勝者の呼吸
通路の壁は厚い。けれど声は通る。
石が震えるほどの歓声が、地の底にいるはずのセリスィンの胸まで揺らした。
「テオ! テオトニクス!」
名が波になって押し寄せ、引き潮のように一瞬だけ静まる。
その静けさの芯に、審判役の合図が落ちた。
――始まった。
刃が触れ合う音が、一度。二度。
続いて、盾が鳴る重い音。踏み込みの砂音。
(重い相手だ)
音の厚みでわかる。盾持ちの、前へ出る型。さっきセリスィンが当たった男に似ている。
だが次の瞬間、その“重さ”が途切れた。
刃の音が軽い。盾の音が鳴らない。
代わりに、観衆の息が一斉に吸い込まれる気配だけが膨らんだ。
「うわっ……!」
誰かの短い叫び。
その直後、歓声が爆ぜた。
セリスィンは係の隙を見て、通路の角へ寄った。鉄格子越しに、砂地の一部が見える場所がある。そこから覗くと、陽に照らされた輪の中心で、テオトニクスがすでに“相手の外側”に立っていた。
相手は盾を正面に構えたまま、体が半回転している。
間合いを外され、向き直る前に、肩が揺れる。テオトニクスの刃は当たっていない――当てていない。けれど、相手の軸だけを切り崩している。
(……当てにいってない)
当てれば止まる。止まれば、重い相手の時間になる。
だから当てない。相手の足と息だけを奪っていく。
テオトニクスは笑っていた。嘲りではない。楽しげでもない。
“手順通り”に片づけている顔だ。
「ほら、そっち向いたら遅い。……大丈夫、まだ終わらせへん」
声が届く距離で、相手に言う。
相手は怒って突っ込む。突っ込んだ瞬間、テオトニクスは半歩だけ退き、盾の縁へ刃を当てて角度を狂わせる。盾が役に立たなくなる角度。
次の一手は速かった。
足が絡むように近づき、盾の内側へ入り込む。
相手の剣が振れない距離。テオトニクスの肩が押し、相手の膝が沈む。
剣が落ちた。
砂に刺さる音がして、相手の顔色が変わる。
テオトニクスは刃先を喉元へ“置く”ように止め、審判役へ目だけで合図した。
終わった。
まだ息が上がる前に終わっていた。
観衆は狂ったように吠え、手を叩き、石段が波打つ。
「破竹の勢い」と誰かが叫び、それがまた別の声を呼んだ。
テオトニクスは刃を引き、相手へ手を差し出した。相手は屈辱に歯を食いしばりながらも、その手を取って立つ。
勝者が“勝ち方”だけでなく、“場の収め方”まで心得ているのがわかる。
テオトニクスは観衆へ向き直り、両手を軽く上げた。
「ほな、約束通りや。見た甲斐、あったやろ?」
歓声がさらに跳ねた。
その瞬間、セリスィンの喉が乾いた。
自分が勝ったときの声とは違う。あれは「勝敗」に湧く声だ。
今のは――“名前”に湧いている。
(……こいつは、勝って名を作ってる)
セリスィンは鉄格子から離れた。見続けると、胸の奥がざらつく。
嫉妬ではない。焦りでもない。もっと嫌なものだ。
自分の勝ちは、いつも“次の勝ち”に溶けて消える。
なのに、あの男の勝ちは“残る”。
通路へ戻ってくるテオトニクスは、汗の量が少なかった。
肩で息をしていない。水袋を受け取ると一口だけ飲み、口元を拭う。
取り巻きの若い剣闘士が興奮気味に言う。
「また圧勝だ! 今日で何連勝だよ!」
テオトニクスは大げさに眉を上げた。
「数えとらん。数えたら、途端に負けそうで嫌や」
笑いが起きる。
誰もが彼の側に集まりたがる空気がある。輪の中心に立つのが、最初から決まっていたみたいに自然だ。
そこへ、闘技場の世話役らしい男が近づき、低い声で話しかけた。
「次の興行の名簿に入れる」「上の席の客が名を聞いている」――そんな断片が聞こえた。
テオトニクスは軽く頭を下げる。
「ありがと。せやけど、持ち上げすぎは勘弁してや。落ちたとき痛いからな」
世話役が苦笑し、去っていく。
テオトニクスは見送ってから、取り巻きにだけ聞こえる声に落とした。
「次からは相手、変わるで。今日みたいな“正面の重さ”ばっかりやない。癖の悪いのが来る」
誰かが「怖いのか?」と聞くと、テオトニクスは首を振った。
「怖い言うより、面倒や。面倒を面倒のままにしといたら、血が増える。血が増えたら、金が減る。……嫌やろ?」
実利の言葉なのに、妙に納得させる言い方だった。
セリスィンはそのやり取りを、少し離れた暗がりから見ていた。
気づかれない距離。気づかれたくない距離。
(勝ってるのに、浮かれてない)
(喋ってるのに、薄くない)
あの“軽さ”は、生まれつきの陽気さじゃない。
刃と同じだ。使いどころを間違えない道具。
セリスィンは背を向け、控え室へ戻った。
自分の腕と足が、急に不器用に思えた。
その夜、ルドゥスの砂地。
セリスィンは灯りの届かない端で、一人、足だけを動かしていた。
踏む。止まる。戻る。
踏む。止まる。戻る。
腕ではなく足。勝ちを決めたのは刃ではなく“位置”だった。
テオトニクスの剣は、相手を切ったのではない。相手の“間違い”を増やした。
セリスィンは自分の癖を思い出す。
追う。詰める。押す。――相手の土俵に乗る。
(あれをやめろ)
口に出さずに、胸の中だけで言う。
言っただけでは直らない。身体が嫌がっても、直すしかない。
踏む。止まる。戻る。
膝が笑う。足首が痛む。砂が爪の間に噛む。
それでもやめなかった。
遠くで夜番の足音がした。
セリスィンは振り返らず、ただ、足を動かし続けた。
“届かなかった手”の記憶が、消えることはない。
なら、せめて――次に掴むための足を作る。
闇の中で、砂を踏む音だけが、一定のリズムを刻んでいた。




