ずれる刃先
翌朝のルドゥスは、昨日の熱狂など無関係だという顔で始まった。
水桶は冷たく、革紐は固く、砂地は昨日より重い。――いつも通りだ。
なのに、セリスィンの内側だけが落ち着かなかった。
目を閉じれば、通路越しに聞いた歓声が蘇る。
開けば、あの男の「速さ」が見える気がした。
(真似るな。追うな)
頭ではわかっている。
わかっているのに、足が勝手に“あっち側”へ寄る。
「組め」
グラシアムの声で模擬戦が始まる。相手は中堅の盾持ちだ。
いつもなら、最初の一合で相手の癖を掴み、二合目で崩す。
――そのはずだった。
セリスィンは一歩目で、半歩外へ逃げた。
外へ、外へ。昨日見た“安全な位置”を取りにいった。
だが外へずらしたせいで、相手の盾の縁が予想より近い。
肩が当たり、視界が跳ねた。
「……ッ」
遅れた。
相手の剣が来る。いつもなら受け流せる距離が、微妙に足りない。盾で受けた瞬間、腕の骨まで響いた。
(位置が——)
取り直そうとして、今度は“止まる”。
止まったせいで、相手が得意な押し込みに入る。
砂が抉れ、踵が流れた。
体勢を立て直すのに一拍かかる。そこへ追撃が来る。
セリスィンは刃を合わせ、無理に押し返した。
押し返した瞬間だけ、身体は昔の自分に戻る。けれど戻ったところで、もう相手は学んでいる。今度は押し合いの途中で角度を変え、盾の重みを“落とす”。
セリスィンの肩が沈んだ。
「そこだ!」
相手の声。
セリスィンが反射で下がる。下がった先に砂の段差。昨日の癖のない足運びなら踏まない位置だった。
足首がひやりと滑り、刃先が頬の横を掠めた。
熱い線が走る。
審判役の合図が入る前に、グラシアムの杖が鳴った。
「止めろ」
砂地が静まった。
相手が息を吐き、セリスィンは頬に触れる。指先に薄い血がついた。浅い。だが、浅いから余計に腹が立つ。
グラシアムはセリスィンを一瞥した。
「お前は昨日、別の剣闘士の影を見たな」
図星だった。
セリスィンは何も言わない。言えば言い訳になる。
「型を捨てるな。型を変えるなとも言わん。だが――誰かの足を借りて戦うな。お前の足で立て」
それだけ言うと、グラシアムは次の組へ目を移した。
叱責というより、突き放すような言葉だった。
昼過ぎ、相部屋の薄暗い部屋。
カタルスは寝台に腰を下ろし、革紐を手入れしながら、セリスィンの頬の傷をちらりと見た。
「いつもより浅い。けど、いつもより危ない」
セリスィンは水を飲んだ。喉が乾くのに、腹の底は冷たいままだ。
「……見ていたのか」
「見てなくても分かる。足がずれてた」
カタルスは笑わない。責める調子でもない。観察したことを、そのまま置く。
「テオトニクスを意識してる」
セリスィンの手が止まった。
否定が出てこないのが、もう答えだった。
カタルスは革紐を締め直し、独り言みたいに言った。
「何かを得るには、何かを捨てるしかない」
その言い方が、妙に重い。
セリスィンは顔を上げた。
「……捨てる? 何を」
「焦りとか。見栄とか。勝ち方の形とか。あるいは——安全だと思ってた場所」
カタルスは言い切らずに、手元へ視線を落とした。
「お前は強い。けど今は、強さを“守るため”に使ってる。守ろうとすると、動きは固くなる。固くなると、余計に他人の影を追う」
セリスィンは答えなかった。
答える言葉が、まだ形にならない。
(捨てる)
捨てたくて捨てられなかったものがある。
橋の上で、届かなかった手。
あれを捨てた瞬間、自分が何になるのか分からない。
夕刻、砂地に全員が集められた。
いつもより人数が多い。世話役たちも周囲に立っている。
グラシアムが短く告げる。
「明日から三日間、合同訓練だ。外のルドゥスが来る」
ざわ、と空気が揺れた。
「試合ではない。だが、動きは見る。名も見る。賭ける奴も出る。——軽率な真似はするな」
その“外”がどこか、誰も聞かなくても分かっていた。
昨日の歓声が、また遠くで鳴った気がする。
門の向こうに、荷車が見えた。
鎧や盾を積んだ車列。その周りを歩く若い剣闘士たち。どれも足取りが軽い。
そして、列の真ん中に——兜を脇に抱えた男がいた。
テオトニクスは周囲へ何か言いながら歩いている。皆が笑っている。笑わせているのではない。“笑える空気”にしている。
門の内側で、彼がふと顔を上げた。
視線が砂地を流れ、剣闘士たちの列を一人ずつ測るように動く。
セリスィンは、無意識に拳を握っていた。
昨日と同じだ。勝った手なのに冷える。
テオトニクスの視線は、セリスィンの位置を通り過ぎた。
止まらない。まだ“ただの一人”のまま。
それが、なぜか腹の底を煮えさせた。
グラシアムの声が落ちる。
「明日の朝、ここに並べ。合同の手合わせもある。——相手は選べない」
その一言で、砂地の空気が変わった。
セリスィンは門の向こうの男を見た。
(戦う機会が——来る)
確信でも希望でもない。
ただ、逃げ場のない予感だった。




