合同の砂
朝の砂地は、まだ夜の冷えを抱えていた。
踏めば沈むはずの砂が、どこか硬い。人の数が増える日の砂は、いつもこうだ。
門が開く。荷車の軋み。革の匂い。鉄の乾いた音。
外のルドゥスの一団が、列になって入ってきた。
先頭は見慣れない教官格、続いて剣闘士たち。装備の癖も歩き方も違う。
そして最後に――昨日、コロッセウムの通路で熱を連れてきた男がいた。
テオトニクス。
兜を抱えているのに、背筋だけは伸びていない。力を抜いたまま、周りを見て、周りに合わせている。
隣の若い剣闘士が緊張しているのを見て、何か囁いた。相手が少し笑い、肩が落ちる。
(……ああいうのが、輪の中心に立つ)
セリスィンは視線を逸らした。逸らしたのに、視界の端で追ってしまう。
昨日の歓声が、耳の奥でまた鳴る。
グラシアムが杖を鳴らした。
「規則は一つ。見せ物にするな。――死なせるな」
外の教官が頷く。
「うちも同じだ。勝ち負けより、型と癖を見せろ」
その言葉に、砂地の空気が少しだけ緩む。だが緩み方が違う。
こちらは「命令に従う」緩み。向こうは「場を回す」緩みだ。
外の一団が整列すると、テオトニクスが最後尾で軽く手を上げた。
「ほな三日間、よろしゅう。喧嘩は試合のときでええ。今日は怪我したら損やで」
何人かが苦笑した。敵味方の境目に、薄い橋がかかる。
セリスィンの胃の底だけが、まだ硬いままだった。
準備運動のあと、手合わせが始まる。
木剣と小盾。頭は革の面。打ち込みは許可、突きは抑える。組み手は教官の合図で切る。
「――セリスィン。相手、マルクス」
呼ばれて前に出る。相手は外のルドゥスの中堅だ。肩幅があり、盾の使い方がうまい。
セリスィンは一度、深く息を吸った。
(いつも通りに)
……そう思ったのに、足が勝手に外へ流れた。
昨日見た“外側”を取る動き。あれを混ぜれば、相手の圧を避けられる――そんな浅い考えが、刃より先に体を動かす。
マルクスの盾が、狙ったように当たった。
逃げた先に、盾の縁がある。外へ出たのに、逆に近い。
「遅い!」
打ち込みが肩に落ちる。革面の下で、頬が熱くなる。
セリスィンは踏み直し、押し返そうとする。だが押し返した瞬間、重心が前に出る。前に出たら、今度は相手の土俵だ。
――ズレている。
自分の中で、刃先と足が別の命令を受けている。
セリスィンは無理に角度を変えた。変えた瞬間、足が砂を噛み損ねる。
ルーディスが空を切り、マルクスの一打が面に入った。
「そこまで!」
教官の声で切られる。
胸の奥が、静かに燃えた。怒りというより、薄い屈辱。浅い傷ほど、長く痛む。
グラシアムがセリスィンを見て、ひとことだけ落とす。
「影を踏むな」
セリスィンは返事をしなかった。出来なかった。
砂地の反対側で歓声が上がる。
見るな、と思っても首が動く。
テオトニクスが手合わせをしていた。相手は同じ外のルドゥスの若手――ではない。こちら側の大柄な剣闘士だ。
つまり、向こうの教官が“見せるための相手”を選んだ。
テオトニクスは剣を合わせない。盾も正面で受けない。
半歩、斜め。相手の踏み込みの“重さ”だけを外す。外して、相手が自分の重さに遅れる瞬間だけ、手首を叩く。
派手さはない。
だが、相手の時間がどんどん奪われていく。
「ええよええよ、そのまま来て。……来たな。ほな、ここは入らんとこか」
声が軽い。軽いのに、やっていることは冷たいほど正確だ。
相手が苛立って踏み込む。テオトニクスは一歩だけ退き、角度だけ変える。相手の盾が空を守る。守る先に敵はいない。
最後は一瞬だった。
相手の剣がずれた隙に近づき、刃先を喉元へ“置く”。
終わり。
テオトニクスは相手に手を差し出した。相手が不承不承でも立ち上がると、彼は小さく頷いた。
「悪いな。恥かかせたいわけちゃう。癖、ええの持ってるから直したら強いで」
その一言で、周りの空気がまた変わる。
勝ったのに、相手の面子を最小限で収める。観衆の熱は落とさず、場は荒らさない。
(……あれが“勢い”か)
セリスィンの指先が、知らずに強く握られていた。
意識すればするほど、自分の足がまたズレる気がした。
背後で、カタルスの声が落ちた。
「見すぎだ」
振り返ると、カタルスが水袋を投げてよこした。
セリスィンは受け取り、黙って飲む。
カタルスは砂地を見たまま、意味深に言う。
「何かを得るには、何かを捨てるしかない」
セリスィンは水袋の口を閉め、ようやく口を開いた。
「……何を捨てろって」
「お前がいま握ってるものだよ。たぶん、それは剣じゃない」
カタルスはそれ以上言わず、顎で前を示した。
教官が組み替えを始めている。
「次――」
外の教官が名簿を見て、声を張った。
「セリスィン」
胸が一つ、沈む。
続く名前が、空気を切った。
「相手、テオトニクス」
砂地がざわめく。
さっきまで遠かった熱が、まっすぐこちらへ歩いてくる気配がした。
セリスィンはルーディスを握り直した。
握り直しても、まだ足元が落ち着かない。
(捨てろ。……何を?)
テオトニクスが前へ出る。軽い顔。軽い歩き方。
それが、いちばん怖い。




