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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第3章 女騎士”ジョルテ”
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橋脚の下

橋脚の陰は、冷たかった。


湿った石の匂い。水の匂い。泥の匂い。どれも夜の寮にはない匂いだ。ここにいるだけで、身体が「逃げている」と理解してしまう。


セリスィンは耳を澄ませた。


石を踏む音が一つ、二つ。橋の下へ回り込む足音。棒が衣に擦れる音。息を殺しているのに、焦りだけが音になって漏れている。


(近い)


ジョルテは外套の襟を噛むように握っていた。呼吸が乱れかけるたびに、自分で押し殺している。


セリスィンは彼女の袖を引き、川面を指した。


橋脚の裏から下流へ、細い足場が続いている。石積みの段差が、川沿いに何段かだけ残っている場所だ。そこを伝えば、橋の“真下”から外れる。


セリスィンは口の形だけで言った。


(動く)


ジョルテが頷く。


二人は石の段差を、這うように移動した。水に落ちない程度に体を傾け、石に指を食い込ませて進む。ジョルテの踵の傷が気になる。だが今は、痛みを気にする余裕がない。


そのとき、背後で声がした。


「――いたぞ!」


見られた。


松明の光が橋脚を回り、白い霧を切ってこちらへ伸びる。


セリスィンは迷わず、ジョルテの手首を掴んで引いた。


「走る!」


「落ちる!」


「落ちるな!」


無茶を言いながら、セリスィンは段差を二つ飛ばした。足が滑り、膝が水をかすめる。冷たさが布越しに刺さる。


後ろで棒が石を叩く音がした。追手が段差を辿ってくる。


セリスィンはジョルテを先に押し、橋脚の陰から完全に外れたところで急に方向を変えた。


岸へ――ではない。


岸へ向かえば、追手が回り込める。なら、逆に“見えない場所”へ入る。


川沿いの藪だ。


背の低い草と葦が密に生えた場所に、二人は体を沈めた。水に濡れた匂いと泥の匂いが濃く、息をしているだけで喉が苦くなる。


追手の足音が近づく。


「どこだ……!」 「この辺に入ったはずだ、見ろ!」


松明の光が草を撫で、影が揺れる。すぐそこだ。ジョルテの肩が震えた。


セリスィンは指を一本立て、彼女の唇の前に置いた。


静かに。


静かにやり過ごす。


――だが、運は長くは続かない。


草の向こうで、何かが飛んだ。


縄だ。


空を切って葦の上に落ち、ずるずると引かれる。まるで“ここを探っている”みたいに。


(こいつら……捕まえ慣れてる)


セリスィンは歯を食いしばった。隠れ続ければ、いずれ引っかかる。


だから――逆だ。


セリスィンはジョルテの耳元に囁いた。


「……合図で、右へ。走れ。振り返るな」


「貴様は?」


「左へ出る。目を引く」


「馬鹿か!」


ジョルテが声を上げかけた瞬間、セリスィンは彼女の手首を握って止めた。


「弟に会いたいなら、生きろ」


ジョルテの口が閉じた。


次の瞬間――セリスィンは草むらから左へ飛び出した。


「こっちだ!」


叫ぶと同時に石を掴み、松明を持つ男へ投げた。狙いは顔ではない。腕だ。松明を落とさせるため。


「うおっ!」


男が松明を落とす。火が草に移りかけるが、湿り気で燃え広がらない。光が乱れ、追手の視線が散る。


「追え! 小僧だ!」


その叫びが上がった瞬間、セリスィンは反対方向へ走った。


そして――手で合図。


ジョルテは右へ走った。外套を翻し、霧の薄い川沿いを斜めに切っていく。


追手のうち二人がジョルテに気づき、そちらへ向きを変えた。


「女だ! そっちだ!」


最悪の叫び。


セリスィンの腹の奥が冷えた。だが今は、その叫びすら“使う”。


追手が割れた。


薄くなった。


セリスィンは急に方向を変え、ジョルテの進路へ合流する形で走った。


前方、川沿いに小さな小屋が見えた。漁具を置くような粗末な小屋。扉は半分外れ、隙間がある。


「入れ!」


セリスィンが叫ぶ。


ジョルテが先に飛び込み、セリスィンも続く。二人は小屋の裏へ回り、崩れた板壁の陰に身を沈めた。


追手の足音が迫る。


扉が蹴られる音。


「いねえぞ!」 「……裏だ!」


セリスィンは小屋の床に落ちていた釣り糸を掴み、手早く板の隙間に引っかけた。罠ではない。ただの“邪魔”だ。踏めば一瞬止まる。


次の瞬間、男が裏へ回り込む。


セリスィンは動いた。


棒を持つ男の腕へ飛びつき、肘を折る方向へ捻る。男が呻き、棒が落ちる。セリスィンは棒を拾わず、男の膝を蹴って地面に落とした。


もう一人が刃物を抜く。


ジョルテが、その手の甲を小刀で裂いた。浅い。だが確実に武器が落ちる。


「……っ!」


男が一歩退く。その隙にセリスィンが肩でぶつかり、男を小屋の板壁に叩きつけた。


板が鳴り、男が崩れる。


セリスィンは息を吐いた。


ジョルテの肩が上下している。踵を庇いながら、それでも立っている。


「……まだ来る」


ジョルテが言った。


「ああ」


セリスィンは小屋の外を覗く。霧の向こうで、また影が動いている。追手は一団ではない。波のように来る。


セリスィンは倒れている男の腰を探り、革の留め具を抜き取った。小さな金具。意匠がある。


同じだ。橋で見た。追手の腰にもあった。


「これ……どこの連中だ」


セリスィンが呟くと、ジョルテの目がそれを捉えた。


そして一瞬だけ、顔色が変わった。


「……それを、なぜ持っている」


「落ちてた」


セリスィンは誤魔化さず言った。


ジョルテは唇を噛み、低く言う。


「その印……私の“仲介”の男が持っていた」


セリスィンの背中が冷える。


「……名前は」


「知らない。名乗らない」


ジョルテは言った。


「でも、いつも同じ印を身につけていた。『うちは大きい』と。『逆らうな』と」


セリスィンは金具を握りしめた。


追手の正体が、少しだけ輪郭を持った。


ただの追いはぎじゃない。剣闘士の周辺――金と人を回す“筋”だ。


ジョルテが、小さな声で言う。


「……ここでいい。貴様は戻れ」


「戻らない」


セリスィンが即答すると、ジョルテが睨む。


「なぜだ」


セリスィンは、さっきまでと違う答えを選んだ。


「お前の弟の手紙を読んだ。あれは――」


言いかけて、止めた。胸の奥が変に熱くなる。


「……見過ごせない」


ジョルテの視線が揺れる。だが、すぐに固くなる。


「甘い」


「甘くていい」


セリスィンは言った。


「甘くなきゃ、ここまで来てない」


そのとき、外で笛が鳴った。


短く、鋭い合図。


同じだ。橋で聞いた音。包囲の指揮がいる。


セリスィンは小屋の隙間から外を見た。


霧の向こうに、人影が増えている。左右から、川沿いから。


逃げ道が、削られていく。


「……行くぞ」


セリスィンは言った。


「どこへ」


「街外れだ。人が増える前に、混ぜる」


「古い橋は?」


「今は捨てる。――あそこは罠だった」


ジョルテが悔しそうに拳を握る。


「弟が……」


「だから生き延びる。次の手を打つために」


セリスィンはジョルテの腕を取り、立たせた。


小屋の裏から抜ける。川沿いに少し下り、藪の切れ目へ滑り込む。


背後で追手の声がした。


「見つけた!」 「逃がすな!」


セリスィンは振り返らない。


ただ一つだけ思う。


――この追いは、まだ終わらない。

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