熱に呑まれる名
砂の匂いは、血の匂いより遅れて鼻に来る。
鉄格子が開いた瞬間、セリスィンの頬を打ったのは熱気と声だった。
円形闘技場――この街では誰もが、半ば愛称のように「コロッセウム」と呼ぶ石の器。
石段に詰め込まれた人の塊が、獣みたいに唸り、笑い、怒鳴る。
「出ろ!」
係の腕が背中を押す。
セリスィンは一歩、砂へ踏み出した。視界の端で陽が跳ねる。眩しさに瞳が細まり、次に世界が一気に輪郭を持つ。――観衆、砂、相手、刃の先。
相手は盾持ちで、重い。前へ出て圧をかける型だ。
セリスィンはそれを見て、息を一つだけ深く吸った。
(押し合いは、いらない)
一合目、相手の刃を受けずに外す。
二合目、盾の縁を叩いて角度を崩す。
三合目、相手の踏み込みが重くなった瞬間だけ、膝を狙って砂をえぐるように足を払う。
崩れた体勢へ、刃先が喉元に止まる。
「――終いだ」
声は出した覚えがない。喉の奥で勝手に転がった言葉だった。
相手の目が泳ぎ、盾が落ちかける。審判役の合図が入り、勝負が切られた。
歓声が上がる。石段が震える。
その熱の中に立っていても、セリスィンの胸は冷えたままだった。
(勝った。……それで?)
係が肩を掴み、出口へ導く。
通路へ入ると、声は壁に反響して別の生き物みたいにうねり、背中を押してくる。
控えの薄暗がりで、別の組が入れ替わる。
血の付いた砂を落とす音、鎧の革紐を締め直す音、誰かの短い祈り。
そのときだった。
外の喧騒が、もう一段、跳ね上がった。
今までの歓声とは質が違う。勝負の決着に湧く声ではない。
「これから来るもの」を迎える声だ。
「――来たぞ!」「あいつだ!」
「若いのに、連勝だってよ!」
「今日もやるぞ、破竹の――!」
ざわめきが一つの波になって通路へ押し寄せる。
セリスィンは足を止めた。
係が「どうした」と振り向くが、彼は答えない。答える前に、角の向こうから“その熱の芯”が現れた。
先頭にいたのは、まだ若い男だった。
兜は脇に抱え、髪は汗で額に貼りついているのに、目だけが澄んでいる。
怖れていない――いや、怖れを使い慣れている目だ。
その周りには、同じ養成所の者らしい連中がついていた。勝者の列。
係や兵が道を開けると、若い男は軽く手を上げて返す。礼というより、場をなだめる仕草。自然に人を味方につける動きだった。
「おいおい、押すな押すな。まだ始まってもおらんのやろ」
「せやけど、嬉しいわ。こんだけ待ってくれてたんやったら、手ぇ抜かれへんな」
言葉は砕けているのに、品が落ちない。
からかうのではなく、観衆の熱を受けて返している。場を煽りすぎず、冷ましすぎず――巧い。
通路の奥、呼び出し役が声を張った。
「次! 昼の部、第三試合! テオトニクス!」
名が落ちた瞬間、外の石段が吠えた。
セリスィンの背中にも、その吠えが突き刺さる。
(テオトニクス)
聞いたことのない名だ。
だが、名そのものより――この熱の集まり方が、異様だった。
テオトニクスは兜を軽く掲げ、付き添いの男に何か囁いた。
すると付き添いが慌てて水袋を差し出す。テオトニクスは一口だけ飲み、口元を拭って笑う。
「ありがと。……ほな、行こか。勝っても負けても、今日の太陽は一個や。せやけど――」
彼は通路の先、光が漏れる入口を見て、声を少し落とした。
「せっかく見に来た連中には、“見た甲斐”は渡したいわな」
言い終えると、肩の力を抜いたまま歩き出す。
歩幅は小さいのに、通路の空気がそちらへ引っ張られる。
セリスィンは、壁際に身を寄せた。
すれ違いざま、テオトニクスの視線が一瞬だけこちらへ流れたが――止まらない。
彼にとってセリスィンは、まだ“ただの一人”だ。
それが、逆に不気味だった。
光の入口へ吸い込まれていく背中を見送りながら、セリスィンは自分の拳が握られているのに気づいた。
勝った直後の手だ。血も汗も残っている。なのに、熱に押されて冷たい。
外から、試合開始の合図が聞こえた。
続いて、さっきより大きな歓声。刃が交わる金属音。獣のような歓声が、石を震わせる。
セリスィンはその場を動けずに、ただ聞いた。
――速い。
――軽い。
――そして、容赦がない。
壁越しの音だけで、わかる。
あの若い男は、今このコロッセウムで“勢い”そのものになっている。
セリスィンはようやく踵を返し、控え室の闇へ戻った。
背中に、歓声がいつまでも貼りついて離れない。




