夜を歩く男
夢の中でも、手は届かなかった。
霧の下へ落ちていく外套の影。指先が空を掴み、次の瞬間には川音だけが残る。何度伸ばしても、何度追っても、最後は同じだ。
セリスィンは息を呑んで目を覚ました。
暗い天井。汗で冷えた背中。喉の奥がひりつく。隣の寝台ではカタルスが、何事もないように寝息を立てていた。
(……またか)
セリスィンは起き上がり、手を握っては開いた。指が震えている。怒りなのか、恐怖なのか、分からない。ただ、胸の奥に残った“掴めなかった感触”だけが、しつこく居座っていた。
剣闘士は勝てば称えられる。
だが勝っても、救えないものは救えない。
あの朝、橋の欄干から落ちたジョルテは、そのまま流された。死んだとも、生きているとも、誰も確かめられなかった。確かめられないまま、噂だけが先に走った。
――女の剣闘士が消えた。
――男に紛れていたのが露見した。
――逃げた罰だ。
勝手な声が積もるたび、セリスィンの中で何かが黒く煮えた。
(罰? 誰が裁く)
剣を握れば勝てると思っていたわけじゃない。
だが、あの瞬間だけは思ったのだ。倒しきれば守れる、と。
結果は逆だった。
守るために戦ったはずなのに、戦いの最中に守れなかった。自分の強さが、世界の理不尽にまるで届いていなかった。
セリスィンは寝台を降り、窓辺に立った。
外は夜の匂いがする。遠くで誰かが笑い、どこかで酒樽が転がる音がする。街は、今日も回っている。
――腹が立つほど、何も変わらない。
セリスィンは外套を掴み、部屋を出た。
*
夜のローマは、昼と別の顔をしていた。
狭い路地に漂う香草と油の匂い。階段状に重なるインスラの影。酔いどれの歌声。水を運ぶ女の足音。衛兵の巡回の気配。
セリスィンは、川の方へ向かった。
橋を見ればまた思い出すと分かっているのに、足が勝手にそちらへ向かう。馬鹿だ、と自分に言い聞かせても、止まらない。
「……調子悪そうだな」
背後から声がした。
振り向くまでもなかった。喉に引っかかるような、あの軽い声。
「久しぶりだな、セリスィン」
ジムージーが、路地の陰から出てきた。灯りを背に、相変わらずの薄い笑み。剣闘士を売り買いする裏商人で、情報屋で、何より――セリスィンをこの世界へ引きずり込んだ男。
「……何しに来た」
セリスィンの声は低かった。
「冷てえな。様子見だよ」
ジムージーは肩をすくめる。
「最近、お前の名前が少し聞こえる。勝ってるらしいじゃねえか。……それと」
一拍。
「女騎士の件もな」
その言葉で、セリスィンの胸がざわついた。
「……誰に聞いた」
「情報屋だっつってんだろ」
ジムージーは平然と言った。
「落ちたって? 流されたって? 安否不明だって? いろいろ聞こえる。お前の顔が死んでる理由としては、十分だ」
セリスィンは歯を噛んだ。
「俺は……」
「助けたかった?」
ジムージーが言葉を継ぐ。
「守りたかった? 救えなかった?」
全部、刺さる。
セリスィンは拳を握った。
「……俺が弱かった」
「違うな」
ジムージーの返答は即答だった。
セリスィンが顔を上げる。
「弱いのは、お前だけじゃない。世界が弱い。だから折れる。だから落ちる。……それでもお前は、折れなかった」
ジムージーは歩き出し、セリスィンの横を通り過ぎた。
「来い。歩きながら話す」
「命令すんな」
「命令じゃねえよ。夜風に当たれって言ってんだ」
セリスィンは舌打ちし、結局ついていった。
*
二人は川沿いを歩いた。
月が水面に細く揺れ、橋の影が黒く落ちる。セリスィンは無意識に足を止めかけ、ジムージーの背中がそれを許さないみたいに先へ進む。
「お前さ」
ジムージーが言った。
「“守る”ってのはな、強さだけじゃ足りねえ。運と、金と、繋がりと、タイミング――全部いる」
「……言い訳にしか聞こえない」
セリスィンが吐き捨てる。
「言い訳でいい」
ジムージーは振り向かずに言った。
「言い訳でも現実だ。お前が嫌う現実の塊だよ。だから勝て。勝って、手に入れろ。嫌でも」
セリスィンは黙った。
ジムージーが続ける。
「お前が今感じてる痛みは、伸びる痛みだ。……それを無駄にするな」
しばらく沈黙が落ちる。
セリスィンは自分の足音だけを聞きながら、ようやく言った。
「……俺は、誰よりも強くなる」
ジムージーが小さく笑う気配がした。
「剣士じゃなくて?」
「騎士だ」
セリスィンは言い切った。言葉が口を出てから、自分でも少し可笑しかった。ローマに“騎士”なんて言い方は似合わない。だが自分の中では、その言葉がいちばん近かった。
守れなかった自分の、反対側にあるもの。
「俺は、誰よりも強い騎士になる」
ジムージーは立ち止まり、今度は正面からセリスィンを見た。
「……いい目だ」
そして、いつもの調子で肩をすくめる。
「楽しみにしてる。お前がどこまで行くか」
「お前は……何がしたい」
セリスィンが問う。
ジムージーは笑った。
「面白いことがしたい。昔から言ってるだろ」
そのまま踵を返す。
「一つ忠告しとく。これからお前の前に出てくる壁はな、“お前にふさわしい形”で出てくる」
セリスィンの脳裏に、ジョルテの落ちる影がよぎった。
そして同時に、あの短刃の男の冷えた目がよぎる。
壁はまだ終わっていない。
「じゃあな。セリスィン」
ジムージーは夜の路地に溶けて消えた。
セリスィンはその場に立ち尽くし、月明かりの川面を見た。
痛みは消えない。
だが、決めた。
この痛みを、ただの傷にしない。
次に伸ばす手は――掴むための手にする。




