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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第3章 女騎士”ジョルテ”
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朝の群れ

霧が切れ始めると、音が増える。


鳥の声、家々の戸が開く音、遠くの車輪の軋み。人が起きる――それは“隠れる”には不利で、“紛れる”には有利だった。


セリスィンは川沿いの藪を抜け、土の道へ出た。背後では追手の声がまだ聞こえる。だが霧が薄くなった分、追う側も無闇に走れない。人目が増えるからだ。


「こっちだ」


セリスィンはジョルテの腕を引き、畑の畦を切って進む。ジョルテは踵を庇いながらもついてくるが、息が浅い。汗が冷えて顔色が悪い。


「……まだ、追ってくる」


ジョルテが掠れ声で言った。


「ああ。追う理由があるからな」


セリスィンは、あの金具の意匠を思い出す。剣闘士の周辺にいる“筋”。捕まえ慣れた手つき。笛の合図。縄。犬。


ただの乱暴者ではない。


(誰が、何のために)


頭の片隅で問いが回る。だが、今は答えより先に足が必要だった。


街外れへ近づくにつれ、道に人が出始めた。桶を抱えた女、荷を担ぐ男、畑へ向かう老夫婦。露店を開く準備の匂い――焼いた穀物と、香草と、油の匂いが風に混じる。


セリスィンは速度を落とし、歩調を整えた。


「走るな。ここからは“普通”のふりをする」


ジョルテが苛立ったように言い返す。


「普通の女は、血の匂いはしない」


「匂いは隠せない。動きは隠せる」


セリスィンはジョルテの外套の襟を引き上げさせ、顔を半分隠させた。自分も髪を乱し、肩を丸める。剣闘士の癖――胸を張る歩き方を殺す。


群れの中へ、滑り込む。


市場の端に、麻布を干す店があった。朝の冷気の中で布が揺れ、店主が縄を張っている。セリスィンは迷わず声をかけた。


「すまん、布を一枚。安いのでいい」


「朝から何だい」


店主が値を言う。セリスィンは懐の銅貨を数枚出した。痛い出費だが、命より安い。


布を受け取ると、セリスィンはジョルテの手首に巻いた。包帯ではない。袖を長く見せるための偽装だ。小刀を握る手を隠す。


「……何の真似だ」


「目立つものを消す。お前の手、戦う手だ。女の手じゃない」


ジョルテが唇を噛む。褒め言葉ではない。だが侮辱でもない。現実だった。


そのとき――背後で、笛が鳴った。


短く、鋭い音。


セリスィンの背筋が冷える。


(来た)


市場の入り口、荷車の列の向こうに、例の“戦える男”が見えた。霧の中で見た顔ではない。だが歩き方が同じだ。目が同じだ。周囲を見回すのではなく、“通り道”を切って見ている。


その男の後ろに、棒の連中が二人。


そして――別の方向からも、同じ意匠の金具を腰につけた男が二人、ゆっくりと入ってくる。挟みに来ている。


「……包囲だ」


セリスィンが呟くと、ジョルテが硬い声で言った。


「なら、戦う」


「今ここで戦ったら、俺たちが“異物”だと証明するだけだ」


セリスィンは周囲の人波を見た。無関係な人間が多い。巻き込めば叫び声が上がる。叫び声が上がれば、兵や衛兵が来る。衛兵が来れば、終わる。


セリスィンは選ぶ。


「分断する」


「どうやって」


「人波を使う」


セリスィンはジョルテを引き、露店と露店の間へ入った。香草の山、果実の籠、陶器の皿。狭い通路。荷車が通れない場所。


追手の一人がこちらへ向きを変えるのが見える。


「――あっちだ」


セリスィンはわざと、店の前の桶を蹴った。


水が派手にこぼれ、通路が一瞬で滑りやすくなる。怒鳴り声が上がる。


「何するんだ!」 「水が! 商品が!」


人が振り向く。通路が詰まる。追手の足が止まる。


セリスィンはその隙にジョルテを引き、裏手の細道へ飛び込んだ。


細道の先は、馬屋だった。朝の糞の匂いが強い。馬が鼻を鳴らし、藁が積まれている。


セリスィンはジョルテを藁の陰へ押し込んだ。


「ここで待て」


「何をする」


「混ぜる」


セリスィンは馬屋の主人に向かって、あえて大きめの声で言った。


「すまん、藁を少し分けてくれ。銅貨で」


「何だ、急に」


「今すぐだ。腹を下した馬がいる」


嘘だ。だが嘘は、現実の匂いに混ぜれば真実になる。主人は舌打ちしながらも藁を掴み、縄で束ね始めた。


その瞬間、馬屋の入口に影が落ちた。


追手だ。


棒を持った男が二人。周囲を睨み、馬屋の主人へ声を投げる。


「女を見なかったか。外套を被った、細いのだ」


主人が眉をひそめる。


「朝から何だ。女なんていくらでもいるだろ」


追手が苛立ちを隠さず言う。


「剣闘士だ。――逃げた」


その言葉で、主人の顔色が変わった。剣闘士の名は、興奮と恐れを同時に呼ぶ。


セリスィンは一歩前に出て、主人の陰に入った。目立たない位置で、低い声で言う。


「見てない。ここは馬屋だ。女が来たら目立つ」


追手の一人がセリスィンを見る。


目が、一瞬だけ止まる。


(……まずい)


セリスィンは自分の顔が“売れてきた”ことを、この瞬間ほど呪ったことはない。


追手が言った。


「お前……」


言い終える前に、馬が大きく鼻を鳴らした。主人が苛立って手綱を引き、馬が身をよじる。荷が崩れ、藁束が落ちる。


馬屋の入口が一瞬、混乱する。


セリスィンはその隙に藁束を持ち上げ、主人の横から外へ出るふりをした。


「ほらよ、藁だ。急いでる」


主人は反射で頷き、追手は一瞬視線をそちらへ。


その一瞬で、セリスィンは踵を返し、藁の陰へ滑り込んだ。ジョルテの腕を掴む。


「行くぞ。今」


ジョルテが低く唸る。


「……いつまで逃げる」


「橋まで」


セリスィンは短く言った。


「次は、大きい橋じゃない。街外れの――人の少ない橋だ」


ジョルテの瞳が燃える。


そこが“最後”だと、彼女も分かっている。


二人は馬屋の裏口から抜け、柵沿いに走った。今度は走る。人の目が少ない。足音が自分たちだけになる。背後で追手の怒鳴り声が上がる。


「裏だ! 逃がすな!」


セリスィンは歯を食いしばった。


逃げ切れるかどうかは分からない。


だが一つだけ分かる。


追手はジョルテを“捕まえる”つもりでいる。殺すつもりではない。


それが、いちばん気味が悪かった。

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