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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第4章 穿つ剣戟
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ずれる刃先

翌朝のルドゥスは、昨日の熱狂など無関係だという顔で始まった。

水桶は冷たく、革紐は固く、砂地は昨日より重い。――いつも通りだ。


なのに、セリスィンの内側だけが落ち着かなかった。

目を閉じれば、通路越しに聞いた歓声が蘇る。

開けば、あの男の「速さ」が見える気がした。


(真似るな。追うな)


頭ではわかっている。

わかっているのに、足が勝手に“あっち側”へ寄る。


「組め」


グラシアムの声で模擬戦が始まる。相手は中堅の盾持ちだ。

いつもなら、最初の一合で相手の癖を掴み、二合目で崩す。


――そのはずだった。


セリスィンは一歩目で、半歩外へ逃げた。

外へ、外へ。昨日見た“安全な位置”を取りにいった。


だが外へずらしたせいで、相手の盾の縁が予想より近い。

肩が当たり、視界が跳ねた。


「……ッ」


遅れた。

相手の剣が来る。いつもなら受け流せる距離が、微妙に足りない。盾で受けた瞬間、腕の骨まで響いた。


(位置が——)


取り直そうとして、今度は“止まる”。

止まったせいで、相手が得意な押し込みに入る。


砂が抉れ、踵が流れた。

体勢を立て直すのに一拍かかる。そこへ追撃が来る。


セリスィンは刃を合わせ、無理に押し返した。

押し返した瞬間だけ、身体は昔の自分に戻る。けれど戻ったところで、もう相手は学んでいる。今度は押し合いの途中で角度を変え、盾の重みを“落とす”。


セリスィンの肩が沈んだ。


「そこだ!」


相手の声。

セリスィンが反射で下がる。下がった先に砂の段差。昨日の癖のない足運びなら踏まない位置だった。


足首がひやりと滑り、刃先が頬の横を掠めた。

熱い線が走る。


審判役の合図が入る前に、グラシアムの杖が鳴った。


「止めろ」


砂地が静まった。

相手が息を吐き、セリスィンは頬に触れる。指先に薄い血がついた。浅い。だが、浅いから余計に腹が立つ。


グラシアムはセリスィンを一瞥した。


「お前は昨日、別の剣闘士の影を見たな」


図星だった。

セリスィンは何も言わない。言えば言い訳になる。


「型を捨てるな。型を変えるなとも言わん。だが――誰かの足を借りて戦うな。お前の足で立て」


それだけ言うと、グラシアムは次の組へ目を移した。

叱責というより、突き放すような言葉だった。


昼過ぎ、相部屋の薄暗い部屋。

カタルスは寝台に腰を下ろし、革紐を手入れしながら、セリスィンの頬の傷をちらりと見た。


「いつもより浅い。けど、いつもより危ない」


セリスィンは水を飲んだ。喉が乾くのに、腹の底は冷たいままだ。


「……見ていたのか」


「見てなくても分かる。足がずれてた」


カタルスは笑わない。責める調子でもない。観察したことを、そのまま置く。


「テオトニクスを意識してる」


セリスィンの手が止まった。

否定が出てこないのが、もう答えだった。


カタルスは革紐を締め直し、独り言みたいに言った。


「何かを得るには、何かを捨てるしかない」


その言い方が、妙に重い。

セリスィンは顔を上げた。


「……捨てる? 何を」


「焦りとか。見栄とか。勝ち方の形とか。あるいは——安全だと思ってた場所」


カタルスは言い切らずに、手元へ視線を落とした。


「お前は強い。けど今は、強さを“守るため”に使ってる。守ろうとすると、動きは固くなる。固くなると、余計に他人の影を追う」


セリスィンは答えなかった。

答える言葉が、まだ形にならない。


(捨てる)


捨てたくて捨てられなかったものがある。

橋の上で、届かなかった手。

あれを捨てた瞬間、自分が何になるのか分からない。


夕刻、砂地に全員が集められた。

いつもより人数が多い。世話役たちも周囲に立っている。


グラシアムが短く告げる。


「明日から三日間、合同訓練だ。外のルドゥスが来る」


ざわ、と空気が揺れた。


「試合ではない。だが、動きは見る。名も見る。賭ける奴も出る。——軽率な真似はするな」


その“外”がどこか、誰も聞かなくても分かっていた。

昨日の歓声が、また遠くで鳴った気がする。


門の向こうに、荷車が見えた。

鎧や盾を積んだ車列。その周りを歩く若い剣闘士たち。どれも足取りが軽い。


そして、列の真ん中に——兜を脇に抱えた男がいた。

テオトニクスは周囲へ何か言いながら歩いている。皆が笑っている。笑わせているのではない。“笑える空気”にしている。


門の内側で、彼がふと顔を上げた。

視線が砂地を流れ、剣闘士たちの列を一人ずつ測るように動く。


セリスィンは、無意識に拳を握っていた。

昨日と同じだ。勝った手なのに冷える。


テオトニクスの視線は、セリスィンの位置を通り過ぎた。

止まらない。まだ“ただの一人”のまま。


それが、なぜか腹の底を煮えさせた。


グラシアムの声が落ちる。


「明日の朝、ここに並べ。合同の手合わせもある。——相手は選べない」


その一言で、砂地の空気が変わった。

セリスィンは門の向こうの男を見た。


(戦う機会が——来る)


確信でも希望でもない。

ただ、逃げ場のない予感だった。

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