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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第22章 カエサルの過去 ~青年期Ⅳ~

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王の前で

夜は、港の方が先に濃くなる。

王宮より先に。

市場より先に。

水辺は光を飲むのが早い。

だから夜の話は、たいてい港から始まる。


宿へ戻った時、主人は何も言わなかった。

言わないが、目だけで見る。

戻ってくる客か。

戻れない客か。

宿主は、その二つをいつも測っている。

戻ってくる客には、水を足す。

戻れない客には、先払い以外を残さない。


部屋は昼より狭く見えた。

夕方の部屋は、外から持ち帰った話の分だけ狭い。

木札。

王宮。

港。

船主。

面子。

支払い。

条件。

部屋の中に紙が増えるたび、空気も少し重くなる。


ティロは机に蝋板を置いた。

次に今日の話を並べる。

アンドロン。

一艘。

今夜。

二艘目。

三日半。

フィロン。

王宮待ち。

協力の形。

港が渋ったとは言うな。

順番に置く。

順番に置くと、頭の中の混雑が少しだけ人間の形になる。


ルフスは窓を少しだけ開けた。

少しだけ。

全部は開けない。

港町の夜気は、匂いと一緒に耳も入ってくる。

耳が入りすぎると、眠る場所ではなくなる。


「呼びはまだか」


ルフスが言う。


「まだだ」


ティロが答える。


「来るなら、王宮の使いだろう」


「来ないなら」


「明日もう一度押す」


カエサルが言った。

「ただ、押し方を変える」


押す。

その言葉は簡単だ。

だが、王宮を押すには手より先に形が要る。

今日までは到着を記させた。

明日は、港の現実を背負って行く。

それが違いだった。


宿の下で声がした。

一度。

二度。

宿主の声。

それから、外の男の声。

大きくない。

怒鳴っていない。

怒鳴らない時ほど、用件はまっすぐなことがある。


ルフスが立つ。

立ち方に無駄がない。

ティロは書簡をまとめる。

カエサルは扉を見る。

待っていた音だった。


数拍して、宿主が戸を叩く。


「客だ」


客。

その言い方は雑だ。

だが、雑な言い方で足りる相手ということでもある。

王宮の使者なら、もう少し丁寧に言う。

つまり、港側だ。


「入れ」


カエサルが言う。


入ってきたのはメナンドロスの使いではなかった。

昼に会った少年でもない。

今度は年上だ。

髭が薄い。

目が起きている。

夜に動く顔だ。


「メナンドロス様からだ」


男が言う。


「何だ」


「王宮が少し動いた」


その一言で、部屋の空気が変わる。

少し。

その程度の動きでも、待っていた者には十分に大きい。


「続けろ」


カエサルが言う。


「王宮の記録官のところで、お前の名が二度読まれた」


記録官。

高官ではない。

だが、無視もできない。

名が二度読まれた。

つまり、止まっていない。

止まっていないだけでも前進だ。


「明朝、王宮の外局に出ろ」


男は言った。

「本殿じゃない。船のことを扱う連中の部屋だ」


本殿ではない。

それは格下に見える。

だが、実務はそこにある。

王の耳まで行く前に、人はたいていそういう部屋を通る。

むしろ望ましい。


「誰の口からだ」


カエサルが訊く。


「そこまでは買ってない」


男は答えた。

「ただし、動いた」


買ってない。

その言い方に、港の匂いがある。

情報は耳で拾うものではない。

時には金で削るものだ。

メナンドロスは、必要なところだけ買ったのだろう。


「礼は」


ティロが訊いた。


男は肩をすくめた。


「メナンドロス様は、明日の後でいいと言ってる」


後でいい。

前で払わせない。

つまり、今はまだ投資の段階だ。

それがありがたい時ほど、あとで高くなる。


使いが帰る。

帰り足が軽い。

役目を果たした足だ。

夜の情報屋や使いは、帰る時の方が素直な顔をする。


扉が閉まると、ルフスが言った。


「少し動いた、か」


「十分だ」


カエサルが答えた。

「明日、港の話を王宮へ持ち込める」


ティロはもう蝋板に新しい線を足していた。

王宮外局。

船を扱う部屋。

明朝。

記録官経由。

名が二度。

そういう細い事実を、あとで一番使うのはたいていティロだった。


「服を変える?」


ティロが言う。


「変える」


カエサルは答えた。

「港を歩いたままの顔で王宮へ行くのは悪くない。だが、港の埃をそのまま持ち込むのは違う」


違いは小さい。

だが、小さい違いで門の固さが変わる場所がある。

王宮はそういう場所だ。


ルフスが言う。


「剣は」


「外局なら、最初は外される」


「俺も外か」


「たぶんそうだ」


ルフスは鼻で息を鳴らした。

不満ではない。

確認だ。

自分の役がどこで切られるかを把握している。


夜はそれ以上、大きく動かなかった。

宿の下で酔客が一度だけ笑った。

外を荷車が通った。

潮の匂いが少しだけ変わった。

それだけだ。

それだけの夜に見える。

だが、待つ者にとっては、明朝までの時間が一番長い。


翌朝、服を整える。

戦装束ではない。

旅の埃も落とす。

だが、貴族の遊興の顔にも寄せない。

総督府の若い使者。

そのくらいの位置へ自分を置く。

王宮の前では、言葉より先に見た目が働く。


ティロは書簡を三つに分けた。

王宮宛て。

港の覚え。

予備。

さらに別に、昨日の船主とのやり取りを簡潔にまとめた蝋板。

きれいではない。

だが、口だけより強い。


「全部持つな」


カエサルが言う。


ティロは頷いた。

「分かってる。見せる物と、見せない物を分ける」


そういうところがティロの強さだ。

持っているだけでは意味がない。

何をいつ出し、何を出さずに残すか。

紙の人間は、その順番で生きる。


王宮の外局は、本殿の隣ではなかった。

少し離れた石造りの建物だった。

華美ではない。

飾りも少ない。

だが、人の出入りが多い。

実務の建物は、だいたい見た目が地味だ。

地味な代わりに、手が速い。

手が速いところほど、怖い。


門で止められる。

それは当然だった。

止められない門は、崩れている。

木札を出す。

名を告げる。

昨日の到着記録を口にする。

門番はすぐには通さない。

だが、昨日より手間が一つ少ない。

記録があると、人は止めても話を前へ進められる。


中庭に入る。

広くはない。

井戸。

石段。

文書箱。

運ばれる蝋板。

運ばれる人より、運ばれる紙の方が多い。

そういう場所だ。


ルフスは石段の下で止められた。

予定通り。

それでいい。

驚かない。

驚いた顔は、こういう建物ではすぐ値を下げる。


「ここまでか」


ルフスが言う。


「ここからだ」


カエサルが答えた。


ティロも一瞬だけ止められる。

書簡の包みを見る目が入る。

だが、「書記補助」の所属が効いた。

総督府付き。

その札が、ここで初めて別の意味を持つ。

ただの従者ではなく、紙を運ぶ部位として見られる。


通された部屋は細長かった。

窓が高い。

机が四つ。

棚が二つ。

記録官と下役が三人。

そして奥に、年配の男が一人。

衣の縁にだけ少し金が入っている。

派手ではない。

だが、この部屋で一番決める位置にいる布だ。


男は名乗らなかった。

名乗らない者は、まず相手に名を言わせる。


「総督府の使者か」


男が言う。


「ガイウス・ユリウス・カエサル」


カエサルは答えた。

「テルムス閣下の命で来た」


男はそれを聞いても頷かない。

紙を見る。

昨日の到着記録。

王宮宛ての書簡。

それからようやく、カエサルの顔を見る。

顔を見る順番が最後の人間は、顔で仕事をしない。


「若いな」


まただ。

だが、この部屋の「若い」は港のものと違った。

値踏みではない。

事故の可能性を見る目だ。

若い使者は、余計なことを言う。

そういう種類の警戒だった。


「若さは書簡に書いていない」


カエサルが言った。


男の目が少しだけ細くなる。

不快ではない。

反応を見る細さだ。


「口は回るか」


「必要なだけは」


「では必要を言え」


早い。

ここは港より早い。

実務の部屋だからだ。

飾りがない代わりに、用件だけを剥ぐ。


カエサルは昨日の港を思い出す。

アンドロン。

一艘。

今夜。

二艘目。

三日半。

フィロン。

王宮待ち。

協力の形。

港が渋ったとは言うな。

言う順番が大事だった。

まず、危機。

次に、現実。

最後に、王宮の必要。


「レスボス攻略のため、船が足りない」


カエサルが言う。

「港を回った。動ける船はある。だが、船主は王宮の顔を待っている」


男は黙って聞く。

止めない。

つまり、この話は部屋の用件に合っている。


「徴発ではなく、協力の形が要る」


カエサルは続ける。

「そうでなければ、動く船も遅くなる」


「脅しているのか」


男が言う。


「現実を言っている」


カエサルが答えた。

「脅しなら、港はもう少し派手に言う」


その返しに、部屋の空気がほんのわずか動いた。

下役の一人が筆を止める。

年配の男だけは止めない。

止めない人間の方が、むしろ聞いている。


「どこまで押さえた」


男が言う。


「一艘は今夜に縄を解ける」


「数が足りん」


「だから来た」


「他は」


「一人は王宮待ち。二人はメナンドロス経由で今日にも当たれる」


メナンドロス。

その名を出した瞬間、男の目が一度だけ止まる。

知っている。

嫌っているかもしれない。

だが、知らない名ではない。

そこが重要だった。


「港の顔を借りたか」


男が言った。


「港の現実を見た」


カエサルが答える。

「借りたのは時間だ」


それは少しだけ、言いすぎたかもしれない。

だが、引くには遅かった。

若い。

そう言われる顔なら、時々は若い言葉で押すしかない。


男は指で机を一度叩いた。

軽い音。

軽いが、部屋の決裁音の一種だった。


「君は何を求める」


核心が来る。

ここで「船を」とだけ言えば弱い。

船は結果だ。

必要なのは、王宮の顔。

港を動かす名分。

それを言葉にしなければならない。


「王の名を借りたい」


カエサルは言った。

「出せと言うためではなく、出した方が得だと示すために」


部屋が少し静かになる。

静かになる。

その静けさは悪くない。

完全な拒絶の時は、もっとすぐ言葉が返る。


男は言う。


「王の名は軽くない」


「知っている」


「若い使者に振らせるには、なおさらだ」


「だから、ここに来た」


カエサルは答えた。

「勝手に振らないために」


年配の男はようやく椅子にもたれた。

そこまでで、たぶん一つは越えた。

軽い失点はある。

だが、用件の外へは滑っていない。


「外へ出ろ」


男が言う。


追い出しではない。

少なくとも声が違う。

外へ出ろ。

つまり、待てだ。

待てと言われた者は、まだ部屋の中にいる。


「呼ぶまでだ」


「承知した」


カエサルは答えた。


ティロと一緒に下がる。

石段のところにルフスがいた。

顔は動かない。

だが、見た瞬間に少しだけ肩の力が抜ける。

生きて出てきた確認だ。


「どうだ」


ルフスが言う。


「追い返されてはいない」


カエサルが答えた。


ティロが補う。


「悪くない」


悪くない。

それは希望に見える。

だが、希望はまだ紙の中だ。

ここから先、どんな形で返ってくるかは別だ。


中庭で待つ。

待ちながら、人の出入りを見る。

木箱。

蝋板。

役人。

使い。

実務の場所は、待っている間にも多くを喋る。

誰が急いでいるか。

誰が止められているか。

誰が顔で通るか。

それを見るだけでも、次の押し方が少し変わる。


やがて、若い下役が来た。


「入れ」


短い。

だが、短いほどいい時もある。

余計な前置きがない。

前へ進む時の声だ。


再び部屋へ入る。

さっきの年配の男の前には、別の紙が置かれていた。

白い。

新しい。

そして、端に王宮の印がある。

大きくはない。

だが、本物だ。


男が言う。


「王の名そのものは貸せん」


当然だ。

むしろ、そこから始まる方が自然だ。


「だが、船舶調達のための協力要請は出せる」


協力。

その言葉だ。

港も王宮も、今はそれを必要としている。

力で奪う形ではなく、応じた形。

面子が通る言葉。


「宛先は」


カエサルが訊く。


「港役所。主要船主。必要なら顔役にも見せろ」


顔役にも。

つまり、メナンドロスもその範囲だ。

港の現実を、王宮の側も否定はしていない。


「一つだけだ」


男が続ける。

「王の名で命じる文ではない。勧告だ」


そこは分かっていた。

王が自分で命じれば早い。

だが、それではあとが荒れる。

王宮は今、船だけでなく空気も壊したくない。


「十分だ」


カエサルが言った。


男の目が少しだけ動く。

十分。

若い使者にしては、欲張らない返答だったからだろう。


「本当にそう思っている顔か」


男が言う。


「足りない」


カエサルは答えた。

「だが、ゼロよりずっといい」


その返しに、下役の一人がわずかに顔を伏せた。

笑いを隠したのかもしれない。

年配の男は笑わない。

だが、不機嫌でもなかった。


書面が渡される。

薄い。

薄いが、昨日よりずっと重い。

王そのものではない。

だが、王宮の手が動いた証だ。

港を回るには十分な重さになる。


男が最後に言う。


「若いユリウス」


「何だ」


「港の顔を使うなとは言わん」


その言い方は意外だった。

禁じると思っていた。

だが違った。


「ただし、王宮より先に大きな顔をさせるな」


そこだ。

港は必要。

だが、王宮の前に出しすぎるな。

この国の序列を壊すな。

その線を越えれば、せっかくの紙も毒になる。


「承知した」


カエサルは答えた。


部屋を出る。

今度は、追い返される足ではない。

紙を持った足だ。

紙が一枚増えただけ。

だが、その一枚で人の態度は変わる。

少なくとも、港では。


中庭の光が昨日より少しだけ明るく見えた。

本当に明るいわけではない。

ただ、手に持つ物が違う時、人は同じ光を違うものとして見る。


ルフスが紙を見る。


「取ったか」


「借りた」


カエサルが言う。

「王の顔を、少しだけ」


ティロの目は、もう次を計算している。

港役所。

アンドロン。

フィロン。

メナンドロス。

どこから見せるか。

誰に何の順で見せるか。

紙は持っただけでは効かない。

誰の前で開くかで、生きも死にもする。


カエサルは思う。

二十歳。

若い。

今日もそう言われた。

だが、若さのままで王宮の一室から紙を引き出した。

それは事実だった。


「港へ戻る」


カエサルが言う。


海は見えない。

だが、もう匂う。

今度は昨日より少しだけ、こちらの匂いも混じっている気がした。

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