倒木の牙
足音が、近い。
湿った土を踏む音。枝を払う音。低い息遣い。霧の薄い林の中で、追う側は声を抑えている――慣れている。
倒木の影で、ジョルテが膝を折ったまま息を整えている。外套の下で小刀を握る指が白い。
セリスィンは土の感触を確かめた。根がえぐれた窪みは深い。片足を落とせば立て直すのが難しい。ここなら数で押されても“並ばせない”戦いができる。
(薄くする)
それだけを考える。
セリスィンは倒木の反対側へ回り、わざと草を踏んだ。小さく、しかし確実に音を立てる。
すぐに声が飛んだ。
「いたぞ!」
男が二人、霧の中から現れる。棒を持ったのが先、短い刃が後ろ。距離の詰め方がいやらしい。前で受けて、後ろで刺す。
セリスィンは走らない。逃げない。逆に、半歩だけ前へ出た。
「こっちだ」
自分の声が驚くほど冷たい。
「小僧か。さっきの橋の――!」
棒の男が踏み込んでくる。上から叩き潰す軌道。
セリスィンは受けない。横へ滑り、男の手首を叩く代わりに――足元を蹴った。
根のえぐれた窪みに、男の踵が落ちる。
「ぐっ!」
体勢が崩れた瞬間、セリスィンは棒の柄を掴み、引いた。男の肩が前へ落ち、膝が土にめり込む。
すぐ後ろの短刃が動く。
狙いは首ではない。脇腹だ。刺しにくる。
セリスィンは身体を捻り、刃を外す。刃先が外套をかすめ、布が裂けた。風が冷たい。
「ちょこまかと!」
短刃が二度目を出す前に、セリスィンは倒木へ背を当てた。そこから一歩も下がらない。狭い場所へ誘う。
短刃が踏み込む。足がぬかるみに沈む。
セリスィンはその瞬間だけ、腕を伸ばした。
手首ではない。肘の内側。そこを叩く。
刃が落ちる。
金属音が土に吸われ、短刃の男が顔色を変える。
「……っ!」
セリスィンは落ちた刃を拾わない。拾えば隙ができる。代わりに、短刃の男の胸を肩で押し、倒木の根元へ叩きつけた。息が詰まる音。
棒の男が立ち上がろうとする。
セリスィンは棒を奪ったまま、柄尻で男の鎖骨を打った。骨が鳴るほどは打たない。だが腕が上がらない程度には入れる。
「ぐぁ……!」
二人が戦意を失った、その瞬間だった。
奥から、別の足音が増えた。三、四――。
(来るのが早い)
セリスィンは棒を捨て、倒木の影へ戻ろうとする。
「ジョルテ!」
合図を出した。
――だが、出てきたのは“逃げるためのジョルテ”ではなかった。
ジョルテが影から跳び出し、倒れている短刃の男の腕に小刀を突きつけたのだ。
「動けば切る」
声が低い。冷える声だ。
「……おい、何してる」
セリスィンが言うと、ジョルテは振り返らない。
「こいつらを放したら、また来る」
「来る。だから今逃げるんだ」
「逃げ続けて、何になる」
ジョルテの言葉が鋭い。
そのとき、霧の向こうから声がした。
「そこだ! 囲め!」
複数。さっきより近い。もう“探して”いない。位置が割れている。
セリスィンはジョルテの肩を掴み、強引に引いた。
「来い!」
「離せ!」
「死ぬぞ!」
ジョルテの足がもつれかける。踵の傷が限界だ。それでも彼女は歯を食いしばって踏ん張った。
その一瞬の遅れが、最悪を呼ぶ。
霧から飛び出した男が一人、ジョルテの背へ棒を振り下ろした。
セリスィンは反射で身体を入れた。
鈍い衝撃が肩甲骨に叩き込まれる。視界が白くなる。
「っ……!」
歯を食いしばり、セリスィンは男の膝へ蹴りを入れた。男が崩れる。だが次が来る。数が多い。
「ジョルテ、走れ!」
「貴様が――!」
「いいから!」
セリスィンはジョルテを押し出し、自分は追手の正面へ立った。時間を稼ぐために。
棒が二本、同時に来る。セリスィンは一歩下がってかわし、一本を掴んで引く。引いた腕の肘へ、もう一本が落ちる。痺れる。だが倒れない。
そのとき、追手の一人の腰に、見慣れたものがちらりと見えた。
革紐に下がる、小さな金具――剣闘士の寮で見たことのある留め具と同じ意匠。
(……こいつら、ただの雇われじゃない)
剣闘士の周辺の人間だ。運営側か、仲介の筋か。
セリスィンは背中を反らして棒を避け、相手の肘を叩き、棒を落とさせた。だが数が減らない。包囲が固くなる。
「小僧、邪魔をするな」
男が低い声で言う。
「女だけ寄こせ。そうすりゃ――」
言い終わる前に、セリスィンは男の喉元へ頭突きを入れた。骨の音。男がむせる。
「寄こさない」
セリスィンは言った。
その瞬間、遠くで笛が鳴った。短く鋭い合図――橋の上で聞いた音と同じだ。
追手の動きが揃う。
そして、奥から別の影が現れた。軽い足取り。無駄がない。さっき橋の端にいた“戦える男”だ。
セリスィンの呼吸が一段重くなる。
(来たか)
男は笑いもしない。ただ、淡々と距離を詰めてくる。
「終わりだ」
男が言った。
セリスィンは肩の痛みを無視して構えた。素手しかない。だが、素手なら――。
そのとき。
林の奥で、ジョルテの声がした。
「セリスィン!」
振り向くと、ジョルテが遠くからこちらを呼んでいる。逃げたのではない。離れた場所で、追手の視線を引いている。
――馬鹿か。
だが同時に、道が開いた。
追手のうち二人がジョルテの方へ向きを変える。
セリスィンはその隙に、残っている男の足元へ飛び込んだ。膝を折り、脛を払う。倒れたところへ踵を落とす。動きを止めるだけ。殺さない。
「行くぞ!」
セリスィンは霧の中を走り、ジョルテの方へ向かった。
合流できるか。
できなければ――今度こそ、本当に終わる。




