霧を裂く道
ジョルテの叫び声が霧の奥から飛んだ。
「セリスィン!」
追手の視線が、そちらへ吸われる。
――馬鹿か。
そう思った瞬間、セリスィンはその“馬鹿さ”が作った隙を掴んだ。
足元へ潜り、脛を払う。倒れた男の肩へ踵を落とし、動きを止める。殺さない。止めるだけ。止めて――抜ける。
「行くぞ!」
セリスィンは霧を裂いて走った。肩甲骨の奥が熱く脈打つ。さっきの棒の一撃が、確実に効いている。それでも止まらない。
ジョルテの姿が見える。
倒木の影から離れた場所で、彼女はわざと大きく動いていた。追手に見せるように。小刀を振るい、踏み込み、そして――逃げる。追わせる。
追手が二人、ジョルテへ向かっていた。
セリスィンは間合いに入る直前、地面の石を蹴り上げた。小石が飛び、男の顔へ当たる。
「ぐっ!」
男が反射で目を閉じる。その一瞬。
セリスィンは男の腰に体当たりし、倒す。もう一人が棒を振り下ろす。セリスィンは半歩ずらして外し、棒の柄を掴んで引く。
引いた先に、ジョルテがいる。
ジョルテは躊躇なく小刀で男の手の甲を裂いた。浅い。だが、武器を落とすには十分だ。
「っ……!」
男が棒を放す。セリスィンはその棒を受け取り、柄尻で男の膝裏を叩いた。崩れる。
「走れ!」
セリスィンがジョルテの背を押す。
「今度こそ、前に――!」
ジョルテは言いかけ、唇を噛んで頷いた。悔しさが顔に出ている。それでも状況は理解している。
二人は林を抜けた。
霧が薄くなり、代わりに空が白くなる。朝だ。人が動き出す時間だ。だからこそ、追手も焦る。
背後で笛が鳴った。短く、鋭い合図。
セリスィンは振り返らない。振り返ったら、足が止まる。
「こっちだ!」
セリスィンは畑の畦を横切り、低い石垣の切れ目へ飛び込んだ。そこで一度だけ足を止め、周囲を見回す。
街外れへ続く道。小さな果樹園。水路。――そして、橋。
朝霧の向こうに、古い石橋が見えた。狭い。欄干は低い。川幅も狭い。人通りは少ない。
(あそこまで行けば、一度息ができる)
そう思った瞬間、ジョルテが呻くように言った。
「……足が」
踵の傷が限界だ。速度が落ちる。追手は数で来る。時間がない。
セリスィンは一瞬だけ迷い――ジョルテの腕を肩に回した。
「掴まれ」
「……担ぐ気か」
「今は黙れ」
ジョルテは反発しながらも、セリスィンの肩に体重を預けた。華奢だ。鎧に隠れていた“女の体”の軽さが、皮肉なほどはっきり分かる。
セリスィンは歯を食いしばり、走った。
肩が痛む。だが、痛みよりも、背後の足音の方が怖い。
「止まれ!」
「そいつを置け!」
男の声が飛ぶ。棒が風を切る音がする。
セリスィンは石垣の角で身を捻り、棒の一撃を空振りさせた。振り返りざまに土を蹴り上げ、追手の視界を砂で汚す。
追手が呻く。
その隙に、二人は橋へ飛び込んだ。
古い石橋の上。川音が近い。
セリスィンは橋の真ん中まで来て、ようやくジョルテを降ろした。ジョルテは欄干に手をつき、肩で息をする。
「……ここだ」
ジョルテが掠れた声で言った。
「会う約束の場所は……」
「今は見るな」
セリスィンは言った。
「まず、息を整えろ。追手は――」
言いかけた瞬間、橋のたもとで草が揺れた。
人影が一つ。
旅人のような外套。だが、目が違う。逃げる者を見る目ではない。獲物の“値”を測る目だ。
「ジョルテ」
男が呼んだ。
ジョルテの身体が硬直する。
「来たのか」
男は薄く笑った。
「……よく来た。約束通りだ」
セリスィンは男の腰を見た。革紐。小さな金具。見覚えのある意匠――あの追手の一人が身につけていた留め具と、同じ系統だ。
(繋がってる)
男は一歩、橋へ踏み込んだ。
「お前の弟のこと、聞きたいんだろ?」
ジョルテが前に出ようとする。その腕を、セリスィンが掴んで止めた。
「待て」
「……離せ」
「話を聞け。今ここで詰め寄るな」
ジョルテの瞳が燃える。けれど足が震えている。怒りと恐怖と焦りが、全部混ざっている。
男は笑みを崩さず、言った。
「安心しろ。すぐ教えてやる」
そして、橋の向こう――川沿いの道へ視線を投げる。
「ただし、その前に」
朝霧の向こうで、また足音が増えた。
複数。
追手が――橋へ集まり始めている。
セリスィンは、ジョルテの肩を押して欄干から離させた。
「……橋の上で挟まれる」
ジョルテが息を呑む。
男は穏やかに言った。
「選べ。大人しく戻るか」
一拍。
「――弟の居場所を、ここで捨てるか」
橋の上の空気が、刃物みたいに張り詰めた。
セリスィンは拳を握る。
次に来るのは、言葉じゃない。
この橋の上で、何かが決まる。




