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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第4章 穿つ剣戟
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熱に呑まれる名

砂の匂いは、血の匂いより遅れて鼻に来る。

鉄格子が開いた瞬間、セリスィンの頬を打ったのは熱気と声だった。


円形闘技場――この街では誰もが、半ば愛称のように「コロッセウム」と呼ぶ石の器。

石段に詰め込まれた人の塊が、獣みたいに唸り、笑い、怒鳴る。


「出ろ!」


係の腕が背中を押す。

セリスィンは一歩、砂へ踏み出した。視界の端で陽が跳ねる。眩しさに瞳が細まり、次に世界が一気に輪郭を持つ。――観衆、砂、相手、刃の先。


相手は盾持ちで、重い。前へ出て圧をかける型だ。

セリスィンはそれを見て、息を一つだけ深く吸った。


(押し合いは、いらない)


一合目、相手の刃を受けずに外す。

二合目、盾の縁を叩いて角度を崩す。

三合目、相手の踏み込みが重くなった瞬間だけ、膝を狙って砂をえぐるように足を払う。


崩れた体勢へ、刃先が喉元に止まる。


「――終いだ」


声は出した覚えがない。喉の奥で勝手に転がった言葉だった。

相手の目が泳ぎ、盾が落ちかける。審判役の合図が入り、勝負が切られた。


歓声が上がる。石段が震える。

その熱の中に立っていても、セリスィンの胸は冷えたままだった。


(勝った。……それで?)


係が肩を掴み、出口へ導く。

通路へ入ると、声は壁に反響して別の生き物みたいにうねり、背中を押してくる。


控えの薄暗がりで、別の組が入れ替わる。

血の付いた砂を落とす音、鎧の革紐を締め直す音、誰かの短い祈り。


そのときだった。


外の喧騒が、もう一段、跳ね上がった。

今までの歓声とは質が違う。勝負の決着に湧く声ではない。

「これから来るもの」を迎える声だ。


「――来たぞ!」「あいつだ!」

「若いのに、連勝だってよ!」

「今日もやるぞ、破竹の――!」


ざわめきが一つの波になって通路へ押し寄せる。


セリスィンは足を止めた。

係が「どうした」と振り向くが、彼は答えない。答える前に、角の向こうから“その熱の芯”が現れた。


先頭にいたのは、まだ若い男だった。

兜は脇に抱え、髪は汗で額に貼りついているのに、目だけが澄んでいる。

怖れていない――いや、怖れを使い慣れている目だ。


その周りには、同じ養成所の者らしい連中がついていた。勝者の列。

係や兵が道を開けると、若い男は軽く手を上げて返す。礼というより、場をなだめる仕草。自然に人を味方につける動きだった。


「おいおい、押すな押すな。まだ始まってもおらんのやろ」

「せやけど、嬉しいわ。こんだけ待ってくれてたんやったら、手ぇ抜かれへんな」


言葉は砕けているのに、品が落ちない。

からかうのではなく、観衆の熱を受けて返している。場を煽りすぎず、冷ましすぎず――巧い。


通路の奥、呼び出し役が声を張った。


「次! 昼の部、第三試合! テオトニクス!」


名が落ちた瞬間、外の石段が吠えた。

セリスィンの背中にも、その吠えが突き刺さる。


(テオトニクス)


聞いたことのない名だ。

だが、名そのものより――この熱の集まり方が、異様だった。


テオトニクスは兜を軽く掲げ、付き添いの男に何か囁いた。

すると付き添いが慌てて水袋を差し出す。テオトニクスは一口だけ飲み、口元を拭って笑う。


「ありがと。……ほな、行こか。勝っても負けても、今日の太陽は一個や。せやけど――」


彼は通路の先、光が漏れる入口を見て、声を少し落とした。


「せっかく見に来た連中には、“見た甲斐”は渡したいわな」


言い終えると、肩の力を抜いたまま歩き出す。

歩幅は小さいのに、通路の空気がそちらへ引っ張られる。


セリスィンは、壁際に身を寄せた。

すれ違いざま、テオトニクスの視線が一瞬だけこちらへ流れたが――止まらない。

彼にとってセリスィンは、まだ“ただの一人”だ。


それが、逆に不気味だった。


光の入口へ吸い込まれていく背中を見送りながら、セリスィンは自分の拳が握られているのに気づいた。

勝った直後の手だ。血も汗も残っている。なのに、熱に押されて冷たい。


外から、試合開始の合図が聞こえた。

続いて、さっきより大きな歓声。刃が交わる金属音。獣のような歓声が、石を震わせる。


セリスィンはその場を動けずに、ただ聞いた。


――速い。

――軽い。

――そして、容赦がない。


壁越しの音だけで、わかる。

あの若い男は、今このコロッセウムで“勢い”そのものになっている。


セリスィンはようやく踵を返し、控え室の闇へ戻った。

背中に、歓声がいつまでも貼りついて離れない。

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