすると、こいつのほうが厄介かもしれない。


セリスィンは距離を取った。


低い姿勢。剣は脇に抱え、重心を落とす。


「ふむ」


ケニスの口元が、かすかに上がった。嬉しそうですらある。ケニスもまた、片手で切っ先を向ける独特の構えを取った。


「来なさい」


セリスィンは相手の挑発に乗らない。自分の間で測り、一気に距離を詰めた。


「……ぬ」


ケニスの余裕が一瞬だけ消えた。


セリスィンは懐へ潜り込み、渾身の一閃を叩き込む。


はた目には、決まった。


ケニスが後方へ体を流す。だが、次の瞬間――セリスィンの木剣に、嫌な音が走った。


ひび割れ、真っ二つに折れる。


「いやはや、お見事」


ケニスは立ち上がり、自分の木剣の“甲”を見せた。受けた一点だけが、深く傷ついている。


「……まじかよ」


セリスィンは呆然と呟いた。手応えは確かにあった。なのに、潰された。


いつの間にか傍に来ていたジムージーが、囁くように言う。


「ケニスは元剣闘士だ。拾われて、生き延びて、ここまで上がった」


そして、セリスィンを見て笑う。


「お前が見習うべき“上がり方”の一つだ」


ジムージーはケニスへ声を投げた。


「で、どうよ。こいつ」


「ふむ」


ケニスはセリスィンを眺め、短く答える。


「体力、筋力は十分。判断も速い」


たった一度の立ち合いで、どこまで見たのか。


「それに――面構えだ。凡人にはない“引っかかり”がある」


「確かに」


ジムージーが被せる。


ケニスは一歩近づき、言った。


「結構。採る」


「そいつぁどうも」


ジムージーが、嬉しそうに笑った。


「ただし条件がある」


ケニスが遮る。


「来月、町の競技会がある。そこでの戦いぶりを見て、正式に所属を認める」


ジムージーは一拍おいて頷く。


「ああ、それでいい」


ケニスはセリスィンへ向け、低く笑った。


「お前の剣を見て分かったことが二つある。一つ、確かに強い」


そして、もう一つ。


「……俺と似て、ずる賢い」


セリスィンは内心舌打ちした。逃げる算段まで、見抜かれている。


「プナガンダ。それまでこいつを叩き直せ」


「へい、かしこまりました」


こうしてセリスィンの剣闘士としての生活が始まった。


――この選択が、自分の人生を大きく変えることになると、彼はまだ知らない。

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