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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第3章 女騎士”ジョルテ”
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落ちる者

街外れの石橋は、朝霧の中で黒く立っていた。


幅は狭い。欄干は低い。下を流れる川は浅く見えるが、石が多く、流れが速い。落ちれば骨が折れる。運が悪ければ――そのまま持っていかれる。


セリスィンとジョルテが橋へ飛び込むと、すでに“待ち”の気配があった。


橋のたもと、欄干の陰、上流側の小道。人影は少なくない。橋を渡る農夫や行商人が不安げに足を止め、遠巻きにする。誰も助けない。巻き込まれたくない。


「――止まれ」


低い声が落ちる。


橋の向こう側、霧の切れ目から、あの“戦える男”が出てきた。短い刃を腰に下げ、肩の力が抜けているのに、間合いだけは支配している。


そして反対側から、棒の男たちがじわりとにじり寄る。縄も見える。捕らえるための道具だ。


セリスィンは息を吐き、ジョルテを背に庇った。


「……挟む気だ」


ジョルテが絞り出す。


「そうだ」


セリスィンは短く答えた。


橋の上は一本道。左右は落下。逃げ道はない。だからこそ狩り場に選ばれた。


セリスィンは足を半歩前に出し、声を張った。


「こいつは俺が連れていく。邪魔するな」


棒の男が笑った。


「小僧。お前には用はねえ」


「あるんだよ」


セリスィンは言った。


「俺が邪魔なんだろ?」


その一言で、相手の顔がわずかに歪む。図星だ。


短刃の男が言う。


「なら、折る」


言葉の終わりと同時に、動きが来た。


棒が二本、左右から振り下ろされる。セリスィンは下がらない。半歩だけ前へ出て、片方の棒を肘で弾き、もう片方を掌で押し流す。棒の先が空を切る。


その空振りの瞬間、セリスィンの膝が男の腹へ入った。


「ぐっ……!」


男が折れる。


セリスィンは倒れ込む男の肩を掴み、橋の中央へ投げた。通路を塞ぐためだ。追手の列が一瞬詰まる。


その隙に、セリスィンはもう一人へ踏み込む。手首を叩き、棒を落とさせ、柄を拾うより先に脛を払う。


短刃の男が動く。


一直線。無駄のない突き。


セリスィンは橋の欄干を背に、上体だけで外し、短刃の手首へ掌を当てて刃を逸らした。刃先が石を削り、火花が散る。


セリスィンは即座に肩をぶつけ、短刃の男を一歩だけ押し戻した。


――押し戻すだけ。


落とせば終わりだ。殺す気はない。だが、勝たなければ終わる。


「ジョルテ、動くな!」


セリスィンが叫ぶ。


ジョルテは外套の下で小刀を握ったまま、息を殺して頷いた。焦って飛び出せば、縄に絡め取られる。


セリスィンは棒を掴み、追手の肩、肘、膝――致命を避けて“戦えなくする”打ち方で倒していく。剣闘場で培った打撃じゃない。路上で身につけた、終わらせるための打撃だ。


橋の上の追手が次々と崩れる。


農夫が叫ぶ。


「なんだあれ……」 「剣闘士か……!」


行商人が荷車を引いて下がる。人の波が遠巻きの円を作る。


短刃の男だけが、まだ崩れない。


むしろ冷静になっていく。


セリスィンの棒を見て、距離を測り、ジョルテの位置を確認する。その目が、狩人の目だ。


「女を渡せ」


短刃の男が言った。


「渡さない」


「なら、女の足を折る」


短刃が弧を描く。セリスィンは踏み込んで止める――が、その瞬間、別の方向から縄が飛んだ。


ジョルテへ。


「っ!」


ジョルテが反射で身を引いた。縄が外套の裾を掠め、石に当たって跳ねる。


セリスィンは舌打ちし、縄を投げた男の方へ棒を投げつけた。男が呻いて倒れる。


――だが、その一瞬が足りなかった。


短刃の男が、橋の中央を避けて横へ回り込む。狙いはジョルテの背。


「ジョルテ、下がれ!」


セリスィンが叫ぶ。


ジョルテが一歩下がる。踵が痛む。踏ん張れない。外套の裾が絡む。


それでも、下がる。


そして――


霧の向こう、橋のたもとの人影が一瞬だけ割れた。


小さな影。


ぼろ布に包まれた、細い肩。


少年だった。


誰かに引かれるように、橋の端へ現れた。顔は汚れ、頬がこけ、目だけが大きい。


ジョルテが、息を呑んだ。


「……っ」


セリスィンには聞こえないほど小さな声で、ジョルテの唇が動く。


目が――その少年に吸い寄せられる。


次の瞬間、ジョルテの足が止まった。


ほんの一拍。


ひるみ。


それが致命になった。


「――貰った」


短刃の男が低く言い、刃が走る。


ジョルテの脇腹――外套の隙間に、鋭い痛みが入った。血が滲む。


「っ……!」


ジョルテの身体が反射で捻れた。


踏ん張ろうとして、踵が滑る。


欄干の縁へ、背が当たる。


セリスィンが飛び込む。


「ジョルテ!」


手が届く――はずだった。


だがジョルテの身体は、傷の痛みと足元の滑りで、思った以上に軽く弾かれた。欄干の外へ、半身が出る。


ジョルテの目が、セリスィンを見る。


怒りでもない。


恐怖でもない。


ただ、信じられない、という目だった。


そして――落ちた。


「……っ!!」


セリスィンの指が空を掴む。掴めない。布の端すら掴めない。ジョルテの外套が風を孕み、霧の中へ沈んでいく。


橋の下で、水音。


鈍い衝撃の音がひとつ。


その後に、流れの音だけが残った。


セリスィンは一瞬、呼吸を忘れた。


橋の上の追手の声が遠い。農夫の叫びも、行商の悲鳴も、全部が薄い。


耳の中には川音だけが鳴っていた。


「……おい」


セリスィンの喉から、かすれた声が漏れる。


「おい、ジョルテ……!」


返事はない。


短刃の男が、舌打ちした。


「……落ちたか。厄介だな」


その言葉で、セリスィンの中の何かが切れた。


振り向く。


短刃の男がわずかに身構える。だが遅い。


セリスィンは棒を拾い、踏み込み、肩を入れて叩き込んだ。


腕、肘、膝。


倒すための打撃。


短刃の男の刃が落ち、石に転がる。


「ぐっ……!」


男が膝をつく。


周囲の追手が、ようやく距離を取る。セリスィンの目が、もう“剣闘士の目”ではないからだ。


「……終わりだ」


セリスィンは低く言った。


追手たちが互いに顔を見合わせ、引く。誰かが笛を鳴らす。撤収の合図だ。


彼らは去っていく。


ジョルテを“回収”できなかったのに。


それが、何より気味が悪い。


だがセリスィンは追わない。


追えない。


橋の欄干に手をつき、下を覗く。


霧。水。流れ。


外套の端も、髪も、見えない。


「……くそ」


声が震える。


セリスィンは橋を駆け下り、川沿いへ走った。足場は悪い。石が滑る。水が跳ねる。呼吸が乱れる。


――いない。


どこにもいない。


流された。沈んだ。引っかかった。分からない。


セリスィンは膝をつき、川面を睨んだ。


胸の奥が、冷たい。


勝ったのに。


倒したのに。


守れなかった。


その事実だけが、重く残る。


その夜からしばらく、セリスィンは夢を見た。


燃える母の手。


届かない距離。


そして今度は、霧の下へ落ちていく外套の影が混じる。


何度手を伸ばしても、掴めない。


救えない。


――それが、セリスィンの傷になった。

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