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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第4章 穿つ剣戟
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勝者の呼吸

通路の壁は厚い。けれど声は通る。

石が震えるほどの歓声が、地の底にいるはずのセリスィンの胸まで揺らした。


「テオ! テオトニクス!」


名が波になって押し寄せ、引き潮のように一瞬だけ静まる。

その静けさの芯に、審判役の合図が落ちた。


――始まった。


刃が触れ合う音が、一度。二度。

続いて、盾が鳴る重い音。踏み込みの砂音。


(重い相手だ)


音の厚みでわかる。盾持ちの、前へ出る型。さっきセリスィンが当たった男に似ている。

だが次の瞬間、その“重さ”が途切れた。


刃の音が軽い。盾の音が鳴らない。

代わりに、観衆の息が一斉に吸い込まれる気配だけが膨らんだ。


「うわっ……!」


誰かの短い叫び。

その直後、歓声が爆ぜた。


セリスィンは係の隙を見て、通路の角へ寄った。鉄格子越しに、砂地の一部が見える場所がある。そこから覗くと、陽に照らされた輪の中心で、テオトニクスがすでに“相手の外側”に立っていた。


相手は盾を正面に構えたまま、体が半回転している。

間合いを外され、向き直る前に、肩が揺れる。テオトニクスの刃は当たっていない――当てていない。けれど、相手の軸だけを切り崩している。


(……当てにいってない)


当てれば止まる。止まれば、重い相手の時間になる。

だから当てない。相手の足と息だけを奪っていく。


テオトニクスは笑っていた。嘲りではない。楽しげでもない。

“手順通り”に片づけている顔だ。


「ほら、そっち向いたら遅い。……大丈夫、まだ終わらせへん」


声が届く距離で、相手に言う。

相手は怒って突っ込む。突っ込んだ瞬間、テオトニクスは半歩だけ退き、盾の縁へ刃を当てて角度を狂わせる。盾が役に立たなくなる角度。


次の一手は速かった。


足が絡むように近づき、盾の内側へ入り込む。

相手の剣が振れない距離。テオトニクスの肩が押し、相手の膝が沈む。


剣が落ちた。


砂に刺さる音がして、相手の顔色が変わる。

テオトニクスは刃先を喉元へ“置く”ように止め、審判役へ目だけで合図した。


終わった。

まだ息が上がる前に終わっていた。


観衆は狂ったように吠え、手を叩き、石段が波打つ。

「破竹の勢い」と誰かが叫び、それがまた別の声を呼んだ。


テオトニクスは刃を引き、相手へ手を差し出した。相手は屈辱に歯を食いしばりながらも、その手を取って立つ。

勝者が“勝ち方”だけでなく、“場の収め方”まで心得ているのがわかる。


テオトニクスは観衆へ向き直り、両手を軽く上げた。


「ほな、約束通りや。見た甲斐、あったやろ?」


歓声がさらに跳ねた。


その瞬間、セリスィンの喉が乾いた。

自分が勝ったときの声とは違う。あれは「勝敗」に湧く声だ。

今のは――“名前”に湧いている。


(……こいつは、勝って名を作ってる)


セリスィンは鉄格子から離れた。見続けると、胸の奥がざらつく。

嫉妬ではない。焦りでもない。もっと嫌なものだ。


自分の勝ちは、いつも“次の勝ち”に溶けて消える。

なのに、あの男の勝ちは“残る”。


通路へ戻ってくるテオトニクスは、汗の量が少なかった。

肩で息をしていない。水袋を受け取ると一口だけ飲み、口元を拭う。


取り巻きの若い剣闘士が興奮気味に言う。


「また圧勝だ! 今日で何連勝だよ!」


テオトニクスは大げさに眉を上げた。


「数えとらん。数えたら、途端に負けそうで嫌や」


笑いが起きる。

誰もが彼の側に集まりたがる空気がある。輪の中心に立つのが、最初から決まっていたみたいに自然だ。


そこへ、闘技場の世話役らしい男が近づき、低い声で話しかけた。

「次の興行の名簿に入れる」「上の席の客が名を聞いている」――そんな断片が聞こえた。


テオトニクスは軽く頭を下げる。


「ありがと。せやけど、持ち上げすぎは勘弁してや。落ちたとき痛いからな」


世話役が苦笑し、去っていく。

テオトニクスは見送ってから、取り巻きにだけ聞こえる声に落とした。


「次からは相手、変わるで。今日みたいな“正面の重さ”ばっかりやない。癖の悪いのが来る」


誰かが「怖いのか?」と聞くと、テオトニクスは首を振った。


「怖い言うより、面倒や。面倒を面倒のままにしといたら、血が増える。血が増えたら、金が減る。……嫌やろ?」


実利の言葉なのに、妙に納得させる言い方だった。


セリスィンはそのやり取りを、少し離れた暗がりから見ていた。

気づかれない距離。気づかれたくない距離。


(勝ってるのに、浮かれてない)


(喋ってるのに、薄くない)


あの“軽さ”は、生まれつきの陽気さじゃない。

刃と同じだ。使いどころを間違えない道具。


セリスィンは背を向け、控え室へ戻った。

自分の腕と足が、急に不器用に思えた。


その夜、ルドゥスの砂地。

セリスィンは灯りの届かない端で、一人、足だけを動かしていた。


踏む。止まる。戻る。

踏む。止まる。戻る。


腕ではなく足。勝ちを決めたのは刃ではなく“位置”だった。

テオトニクスの剣は、相手を切ったのではない。相手の“間違い”を増やした。


セリスィンは自分の癖を思い出す。

追う。詰める。押す。――相手の土俵に乗る。


(あれをやめろ)


口に出さずに、胸の中だけで言う。

言っただけでは直らない。身体が嫌がっても、直すしかない。


踏む。止まる。戻る。

膝が笑う。足首が痛む。砂が爪の間に噛む。


それでもやめなかった。


遠くで夜番の足音がした。

セリスィンは振り返らず、ただ、足を動かし続けた。


“届かなかった手”の記憶が、消えることはない。

なら、せめて――次に掴むための足を作る。


闇の中で、砂を踏む音だけが、一定のリズムを刻んでいた。

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