橋脚の下
橋脚の陰は、冷たかった。
湿った石の匂い。水の匂い。泥の匂い。どれも夜の寮にはない匂いだ。ここにいるだけで、身体が「逃げている」と理解してしまう。
セリスィンは耳を澄ませた。
石を踏む音が一つ、二つ。橋の下へ回り込む足音。棒が衣に擦れる音。息を殺しているのに、焦りだけが音になって漏れている。
(近い)
ジョルテは外套の襟を噛むように握っていた。呼吸が乱れかけるたびに、自分で押し殺している。
セリスィンは彼女の袖を引き、川面を指した。
橋脚の裏から下流へ、細い足場が続いている。石積みの段差が、川沿いに何段かだけ残っている場所だ。そこを伝えば、橋の“真下”から外れる。
セリスィンは口の形だけで言った。
(動く)
ジョルテが頷く。
二人は石の段差を、這うように移動した。水に落ちない程度に体を傾け、石に指を食い込ませて進む。ジョルテの踵の傷が気になる。だが今は、痛みを気にする余裕がない。
そのとき、背後で声がした。
「――いたぞ!」
見られた。
松明の光が橋脚を回り、白い霧を切ってこちらへ伸びる。
セリスィンは迷わず、ジョルテの手首を掴んで引いた。
「走る!」
「落ちる!」
「落ちるな!」
無茶を言いながら、セリスィンは段差を二つ飛ばした。足が滑り、膝が水をかすめる。冷たさが布越しに刺さる。
後ろで棒が石を叩く音がした。追手が段差を辿ってくる。
セリスィンはジョルテを先に押し、橋脚の陰から完全に外れたところで急に方向を変えた。
岸へ――ではない。
岸へ向かえば、追手が回り込める。なら、逆に“見えない場所”へ入る。
川沿いの藪だ。
背の低い草と葦が密に生えた場所に、二人は体を沈めた。水に濡れた匂いと泥の匂いが濃く、息をしているだけで喉が苦くなる。
追手の足音が近づく。
「どこだ……!」 「この辺に入ったはずだ、見ろ!」
松明の光が草を撫で、影が揺れる。すぐそこだ。ジョルテの肩が震えた。
セリスィンは指を一本立て、彼女の唇の前に置いた。
静かに。
静かにやり過ごす。
――だが、運は長くは続かない。
草の向こうで、何かが飛んだ。
縄だ。
空を切って葦の上に落ち、ずるずると引かれる。まるで“ここを探っている”みたいに。
(こいつら……捕まえ慣れてる)
セリスィンは歯を食いしばった。隠れ続ければ、いずれ引っかかる。
だから――逆だ。
セリスィンはジョルテの耳元に囁いた。
「……合図で、右へ。走れ。振り返るな」
「貴様は?」
「左へ出る。目を引く」
「馬鹿か!」
ジョルテが声を上げかけた瞬間、セリスィンは彼女の手首を握って止めた。
「弟に会いたいなら、生きろ」
ジョルテの口が閉じた。
次の瞬間――セリスィンは草むらから左へ飛び出した。
「こっちだ!」
叫ぶと同時に石を掴み、松明を持つ男へ投げた。狙いは顔ではない。腕だ。松明を落とさせるため。
「うおっ!」
男が松明を落とす。火が草に移りかけるが、湿り気で燃え広がらない。光が乱れ、追手の視線が散る。
「追え! 小僧だ!」
その叫びが上がった瞬間、セリスィンは反対方向へ走った。
そして――手で合図。
ジョルテは右へ走った。外套を翻し、霧の薄い川沿いを斜めに切っていく。
追手のうち二人がジョルテに気づき、そちらへ向きを変えた。
「女だ! そっちだ!」
最悪の叫び。
セリスィンの腹の奥が冷えた。だが今は、その叫びすら“使う”。
追手が割れた。
薄くなった。
セリスィンは急に方向を変え、ジョルテの進路へ合流する形で走った。
前方、川沿いに小さな小屋が見えた。漁具を置くような粗末な小屋。扉は半分外れ、隙間がある。
「入れ!」
セリスィンが叫ぶ。
ジョルテが先に飛び込み、セリスィンも続く。二人は小屋の裏へ回り、崩れた板壁の陰に身を沈めた。
追手の足音が迫る。
扉が蹴られる音。
「いねえぞ!」 「……裏だ!」
セリスィンは小屋の床に落ちていた釣り糸を掴み、手早く板の隙間に引っかけた。罠ではない。ただの“邪魔”だ。踏めば一瞬止まる。
次の瞬間、男が裏へ回り込む。
セリスィンは動いた。
棒を持つ男の腕へ飛びつき、肘を折る方向へ捻る。男が呻き、棒が落ちる。セリスィンは棒を拾わず、男の膝を蹴って地面に落とした。
もう一人が刃物を抜く。
ジョルテが、その手の甲を小刀で裂いた。浅い。だが確実に武器が落ちる。
「……っ!」
男が一歩退く。その隙にセリスィンが肩でぶつかり、男を小屋の板壁に叩きつけた。
板が鳴り、男が崩れる。
セリスィンは息を吐いた。
ジョルテの肩が上下している。踵を庇いながら、それでも立っている。
「……まだ来る」
ジョルテが言った。
「ああ」
セリスィンは小屋の外を覗く。霧の向こうで、また影が動いている。追手は一団ではない。波のように来る。
セリスィンは倒れている男の腰を探り、革の留め具を抜き取った。小さな金具。意匠がある。
同じだ。橋で見た。追手の腰にもあった。
「これ……どこの連中だ」
セリスィンが呟くと、ジョルテの目がそれを捉えた。
そして一瞬だけ、顔色が変わった。
「……それを、なぜ持っている」
「落ちてた」
セリスィンは誤魔化さず言った。
ジョルテは唇を噛み、低く言う。
「その印……私の“仲介”の男が持っていた」
セリスィンの背中が冷える。
「……名前は」
「知らない。名乗らない」
ジョルテは言った。
「でも、いつも同じ印を身につけていた。『うちは大きい』と。『逆らうな』と」
セリスィンは金具を握りしめた。
追手の正体が、少しだけ輪郭を持った。
ただの追いはぎじゃない。剣闘士の周辺――金と人を回す“筋”だ。
ジョルテが、小さな声で言う。
「……ここでいい。貴様は戻れ」
「戻らない」
セリスィンが即答すると、ジョルテが睨む。
「なぜだ」
セリスィンは、さっきまでと違う答えを選んだ。
「お前の弟の手紙を読んだ。あれは――」
言いかけて、止めた。胸の奥が変に熱くなる。
「……見過ごせない」
ジョルテの視線が揺れる。だが、すぐに固くなる。
「甘い」
「甘くていい」
セリスィンは言った。
「甘くなきゃ、ここまで来てない」
そのとき、外で笛が鳴った。
短く、鋭い合図。
同じだ。橋で聞いた音。包囲の指揮がいる。
セリスィンは小屋の隙間から外を見た。
霧の向こうに、人影が増えている。左右から、川沿いから。
逃げ道が、削られていく。
「……行くぞ」
セリスィンは言った。
「どこへ」
「街外れだ。人が増える前に、混ぜる」
「古い橋は?」
「今は捨てる。――あそこは罠だった」
ジョルテが悔しそうに拳を握る。
「弟が……」
「だから生き延びる。次の手を打つために」
セリスィンはジョルテの腕を取り、立たせた。
小屋の裏から抜ける。川沿いに少し下り、藪の切れ目へ滑り込む。
背後で追手の声がした。
「見つけた!」 「逃がすな!」
セリスィンは振り返らない。
ただ一つだけ思う。
――この追いは、まだ終わらない。




