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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第1章 無名の孤児
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男との対話

翌日、セリスィンは街へ出た。


馬車、牛車、市の喧騒。露店からは香草と脂の匂いが流れてくる。運よく拾った小銭で、セリスィンは屋台の根菜と茸の汁をすすっていた。こういう“誰かが作った温いもの”を口にできる日が、彼にとっての生きがいだった。


そして――目当ての連中は、思ったより早く見つかった。


昨日、少年を囲んでいた青年の一派だ。


こちらに返り討ちに遭ったのが嘘みたいに、彼らは陽気に笑いながら歩いている。街の人間は彼らを避けるでもなく、ただ擦れ違っていく。慣れているのだ。こういう連中がいる日常に。


セリスィンは汁を飲み干すと、進路へ回り込み、立ちはだかった。


青年たちはセリスィンの顔を見た瞬間、会話を止めた。笑いが消え、空気が硬くなる。


「……なんだよ」


リーダー格の男――ブオルティクが、平静を装って言った。だが、目が泳いでいる。


通行人は余所目に通り過ぎていく。誰も首を突っ込まない。街の掟だ。


セリスィンはポケットから、金具のついた小さな装飾品を取り出し、彼らの前に掲げた。


青年たちの顔色が変わる。


「なんだよ、返しに来たのか?」


「これは昨日、少年の家の前で拾った」


セリスィンは淡々と言った。


その一言で、動揺が“確信”に変わったのが分かった。彼らは否定より先に、身じろぎしてしまった。


「……だ、だからなんだってんだ」


「いや。これが、なんであの家の前に落ちてたのか気になってな」


セリスィンが一歩踏み込む。


青年たちは反射的に後ずさった。


「知らねえよ。少年が拾って持ってったんじゃねえのか?」


苦しい言い訳。セリスィンの求める答えではない。


「あいつの母親は、まだ目を覚まさない」


静かな声だった。それだけで十分だった。


青年たちが一斉に背を向け、散るように逃げる。


――逃げ方が、答えだ。


「待て」


セリスィンが追う。肩を掴み、足を絡め、地面にねじ伏せる。一人、また一人。抵抗は弱い。昨日の傷が残っているのか、息が荒い。


最後にブオルティクへ手を伸ばしかけた、その瞬間だった。


横から、鋭い衝撃が飛び込んできた。


視界が跳ね、身体が宙を舞う。露店の台に背を打ちつけ、干し果実や器が派手に散った。悲鳴が上がり、一般人が蜘蛛の子を散らすように逃げる。


セリスィンは身を起こそうとする。だが次の瞬間、また打撃が迫った。


――避けきれない。


頬に鈍い痛み。地面へ転がされ、鼻血がぽたぽた落ちた。


立っていたのは、木の棒――杖のようなものを持つ男。青年たちとは別の人物だ。男は棒を肩に乗せ、指先で「来い」と挑発する。


セリスィンは歯を食いしばり、立ち上がって殴りかかった。


だが、当たらない。


男は涼しい顔で、半身になって受け流し、棒で間合いを支配する。セリスィンの拳が空を切るたび、腹や肩に軽い打ち込みが入る。軽い――のに、確実に利く。


気づけばまた、顔面に一撃。視界が白く飛び、セリスィンは地面へ叩きつけられた。


くらくらする。耳鳴りがする。


「動きは悪くない」


男が棒を器用に回しながら言った。


「だが我流だ。無駄が多い」


男は再び「来い」と手招きする。


セリスィンは熱くなりかけた頭を、無理やり冷やした。猪突猛進をやめ、足を止め、間合いを測る。


「……へえ」


男が感嘆の声を漏らした。


「そんな戦い方もできるのか」


男は楽しそうに笑い、棒を回しながらにじり寄る。セリスィンは下がる。下がる。背後が壁――逃げ場がない。


棒の連打が始まる。セリスィンは致命的な一撃だけは外し、受け、払い、耐える。だが、一方的に削られていく。


「さあ、どうした。潜ってみろ」


男が不敵に笑う。


このままでは埒が明かない。セリスィンは一度、防御をやめた。仁王立ちする。


「おっ?」


男も攻撃を止め、警戒する。


セリスィンは目を閉じ、呼吸を整えた。次に目を開いたとき、迷いが消えていた。


突っ込む。


「ほう」


男が棒を振るう。セリスィンはそれを潜り、身体ごとぶつけた。タックルが決まり、男の体勢が崩れる。


――今だ。


殴ろうとした瞬間。


横腹に、硬い何かが叩き込まれた。


「……がっ」


声にならない声。息が抜ける。みぞおちも追加で打たれ、視界が暗くなる。


男は笑顔で、小さな棒――袖に隠していた短い棍棒を見せた。


「まさか、小棒を隠してるとは思わなかっただろ」


男は立ち上がり、セリスィンへ棒先を向ける。


「これが戦だ。なんでもあり。試合とは違う」


言葉の半分も頭に入らない。


セリスィンは男を睨みつけたまま――意識が落ちた。


*


深い眠りの底。


目を開けると、そこは昔の家だった。


台所へ行く。湯気。匂い。鍋の音。そこに母がいた。


「あら、どうしたの。今日は早いのね」


――母さん。


呼ぼうとして、声が出ないことに気づく。


「まあ、そんな辛気臭い顔して」


夢にまで見た母の姿に、胸が詰まる。泣いているのかもしれない。


そのとき、コンコン、と戸を叩く音。


「あら、何かしら」


母が玄関へ向かう。


だめだ。


止めようとするのに、身体が動かない。


動け。動け――。


母が戸を開ける。


そこに立っていたのは、二人の衛兵。


次の瞬間、剣が振り下ろされた。


セリスィンは叫べない。見ていることしかできない。


「――だめだ!!」


*


目を覚ました。


暗い部屋だ。椅子に座らされ、ロープで縛られている。鼻の奥に埃っぽい匂い。壁際には木箱と本が積まれ、窓はない。蝋燭か油のランプだけが、狭い明かりを落としている。


地下室だと気づくのに、時間はかからなかった。


「……そうか。俺は……」


青年たちを追い、謎の男と戦い、負けた。意識を失った。


「ここは、あいつの地下か」


呟いたところで、扉が開く音がした。


階段を下りてくる足音。かつ、かつ――。


男が現れた。


「おう。やっと目を覚ましたか」


男は嬉しそうに笑い、セリスィンの前の椅子に腰かけた。


「ここはどこだ」


セリスィンが問う。


「どこかの家の地下室――ってことにしとこう」


男は楽しげに言う。こいつのペースを崩すのは簡単じゃない。セリスィンは黙って様子を見る。


「お前が追い回した連中な。ここらじゃ“それなり”の家の坊ちゃんだ」


男は木の棒を指先で弾き、セリスィンの方へ向けた。セリスィンは棒越しに、男を睨む。


「相変わらず、いい面構えだ」


男は立ち上がり、部屋の棚をあさり始める。


「俺がお前にしてやれることは二つ」


そう言いながら、男は何かを見つけて「お、いいね」と独り言を漏らした。


「一つ。貴族に手をかけた罪で、お前をナポリの海に沈める」


陽気な声で言う内容じゃない。だが、この男ならやる。セリスィンはそれを、身をもって知っている。


「……もう一つは」


「いいぜ。お前のその淡白なとこ。大物になりそうだ」


男はにやりと笑い、手にしていたものをセリスィンの足元へ放った。


金属の兜。兵のものに見える。


「もう一つ。お前が生き延びる唯一の道だ」


「なんだ」


「剣闘士になってもらう」


男は言った。


剣闘士――円形闘技場で、人々の前で戦う者。スパルタクスの名も、そこに結びついている。


「剣闘士……?」


「ああ。お前は腕が立つ。いい剣闘士になって、俺に利益を返すなら――釈放してやる」


男は不敵に笑った。


前者に比べれば“まし”だ。剣闘士の細部は知らないが、少なくとも今すぐ海に沈められるよりは。


――そう思ったのに。


「いやだ」


セリスィンは即答した。


男が目を丸くする。


「おいおい、正気か? じゃあナポリの海だな」


「それもいやだ」


セリスィンは言い切った。


「ナポリの海にも沈まない。剣闘士にもならない。ここから逃げて、いつもの生活に戻る」


男は瞬きを止め、それから腹を抱えて笑い始めた。しばらく笑い、呼吸を整えると、棒先をセリスィンの眼前に突きつける。


「まだ状況が分かってねえな、小僧」


脅しなのか、本気なのか――たぶん本気だ。男の目はまっすぐセリスィンを捉えている。


「お前には二つしかねえ。あいつらは非道でも“家”を持ってる。顔を立てるために、俺は何かをしなきゃならねえ」


棒先がさらに近づく。目と鼻の先。


「俺の強さは、お前が一番分かってるだろ?」


「それでも、いやだ」


セリスィンは引かない。


睨み合いが続く。やがて男が棒を下げ、「つくづく面白いガキだ」と笑って踵を返した。


「小僧。『クルスス・ホノルム(cursus honorum)』って言葉、知ってるか」


男はアンフォラ(甕)から杯へ酒を注ぎながら言う。


「貴族どもがこぞって目指す出世の道だ。最後は執政官――コンスル」


「俺には関係ないな」


貴族どころか、今の自分は“市民”ですらない。セリスィンはそういう意味で言った。


「まあ待て。大事なのはそこじゃねえ」


男は酒を含み、一呼吸置いて続けた。


「剣闘士はな。スターになりゃ、何十倍も稼げる」


「それがどうした」


「今のお前は、その生活に満足してんのか?」


その瞬間、セリスィンの胸がわずかに揺れた。


「……なぜお前が俺のことを知ってる」


男は笑う。


「俺は情報屋でもある。ここらのことならだいたい知ってる。元気な野良犬がいるってのもな」


男は杯を傾けた。


「もしお前が今の暮らしで満足してるなら、俺は何も言わねえ。この際、はっきり言っとくが――俺は『殺した』ってことにして、お前をどっかに逃がしてやってもいい」


セリスィンは目を細めた。


「貴族の顔を立てる必要があるんじゃなかったのか」


「あの程度の家に、顔立てる必要なんざねえ」


「……俺を試したのか?」


「どうでもいい。俺が言えるのは一つだ。お前の腕の才能に惚れた」


男がにやりと笑う。


「俺は面白いことが好きなんだ。俺が目をかけたやつが大物になる――そういうの、見てえと思わねえか?」


「……」


セリスィンは答えられない。


男は続けた。


「だが、お前が今の暮らしに満足してなくて、このまま死にたくないって言うなら――お前だけのクルスス・ホノルムを作るしかねえ」


冷えた地下室に、男の声が響く。


まるで、自分の内側を覗かれたみたいだった。


「それが、剣闘士……だと」


「そういうことだ。スターになりゃ、今まで想像もしなかった暮らしが手に入る。クソみてえな生活から抜け出すには、悪くねえ」


男は杯を持ったまま椅子に座り直し、セリスィンへ差し向けた。


「さて。踏まえて、もう一回聞く」


男の声が少しだけ低くなる。


「お前はどうする――ガキ。いや」


一拍。


「お前は、どうしたい?」


「俺は……」


セリスィンは即答できなかった。

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