街外れへ
馬屋の裏から抜けると、空気が変わった。
家の密度が薄くなり、土の匂いが濃くなる。畑が広がり、ところどころに低い石垣と果樹が並ぶ。朝の仕事に出る人間はいるが、市場ほどの“群れ”はない。
――紛れにくい。だが、追う側も派手に動きにくい。
セリスィンは息を整えながら、ジョルテを引っ張った。
「こっちだ。畑の縁を切る」
「……足が」
ジョルテの声が硬い。踵の痛みが、限界を越えかけている。
「分かってる」
セリスィンは一瞬だけ振り返った。
遠くで人が走る影。追手だ。声は届かないが、動きが揃っている。馬屋で見失っても、ここまで追ってくる執念がある。
(“逃げた剣闘士”を追うだけじゃないな)
セリスィンは確信する。こいつらは、ジョルテに“用”がある。捕まえるために追っている。
だからこそ、やり方が慣れている。
セリスィンは道を変えた。
真っ直ぐ橋へ向かえば追手も同じルートで詰めてくる。なら、わざと逆へ振って、最後に横へ抜ける。
「……遠回りか」
ジョルテが言う。
「追われる時は、近道が一番危ない」
セリスィンは答え、石垣の陰へ滑り込む。果樹園の裏、用水路が走る狭い道だ。足跡が残りにくい。水音が音を誤魔化す。
しばらく走ったところで、ジョルテの足がついに止まった。
「……待て。これ以上は……」
膝に手をつき、肩で息をする。外套の下でも分かるほど、身体が小刻みに震えていた。
セリスィンは舌打ちしそうになり、それを飲み込んだ。
「一分だけ」
「一分で何が変わる」
「変える」
セリスィンはジョルテを石垣の陰へ座らせ、周囲を見回した。畑の端に、古い物置小屋――いや、半分崩れた納屋がある。中は暗い。人の気配はない。
「移るぞ」
セリスィンはジョルテの腕を肩に回し、半ば抱えるように納屋へ運んだ。
中は藁と木箱の残骸。湿った土の匂いがする。入口からは外が見えるが、影になっていて目立ちにくい。
セリスィンはジョルテの踵の布をほどき、傷を見た。
血が滲んでいる。裂けている。無理をすれば歩けなくなる。
「……貴様、医者か」
ジョルテが苦い声で言う。
「路上の知恵だ」
セリスィンは自分の衣の端を裂き、もう一度巻き直した。きつく締めすぎない。血が止まらなくなる。
「立てるか」
「……立てる」
「立てても、走れないな」
「……」
ジョルテが黙る。悔しさが、沈黙になっている。
セリスィンは入口の隙間から外を覗いた。
追手の影が、畑の向こうを横切っていくのが見える。数は三、四。こちらの位置はまだ割れていない。だが近い。
「聞く」
セリスィンが言った。
「弟の“居場所を知ってる”って言った相手。会う約束は、いつだ」
ジョルテが、少し迷ってから答える。
「……今日。朝。橋で」
「もう過ぎてる」
「分かっている」
ジョルテの声が、かすかに震えた。
「でも、あそこに行けば何か掴めるかもしれない。弟の名を言える人間が、そう何人もいるわけがない」
セリスィンは頷いた。理屈ではその通りだ。だがそれが罠であることも、同時に分かっている。
「だから、もう“会いに行く”じゃない」
セリスィンは言った。
「“見に行く”。近づかずに、見て、掴んで、逃げる」
「そんな器用に――」
「器用にやるしかない」
セリスィンは言い切る。
ジョルテは外套の襟を握りしめ、低く言った。
「……私は、また逃げるのか」
「逃げるんじゃない」
セリスィンは言った。
「取り返すために、死なないだけだ」
ジョルテの瞳が、わずかに揺れる。理解したのか、受け入れたくないのか、判別できない揺れだった。
そのとき、外で声がした。
「この辺りを洗え!」 「畑だ、草の陰も見ろ!」
近い。すぐ外だ。
ジョルテの背筋が固まる。
セリスィンは入口の木箱を静かにずらし、影を濃くした。藁を一握り、床に撒く。匂いを散らすためだ。
足音が納屋の前で止まる。
息を止める。
影が入口に落ちた。
「……ここ、空だな」
「空でも見る。女は小さい。隠れる」
男の声が、やけに落ち着いている。
次の瞬間、納屋の入口を誰かが蹴った。
木が軋み、土埃が舞う。
セリスィンは即座にジョルテを背に庇い、身構えた。
――来る。
ここで初めて、逃げではなく“受け”の戦いになる。
セリスィンの指が、床の石に触れた。投げるための石だ。
ジョルテの小刀が、外套の下で静かに光った。
そして、入口の影が動いた。




