納屋の口
入口の影が動いた。
湿った土の匂いに、外の冷たい空気が混じる。納屋の戸口は半分崩れていて、踏み込もうと思えば誰でも踏み込める――だからこそ、ここは“逃げ場”ではない。
セリスィンはジョルテを背に庇い、床の石を指先で探った。投げるための石だ。
外套の下で、ジョルテの小刀が小さく光った。
「……空だな」
男の声。落ち着いている。焦りがない。探す声じゃない。見つける声だ。
「空でも見る。女は小さい。隠れる」
別の声が重なる。
次の瞬間――戸口に棒の先が突き込まれ、藁を乱暴に掻き回した。砂埃が舞う。セリスィンは咳き込みそうになるのを堪えた。
棒が奥へ進む。
ジョルテの膝がわずかに動いた。反射で斬りかかろうとする動き。
セリスィンは肘で押さえ、息だけで伝える。
(待て)
(今はだめだ)
棒が、セリスィンの膝に触れかけた――その瞬間。
セリスィンは石を投げた。
狙いは顔ではない。棒を握る手首の内側。
「っ!」
男が反射で手を引く。棒が跳ね、戸口の外へ落ちた。落ちた棒を拾うために、男の体勢が崩れる。
その一瞬で、セリスィンは飛び出した。
低く、短く、体当たり。
男の腰に肩が刺さり、男が呻いてよろめく。セリスィンはそのまま男の足元を刈り、土へ落とす。
「いたぞ!」
叫び声。すぐ外にもう一人いる。
ジョルテが続いた。外套の影から抜け、小刀で“牽制”だけを入れる。浅く、確実に。腕を切って下がらせ、距離を作る。
「走れ!」
セリスィンが叫ぶ。
だが、外は“逃げるための外”ではなかった。
畑の端――霧の薄い場所に、影がさらに二つある。横からも回り込まれていた。
「……囲んでる」
ジョルテが低く呟く。
セリスィンは舌の裏が乾くのを感じた。来るのが早い。分断する暇がない。ここは最初から“踏ませる”場所だった。
倒した男が起き上がろうとする。
セリスィンは男の腰へ手を伸ばした。革紐。金具。
――あの印。
見た瞬間、確信が固まる。追手は偶然じゃない。筋がある。仲介の男の筋だ。
「……それ、返せ」
ジョルテの声が硬くなった。
「知ってるのか」
セリスィンが問う前に、男が笑った。
倒れたまま、口元だけで笑う。
「……見つけたか。印を」
セリスィンの背中が冷えた。
(こいつ、わざと見せたな)
男は続ける。
「女の剣闘士は高く売れる。隠して戦うなら、なおさらだ」
ジョルテの呼吸が乱れる。
「黙れ……!」
セリスィンはジョルテの前へ半歩出て、男を見下ろした。
「弟の金はどこに消えた」
男が、初めて目を見開いた。
「……弟?」
そして、くつくつ笑う。
「ああ、あの病気のガキか。手紙を回したのは――」
言い終える前に、セリスィンは男の胸倉を掴んで引き起こした。
「言え」
男の口元が歪む。
「橋だ」
短く吐いた。
「橋に来いって言ったのは、俺じゃない。だが“回収”は橋だ。お前らは――どうせ橋へ向かう」
その言い方が、確信だった。
セリスィンが口を開く前に、背後で足音が増えた。
軽い足取り。無駄がない。橋の端にいた“戦える男”の気配が、ここまで来ている。
セリスィンは瞬時に決める。
(この男からは、もう引き出せない)
目的は「時間稼ぎ」と「誘導」だ。情報は餌程度しか持っていない。
セリスィンは男を突き放し、ジョルテの腕を掴んだ。
「行くぞ。橋へ」
「……弟のことを!」
「生きて着いてからだ!」
ジョルテが歯を噛む。悔しさで目が濡れている。だが足は動いた。
畑の脇道へ飛び込み、石垣の切れ目を抜ける。追手が叫ぶ。
「逃がすな! 橋だ!」 「上だ、回り込め!」
――やはり。
橋へ追い込む狩りだ。
セリスィンは走りながら、ジョルテの踵を見た。もう限界に近い。それでも彼女は止まらない。弟の名を餌にされた怒りが、身体を動かしている。
遠くに、石のアーチが見えた。
街外れの橋。
朝霧の中で黒く立ち、逃げ道であるはずなのに、まるで処刑台みたいに見えた。
セリスィンは喉の奥で息を呑んだ。
(……ここで、決まる)
ジョルテも橋を見た。
その目が、剣闘士の目ではなかった。
守る者の目だった。




