朝の群れ
霧が切れ始めると、音が増える。
鳥の声、家々の戸が開く音、遠くの車輪の軋み。人が起きる――それは“隠れる”には不利で、“紛れる”には有利だった。
セリスィンは川沿いの藪を抜け、土の道へ出た。背後では追手の声がまだ聞こえる。だが霧が薄くなった分、追う側も無闇に走れない。人目が増えるからだ。
「こっちだ」
セリスィンはジョルテの腕を引き、畑の畦を切って進む。ジョルテは踵を庇いながらもついてくるが、息が浅い。汗が冷えて顔色が悪い。
「……まだ、追ってくる」
ジョルテが掠れ声で言った。
「ああ。追う理由があるからな」
セリスィンは、あの金具の意匠を思い出す。剣闘士の周辺にいる“筋”。捕まえ慣れた手つき。笛の合図。縄。犬。
ただの乱暴者ではない。
(誰が、何のために)
頭の片隅で問いが回る。だが、今は答えより先に足が必要だった。
街外れへ近づくにつれ、道に人が出始めた。桶を抱えた女、荷を担ぐ男、畑へ向かう老夫婦。露店を開く準備の匂い――焼いた穀物と、香草と、油の匂いが風に混じる。
セリスィンは速度を落とし、歩調を整えた。
「走るな。ここからは“普通”のふりをする」
ジョルテが苛立ったように言い返す。
「普通の女は、血の匂いはしない」
「匂いは隠せない。動きは隠せる」
セリスィンはジョルテの外套の襟を引き上げさせ、顔を半分隠させた。自分も髪を乱し、肩を丸める。剣闘士の癖――胸を張る歩き方を殺す。
群れの中へ、滑り込む。
市場の端に、麻布を干す店があった。朝の冷気の中で布が揺れ、店主が縄を張っている。セリスィンは迷わず声をかけた。
「すまん、布を一枚。安いのでいい」
「朝から何だい」
店主が値を言う。セリスィンは懐の銅貨を数枚出した。痛い出費だが、命より安い。
布を受け取ると、セリスィンはジョルテの手首に巻いた。包帯ではない。袖を長く見せるための偽装だ。小刀を握る手を隠す。
「……何の真似だ」
「目立つものを消す。お前の手、戦う手だ。女の手じゃない」
ジョルテが唇を噛む。褒め言葉ではない。だが侮辱でもない。現実だった。
そのとき――背後で、笛が鳴った。
短く、鋭い音。
セリスィンの背筋が冷える。
(来た)
市場の入り口、荷車の列の向こうに、例の“戦える男”が見えた。霧の中で見た顔ではない。だが歩き方が同じだ。目が同じだ。周囲を見回すのではなく、“通り道”を切って見ている。
その男の後ろに、棒の連中が二人。
そして――別の方向からも、同じ意匠の金具を腰につけた男が二人、ゆっくりと入ってくる。挟みに来ている。
「……包囲だ」
セリスィンが呟くと、ジョルテが硬い声で言った。
「なら、戦う」
「今ここで戦ったら、俺たちが“異物”だと証明するだけだ」
セリスィンは周囲の人波を見た。無関係な人間が多い。巻き込めば叫び声が上がる。叫び声が上がれば、兵や衛兵が来る。衛兵が来れば、終わる。
セリスィンは選ぶ。
「分断する」
「どうやって」
「人波を使う」
セリスィンはジョルテを引き、露店と露店の間へ入った。香草の山、果実の籠、陶器の皿。狭い通路。荷車が通れない場所。
追手の一人がこちらへ向きを変えるのが見える。
「――あっちだ」
セリスィンはわざと、店の前の桶を蹴った。
水が派手にこぼれ、通路が一瞬で滑りやすくなる。怒鳴り声が上がる。
「何するんだ!」 「水が! 商品が!」
人が振り向く。通路が詰まる。追手の足が止まる。
セリスィンはその隙にジョルテを引き、裏手の細道へ飛び込んだ。
細道の先は、馬屋だった。朝の糞の匂いが強い。馬が鼻を鳴らし、藁が積まれている。
セリスィンはジョルテを藁の陰へ押し込んだ。
「ここで待て」
「何をする」
「混ぜる」
セリスィンは馬屋の主人に向かって、あえて大きめの声で言った。
「すまん、藁を少し分けてくれ。銅貨で」
「何だ、急に」
「今すぐだ。腹を下した馬がいる」
嘘だ。だが嘘は、現実の匂いに混ぜれば真実になる。主人は舌打ちしながらも藁を掴み、縄で束ね始めた。
その瞬間、馬屋の入口に影が落ちた。
追手だ。
棒を持った男が二人。周囲を睨み、馬屋の主人へ声を投げる。
「女を見なかったか。外套を被った、細いのだ」
主人が眉をひそめる。
「朝から何だ。女なんていくらでもいるだろ」
追手が苛立ちを隠さず言う。
「剣闘士だ。――逃げた」
その言葉で、主人の顔色が変わった。剣闘士の名は、興奮と恐れを同時に呼ぶ。
セリスィンは一歩前に出て、主人の陰に入った。目立たない位置で、低い声で言う。
「見てない。ここは馬屋だ。女が来たら目立つ」
追手の一人がセリスィンを見る。
目が、一瞬だけ止まる。
(……まずい)
セリスィンは自分の顔が“売れてきた”ことを、この瞬間ほど呪ったことはない。
追手が言った。
「お前……」
言い終える前に、馬が大きく鼻を鳴らした。主人が苛立って手綱を引き、馬が身をよじる。荷が崩れ、藁束が落ちる。
馬屋の入口が一瞬、混乱する。
セリスィンはその隙に藁束を持ち上げ、主人の横から外へ出るふりをした。
「ほらよ、藁だ。急いでる」
主人は反射で頷き、追手は一瞬視線をそちらへ。
その一瞬で、セリスィンは踵を返し、藁の陰へ滑り込んだ。ジョルテの腕を掴む。
「行くぞ。今」
ジョルテが低く唸る。
「……いつまで逃げる」
「橋まで」
セリスィンは短く言った。
「次は、大きい橋じゃない。街外れの――人の少ない橋だ」
ジョルテの瞳が燃える。
そこが“最後”だと、彼女も分かっている。
二人は馬屋の裏口から抜け、柵沿いに走った。今度は走る。人の目が少ない。足音が自分たちだけになる。背後で追手の怒鳴り声が上がる。
「裏だ! 逃がすな!」
セリスィンは歯を食いしばった。
逃げ切れるかどうかは分からない。
だが一つだけ分かる。
追手はジョルテを“捕まえる”つもりでいる。殺すつもりではない。
それが、いちばん気味が悪かった。




