選べ
橋の上。
朝霧の湿り気が、肌にまとわりつく。川の音は近いのに、世界は妙に静かだった。静かなまま、足音だけが増えていく。
橋のたもとに立つ外套の男は、穏やかな声で言った。
「選べ。大人しく戻るか――弟の居場所を、ここで捨てるか」
ジョルテの喉が鳴った。
外套の襟に隠れても、震えは隠れない。怒りで燃えているのに、身体が冷えていく。そんな目をしていた。
「……弟は、どこだ」
絞り出すような声。
男はすぐには答えず、わざと視線を横へ流した。橋の向こう――霧の中に、追手の影が動いている。
「まずは武器を捨てろ。小刀だ。そうすりゃ話してやる」
ジョルテの指が小刀の柄を握り直す。
セリスィンは、その手首を掴んだ。
「捨てるな」
「だが――!」
「そいつは“話す”気がない。条件を増やして引き延ばすだけだ」
男が薄く笑う。
「おいおい。邪魔するなよ。そいつはジョルテの問題だ」
セリスィンは男を睨んだ。
「お前が“弟の名を知ってる”時点で、問題はお前が作ったものだろ」
男の目がほんの一瞬だけ動いた。驚きではない。値踏みだ。
「口の利き方が路上のそれじゃないな。……剣闘士か?」
セリスィンは答えない。
答える必要がない。答えた瞬間、相手は次の札を切ってくる。
足音が近づく。
橋の下流側からも、上流側からも。橋は長くない。挟まれるのは時間の問題だ。
セリスィンはジョルテへ、短く言った。
「伏せられるか」
「……できる」
「じゃあ、やれ」
「今?」
「今だ」
セリスィンは男へ一歩踏み込んだ。攻めるふりではない。間合いを詰めて、相手の視界を狭めるためだ。
男が反射で肩を引く。
その一瞬――セリスィンは足元の小石を蹴り、男の顔へ飛ばした。
石は狙い通りに当たらない。だが狙いは目ではなく“瞬き”だ。
男が目を閉じる。
「今だ、ジョルテ!」
ジョルテが反射で伏せる。
セリスィンは男の外套の胸元を掴み、欄干へ叩きつけた。骨までは折らない。息だけ奪う。
「ぐっ……!」
男が呻く。セリスィンは囁いた。
「弟の居場所? 本当に知ってるなら言え。今ここで」
男は苦笑した。
「……焦るな。お前、買い手がつきそうだな」
「何の話だ」
男は答えず、舌で合図するように口笛を吹こうとした。
セリスィンは即座に男の喉を押さえ、音を潰した。
その瞬間、背後で怒鳴り声が上がる。
「そこだ!」 「女がいる!」
追手が橋へ突入してきた。
セリスィンは男を欄干から引き剥がし、追手の進路へ突き出した。盾代わりではない。“渋滞”を作るためだ。
「ぐぁっ!」
男がよろめき、追手が一瞬止まる。
セリスィンはジョルテの腕を掴み、橋の中央へ走った。
「走れ!」
「……っ!」
ジョルテの踵が悲鳴を上げる。それでも走る。
だが橋は短い。逃げてもすぐ端に詰まる。
セリスィンは一瞬で判断を変えた。
「下だ!」
「川に落ちろと言うのか!」
「落ちない。降りる」
橋の側面――石積みの段差へ身体を寄せ、セリスィンは先にぶら下がった。片手で縁を掴み、もう片手でジョルテを引く。
「来い!」
ジョルテが歯を食いしばり、外套のまま縁へ身を預ける。二人は石の段差を滑るように降り、橋脚の陰へ転がり込んだ。
上では追手が叫んでいる。
「下へ回れ!」 「川沿いだ、逃がすな!」
橋の下は暗い。湿っている。だが一瞬だけ、見えない。
セリスィンはジョルテの口元へ指を当てる。
「声を出すな。息も抑えろ」
ジョルテは頷く。瞳だけが燃えていた。
セリスィンは耳を澄ます。追手の足音が橋を叩く音。橋脚を回り込む音。もうすぐ、ここへも来る。
そのとき、橋の上から男の声が落ちてきた。
「ジョルテ!」
さっきの外套の男だ。咳き込みながら叫んでいる。
「弟の居場所が欲しいなら――戻れ! 今なら“手遅れ”にはしない!」
ジョルテの身体が硬直した。
セリスィンは、その反応で確信する。
(弟は……まだ生きてる可能性がある)
同時に、もっと嫌なことも分かった。
(あいつは“居場所”を餌にしてるんじゃない。“生死”を餌にしてる)
セリスィンはジョルテの耳元で低く言った。
「聞くな。あいつの言葉は、鎖だ」
「……でも」
「でもじゃない。取り返すんだろ。なら生き延びろ」
ジョルテは唇を噛み、頷いた。今度は反発ではなく、歯を食いしばった同意だった。
そして橋脚の反対側で、石を踏む音がした。
追手が、橋の下へ回り込んできている。
セリスィンは息を吸い、吐く。
次の瞬間に動く。
動かなければ、ここで終わる。




