影を踏むな
「セリスィン。相手、テオトニクス」
名が落ちた瞬間、砂地の空気が変わった。
ざわめきは期待の色を帯び、外のルドゥスの連中は肩を寄せる。こちらの剣闘士たちは無言で円を作る。
セリスィンは一歩前へ出た。
掌の中でルーディスの柄が微かに鳴る。握りが強すぎる。
向かいから歩いてきたテオトニクスは、軽い顔のままだった。軽いのに、目だけは笑っていない。砂の粒の動きまで読んでいるような目。
「よろしくな」
短く言って、彼は礼をした。馴れ馴れしくもなく、壁も作らない。距離の取り方が上手い。
セリスィンは返事の代わりに構えた。
審判役が両者の間に立ち、杖を砂へ落とす。
「――始め!」
一合目。セリスィンが踏む。
その瞬間、テオトニクスは“消えた”ように見えた。
消えたのではない。半歩、外へ逃がしただけだ。
けれど、その半歩が――セリスィンの刃先を空にする。
(外だ)
昨日から頭に貼りついた答えに、身体が飛びつく。
セリスィンはすぐに追う。追うと、足が前へ出る。前へ出たところへ、テオトニクスの打ち込みが来る。
浅い。けれど、正確。
面の縁、腕の外側、膝の上――当てれば痛い場所だけを選んで叩く。
「焦らんでええ。踏み込み、ええの持ってる」
テオトニクスは喋りながら退く。退きながら当てる。
息が乱れない。声が乱れない。
セリスィンは歯を噛み、もう一段踏んだ。
押し切る。押し切って、相手を止める。
――止まらない。
テオトニクスは受けずに流し、盾の縁でセリスィンの剣筋を“撫でて”外した。剣がずれる。ずれた剣を追って、セリスィンの肩が開く。
その瞬間に、肋へ軽い打ち込み。
セリスィンの息が一瞬詰まった。
(ずれる)
今のは技の差ではない。
自分の中の命令が二つに割れているせいだ。
“押せ”という古い命令と、“外へ回れ”という新しい命令。
その両方を同時にやろうとして、どちらも中途半端になる。
テオトニクスは、それを見抜いている。
「今の、無理してるやろ。無理したら癖が出る。癖出たら――読める」
言い終える前に、また半歩。
セリスィンの刃先がまた空を切る。
周囲がどよめく。「圧されてる」「追わされてる」
そんな声が混ざる。
セリスィンは一度、わざと踏み込みを止めた。
追うのをやめる。足を止める。
テオトニクスが少しだけ眉を上げた。止まったのが見えたのだ。
(……いま)
セリスィンは次の瞬間、直線で突っ込んだ。
外へ回るのを捨てる。相手の“外”ではなく、相手の“芯”を踏みにいく。
テオトニクスの表情が初めて動いた。驚きではない。警戒だ。
だが――やはり、速い。
テオトニクスは下がらず、角度だけ変えた。
セリスィンの踏み込みの力を受け流し、すれ違いざまに手首を叩く。
ルーディスが落ちかける。
セリスィンは落とさない。握り潰すみたいに耐え、肩をぶつけて距離を殺した。
剣が振れない距離。
ここなら、勝負は力になる。
テオトニクスの息が一瞬だけ変わった。
軽い呼吸が、ほんの少し深くなる。初めて“圧”を感じたのだ。
セリスィンはそのまま、足をかけにいった。
昨日の“外”ではない。自分の土俵の崩し。
――しかし、テオトニクスはそれすら読んでいた。
掛けられる前に、相手の重心が抜ける。
抜けた重心で、反対にセリスィンの膝を軽く叩く。力ではない。合図みたいな一打。
セリスィンの足が、わずかに浮いた。
その一瞬で、テオトニクスは距離を取り直し、刃先をセリスィンの喉元に“置いた”。
動けば、当たる。
動かなければ、終わる。
セリスィンは動かなかった。
「――そこまで!」
審判役の杖が鳴る。
砂地が一度、静まり、それから小さな歓声と笑いが起きた。見応えがあったという反応だ。圧勝を見たときの熱とは違う。技を見たときの熱。
テオトニクスはすぐに刃を引き、距離を空けた。
そして、セリスィンへ軽く頭を下げる。
「強い。入ってこられたとき、肝冷えたわ」
勝者の余裕で言っていない。
本当に、少しだけ肝が冷えた者の口ぶりだった。
セリスィンは喉元に残った感触を、黙って飲み込んだ。
悔しい。けれど、さっき一瞬だけ――相手の呼吸を変えた。
テオトニクスは周囲にも聞こえる声で、余計に場を荒らさないように言う。
「今のは俺が勝った、でええ。けどな、次は分からん。踏み込み、あれは武器や。捨てたらあかん」
セリスィンは視線を上げた。
「……捨ててない」
「せやな。せやけど、途中で“借り物の足”になってた。あれ、危ないで」
テオトニクスは言い切ると、すっと後ろへ下がった。
助言は置くが、踏み込んでこない。押しつけない。――距離の取り方が徹底している。
外の教官が短く笑い、グラシアムは何も言わずに次の組を指示した。
だがセリスィンには、もう他の打ち合いの音が遠かった。
喉元の感触と、相手の呼吸が変わった一瞬だけが、頭の中で反復される。
(影を踏んだ)
(踏んで、負けた)
それでも――ただ負けただけではない。
自分がどこでずれて、どこで戻れたのか。輪郭が見えた。
セリスィンが砂を払って控えへ戻ろうとしたとき、背後からカタルスの声が落ちた。
「今ので分かっただろ」
セリスィンは振り返らない。
「何かを得るには、何かを捨てるしかない。……お前が捨てるべきは“真似したい欲”だ」
その言葉が、頬の浅い傷より痛かった。
門の向こうでは、外のルドゥスの連中がテオトニクスを囲み、次の手合わせの話で盛り上がっている。
テオトニクスは笑いながらも、何度かこちらの砂地へ目をやっていた。誰かを探しているというより、相手の列を“記憶している”目だった。
セリスィンは拳を握り、ほどいた。
(次がある)
合同訓練は、まだ二日残っている。




