落ちる者
街外れの石橋は、朝霧の中で黒く立っていた。
幅は狭い。欄干は低い。下を流れる川は浅く見えるが、石が多く、流れが速い。落ちれば骨が折れる。運が悪ければ――そのまま持っていかれる。
セリスィンとジョルテが橋へ飛び込むと、すでに“待ち”の気配があった。
橋のたもと、欄干の陰、上流側の小道。人影は少なくない。橋を渡る農夫や行商人が不安げに足を止め、遠巻きにする。誰も助けない。巻き込まれたくない。
「――止まれ」
低い声が落ちる。
橋の向こう側、霧の切れ目から、あの“戦える男”が出てきた。短い刃を腰に下げ、肩の力が抜けているのに、間合いだけは支配している。
そして反対側から、棒の男たちがじわりとにじり寄る。縄も見える。捕らえるための道具だ。
セリスィンは息を吐き、ジョルテを背に庇った。
「……挟む気だ」
ジョルテが絞り出す。
「そうだ」
セリスィンは短く答えた。
橋の上は一本道。左右は落下。逃げ道はない。だからこそ狩り場に選ばれた。
セリスィンは足を半歩前に出し、声を張った。
「こいつは俺が連れていく。邪魔するな」
棒の男が笑った。
「小僧。お前には用はねえ」
「あるんだよ」
セリスィンは言った。
「俺が邪魔なんだろ?」
その一言で、相手の顔がわずかに歪む。図星だ。
短刃の男が言う。
「なら、折る」
言葉の終わりと同時に、動きが来た。
棒が二本、左右から振り下ろされる。セリスィンは下がらない。半歩だけ前へ出て、片方の棒を肘で弾き、もう片方を掌で押し流す。棒の先が空を切る。
その空振りの瞬間、セリスィンの膝が男の腹へ入った。
「ぐっ……!」
男が折れる。
セリスィンは倒れ込む男の肩を掴み、橋の中央へ投げた。通路を塞ぐためだ。追手の列が一瞬詰まる。
その隙に、セリスィンはもう一人へ踏み込む。手首を叩き、棒を落とさせ、柄を拾うより先に脛を払う。
短刃の男が動く。
一直線。無駄のない突き。
セリスィンは橋の欄干を背に、上体だけで外し、短刃の手首へ掌を当てて刃を逸らした。刃先が石を削り、火花が散る。
セリスィンは即座に肩をぶつけ、短刃の男を一歩だけ押し戻した。
――押し戻すだけ。
落とせば終わりだ。殺す気はない。だが、勝たなければ終わる。
「ジョルテ、動くな!」
セリスィンが叫ぶ。
ジョルテは外套の下で小刀を握ったまま、息を殺して頷いた。焦って飛び出せば、縄に絡め取られる。
セリスィンは棒を掴み、追手の肩、肘、膝――致命を避けて“戦えなくする”打ち方で倒していく。剣闘場で培った打撃じゃない。路上で身につけた、終わらせるための打撃だ。
橋の上の追手が次々と崩れる。
農夫が叫ぶ。
「なんだあれ……」 「剣闘士か……!」
行商人が荷車を引いて下がる。人の波が遠巻きの円を作る。
短刃の男だけが、まだ崩れない。
むしろ冷静になっていく。
セリスィンの棒を見て、距離を測り、ジョルテの位置を確認する。その目が、狩人の目だ。
「女を渡せ」
短刃の男が言った。
「渡さない」
「なら、女の足を折る」
短刃が弧を描く。セリスィンは踏み込んで止める――が、その瞬間、別の方向から縄が飛んだ。
ジョルテへ。
「っ!」
ジョルテが反射で身を引いた。縄が外套の裾を掠め、石に当たって跳ねる。
セリスィンは舌打ちし、縄を投げた男の方へ棒を投げつけた。男が呻いて倒れる。
――だが、その一瞬が足りなかった。
短刃の男が、橋の中央を避けて横へ回り込む。狙いはジョルテの背。
「ジョルテ、下がれ!」
セリスィンが叫ぶ。
ジョルテが一歩下がる。踵が痛む。踏ん張れない。外套の裾が絡む。
それでも、下がる。
そして――
霧の向こう、橋のたもとの人影が一瞬だけ割れた。
小さな影。
ぼろ布に包まれた、細い肩。
少年だった。
誰かに引かれるように、橋の端へ現れた。顔は汚れ、頬がこけ、目だけが大きい。
ジョルテが、息を呑んだ。
「……っ」
セリスィンには聞こえないほど小さな声で、ジョルテの唇が動く。
目が――その少年に吸い寄せられる。
次の瞬間、ジョルテの足が止まった。
ほんの一拍。
ひるみ。
それが致命になった。
「――貰った」
短刃の男が低く言い、刃が走る。
ジョルテの脇腹――外套の隙間に、鋭い痛みが入った。血が滲む。
「っ……!」
ジョルテの身体が反射で捻れた。
踏ん張ろうとして、踵が滑る。
欄干の縁へ、背が当たる。
セリスィンが飛び込む。
「ジョルテ!」
手が届く――はずだった。
だがジョルテの身体は、傷の痛みと足元の滑りで、思った以上に軽く弾かれた。欄干の外へ、半身が出る。
ジョルテの目が、セリスィンを見る。
怒りでもない。
恐怖でもない。
ただ、信じられない、という目だった。
そして――落ちた。
「……っ!!」
セリスィンの指が空を掴む。掴めない。布の端すら掴めない。ジョルテの外套が風を孕み、霧の中へ沈んでいく。
橋の下で、水音。
鈍い衝撃の音がひとつ。
その後に、流れの音だけが残った。
セリスィンは一瞬、呼吸を忘れた。
橋の上の追手の声が遠い。農夫の叫びも、行商の悲鳴も、全部が薄い。
耳の中には川音だけが鳴っていた。
「……おい」
セリスィンの喉から、かすれた声が漏れる。
「おい、ジョルテ……!」
返事はない。
短刃の男が、舌打ちした。
「……落ちたか。厄介だな」
その言葉で、セリスィンの中の何かが切れた。
振り向く。
短刃の男がわずかに身構える。だが遅い。
セリスィンは棒を拾い、踏み込み、肩を入れて叩き込んだ。
腕、肘、膝。
倒すための打撃。
短刃の男の刃が落ち、石に転がる。
「ぐっ……!」
男が膝をつく。
周囲の追手が、ようやく距離を取る。セリスィンの目が、もう“剣闘士の目”ではないからだ。
「……終わりだ」
セリスィンは低く言った。
追手たちが互いに顔を見合わせ、引く。誰かが笛を鳴らす。撤収の合図だ。
彼らは去っていく。
ジョルテを“回収”できなかったのに。
それが、何より気味が悪い。
だがセリスィンは追わない。
追えない。
橋の欄干に手をつき、下を覗く。
霧。水。流れ。
外套の端も、髪も、見えない。
「……くそ」
声が震える。
セリスィンは橋を駆け下り、川沿いへ走った。足場は悪い。石が滑る。水が跳ねる。呼吸が乱れる。
――いない。
どこにもいない。
流された。沈んだ。引っかかった。分からない。
セリスィンは膝をつき、川面を睨んだ。
胸の奥が、冷たい。
勝ったのに。
倒したのに。
守れなかった。
その事実だけが、重く残る。
その夜からしばらく、セリスィンは夢を見た。
燃える母の手。
届かない距離。
そして今度は、霧の下へ落ちていく外套の影が混じる。
何度手を伸ばしても、掴めない。
救えない。
――それが、セリスィンの傷になった。




