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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第4章 穿つ剣戟
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夜を歩く男

夢の中でも、手は届かなかった。


霧の下へ落ちていく外套の影。指先が空を掴み、次の瞬間には川音だけが残る。何度伸ばしても、何度追っても、最後は同じだ。


セリスィンは息を呑んで目を覚ました。


暗い天井。汗で冷えた背中。喉の奥がひりつく。隣の寝台ではカタルスが、何事もないように寝息を立てていた。


(……またか)


セリスィンは起き上がり、手を握っては開いた。指が震えている。怒りなのか、恐怖なのか、分からない。ただ、胸の奥に残った“掴めなかった感触”だけが、しつこく居座っていた。


剣闘士は勝てば称えられる。


だが勝っても、救えないものは救えない。


あの朝、橋の欄干から落ちたジョルテは、そのまま流された。死んだとも、生きているとも、誰も確かめられなかった。確かめられないまま、噂だけが先に走った。


――女の剣闘士が消えた。


――男に紛れていたのが露見した。


――逃げた罰だ。


勝手な声が積もるたび、セリスィンの中で何かが黒く煮えた。


(罰? 誰が裁く)


剣を握れば勝てると思っていたわけじゃない。


だが、あの瞬間だけは思ったのだ。倒しきれば守れる、と。


結果は逆だった。


守るために戦ったはずなのに、戦いの最中に守れなかった。自分の強さが、世界の理不尽にまるで届いていなかった。


セリスィンは寝台を降り、窓辺に立った。


外は夜の匂いがする。遠くで誰かが笑い、どこかで酒樽が転がる音がする。街は、今日も回っている。


――腹が立つほど、何も変わらない。


セリスィンは外套を掴み、部屋を出た。


*


夜のローマは、昼と別の顔をしていた。


狭い路地に漂う香草と油の匂い。階段状に重なるインスラの影。酔いどれの歌声。水を運ぶ女の足音。衛兵の巡回の気配。


セリスィンは、川の方へ向かった。


橋を見ればまた思い出すと分かっているのに、足が勝手にそちらへ向かう。馬鹿だ、と自分に言い聞かせても、止まらない。


「……調子悪そうだな」


背後から声がした。


振り向くまでもなかった。喉に引っかかるような、あの軽い声。


「久しぶりだな、セリスィン」


ジムージーが、路地の陰から出てきた。灯りを背に、相変わらずの薄い笑み。剣闘士を売り買いする裏商人バイヤーで、情報屋で、何より――セリスィンをこの世界へ引きずり込んだ男。


「……何しに来た」


セリスィンの声は低かった。


「冷てえな。様子見だよ」


ジムージーは肩をすくめる。


「最近、お前の名前が少し聞こえる。勝ってるらしいじゃねえか。……それと」


一拍。


「女騎士の件もな」


その言葉で、セリスィンの胸がざわついた。


「……誰に聞いた」


「情報屋だっつってんだろ」


ジムージーは平然と言った。


「落ちたって? 流されたって? 安否不明だって? いろいろ聞こえる。お前の顔が死んでる理由としては、十分だ」


セリスィンは歯を噛んだ。


「俺は……」


「助けたかった?」


ジムージーが言葉を継ぐ。


「守りたかった? 救えなかった?」


全部、刺さる。


セリスィンは拳を握った。


「……俺が弱かった」


「違うな」


ジムージーの返答は即答だった。


セリスィンが顔を上げる。


「弱いのは、お前だけじゃない。世界が弱い。だから折れる。だから落ちる。……それでもお前は、折れなかった」


ジムージーは歩き出し、セリスィンの横を通り過ぎた。


「来い。歩きながら話す」


「命令すんな」


「命令じゃねえよ。夜風に当たれって言ってんだ」


セリスィンは舌打ちし、結局ついていった。


*


二人は川沿いを歩いた。


月が水面に細く揺れ、橋の影が黒く落ちる。セリスィンは無意識に足を止めかけ、ジムージーの背中がそれを許さないみたいに先へ進む。


「お前さ」


ジムージーが言った。


「“守る”ってのはな、強さだけじゃ足りねえ。運と、金と、繋がりと、タイミング――全部いる」


「……言い訳にしか聞こえない」


セリスィンが吐き捨てる。


「言い訳でいい」


ジムージーは振り向かずに言った。


「言い訳でも現実だ。お前が嫌う現実の塊だよ。だから勝て。勝って、手に入れろ。嫌でも」


セリスィンは黙った。


ジムージーが続ける。


「お前が今感じてる痛みは、伸びる痛みだ。……それを無駄にするな」


しばらく沈黙が落ちる。


セリスィンは自分の足音だけを聞きながら、ようやく言った。


「……俺は、誰よりも強くなる」


ジムージーが小さく笑う気配がした。


「剣士じゃなくて?」


「騎士だ」


セリスィンは言い切った。言葉が口を出てから、自分でも少し可笑しかった。ローマに“騎士”なんて言い方は似合わない。だが自分の中では、その言葉がいちばん近かった。


守れなかった自分の、反対側にあるもの。


「俺は、誰よりも強い騎士になる」


ジムージーは立ち止まり、今度は正面からセリスィンを見た。


「……いい目だ」


そして、いつもの調子で肩をすくめる。


「楽しみにしてる。お前がどこまで行くか」


「お前は……何がしたい」


セリスィンが問う。


ジムージーは笑った。


「面白いことがしたい。昔から言ってるだろ」


そのまま踵を返す。


「一つ忠告しとく。これからお前の前に出てくる壁はな、“お前にふさわしい形”で出てくる」


セリスィンの脳裏に、ジョルテの落ちる影がよぎった。


そして同時に、あの短刃の男の冷えた目がよぎる。


壁はまだ終わっていない。


「じゃあな。セリスィン」


ジムージーは夜の路地に溶けて消えた。


セリスィンはその場に立ち尽くし、月明かりの川面を見た。


痛みは消えない。


だが、決めた。


この痛みを、ただの傷にしない。


次に伸ばす手は――掴むための手にする。

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