石橋の待ち人
川へ降りる道は、獣道みたいに細かった。
草が濡れていて滑る。土が崩れやすい。足音が立つ。セリスィンは歩幅を小さくし、ジョルテの手首を引いて速度を落とした。
「……遅い」
ジョルテが苛立ちを隠さず言う。
「落ちたら終わりだ」
セリスィンは短く返す。上から見られたら見つかる。川沿いを這うように進むしかない。
木立が途切れた先に、橋が見えた。
古い石橋。大きな街道橋と違って幅は狭く、渡る者も少ない。だが橋脚はしっかりしていて、下に薄い影ができる。
セリスィンは橋の下、石積みの陰にジョルテを押し込んだ。
「待て」
「何をする」
「見る」
息を殺して、橋の上を覗く。
――いた。
橋の真ん中寄り、欄干にもたれている影がひとつ。外套のフードを深く被り、川を見下ろしている。旅人のようにも見えるが、立ち方が妙に落ち着いている。
(あれが“会う約束の相手”か?)
セリスィンが視線を走らせると、橋のたもとにも影がある。二つ。いや、三つ。草陰に紛れるように、動かずに立っている。
セリスィンの喉が冷えた。
(……張ってる。最初から)
ジョルテが耳元で囁く。
「いるのか」
「ああ」
「……あれだ」
ジョルテの声がわずかに震えた。怒りではない。確認したい、という必死さだ。
セリスィンはジョルテの肩を押さえた。
「まだ出るな」
「弟の名を言ったんだ」
「だからだ。弟の名を言えるなら、お前のことも全部知ってる」
ジョルテの息が荒くなる。外套の下で小刀を握る手に力が入った。
そのとき、橋の上の影が――欄干から身を起こし、周囲を見回した。
そして、まるで“合図”のように口笛を吹いた。
短く、鋭い音。
次の瞬間、橋のたもとの草陰が動く。影が増える。左右から、川沿いから、畑側から。三人、四人、五人――。
ジョルテが呻く。
「……罠だ」
「分かってる」
セリスィンは即座に判断した。ここで飛び出せば終わる。だが、戻れば背後にもいる。追手は二口以上。すでに包囲に入っている。
(抜けるなら――一番薄いところを突く)
セリスィンは川面を見た。流れは速くない。だが石が多い。足を取られる。落ちれば終わりではないが、戦いながらは無理だ。
橋脚の陰から出るしかない。上へ――橋の下から階段状に上がれる崩れた石積みがある。
セリスィンはジョルテへ言った。
「俺が合図したら走れ。橋の“上”に出る」
「橋の上は敵だらけだ!」
「上に出るしかない。下は袋小路になる」
ジョルテが一瞬だけ迷い――頷いた。
セリスィンは石を拾った。手のひらに収まる大きさ。重さを確かめる。次に、折れた枝を一本。短い棍棒みたいに握れる。
そして、息を吸って吐いた。
「……今だ」
二人は影から飛び出した。
「いたぞ!」
叫び声が上がる。
橋の下の斜面を駆け上がる。石が崩れ、砂が落ちる。ジョルテが足を滑らせかけるのを、セリスィンが腕を引いて支えた。
橋の縁に手がかかった瞬間、上から男の影が降ってくる。
棒だ。
セリスィンは枝で受けた。乾いた音。衝撃が腕に走る。
「小僧が二人? いや――」
男がセリスィンの後ろを見て、ニヤついた。
「いたぞ。鎧の女だ」
ジョルテの肩が跳ねる。
(やっぱり、女だと知ってる)
セリスィンは男の膝へ石を投げた。狙いは当たった。男が一瞬崩れる。
「行け!」
セリスィンがジョルテを押し出す。ジョルテは外套を翻しながら橋の上へ出た。
だが、橋の上には“待っていた”影がいる。
フードの人物が、ゆっくり顔を上げた。
「……来たな、ジョルテ」
男の声だった。低い声。落ち着いた声。
ジョルテが凍りつく。
「お前……」
「約束通り来た。偉い偉い」
男は笑い、欄干から手を叩いた。
橋の両端から、男たちが詰めてくる。棒、短剣、縄。捕まえる道具だ。
「弟はどこだ!」
ジョルテが叫ぶ。
フードの男は肩をすくめた。
「弟? ああ……“居た”さ」
その言い方が、最悪だった。
ジョルテが前に出ようとする。セリスィンは即座に腕を掴んで止めた。
「行くな」
「離せ!」
「狙いはお前だ。頭に血が上ったら負ける」
ジョルテの瞳が、怒りで濡れる。
フードの男が、楽しそうに言った。
「おい、乱暴はするなよ。商品に傷をつけたら、こっちが困る」
男たちが笑う。
「だが――逃げた罰は必要だ」
男が指を鳴らす。
左右の男たちが一気に距離を詰めた。
セリスィンは枝を投げ捨て、目の前の男の棒を掴みに行った。正面からは殴られる。だから横。手首。肘。関節の角度。
棒を奪う。
そのまま柄で顎を打つ。男が倒れる。倒れた棒を踏み、次の男の脛を払う。
ジョルテが小刀で一閃した。浅いが、確実に腕を裂く。男が呻いて距離を取る。
「……剣闘士め」
フードの男が舌打ちした。
「そっちのガキは誰だ。用心棒か?」
セリスィンは答えない。
返答は無駄だ。今は“抜ける”だけ。
セリスィンはジョルテを背に庇い、棒を構えた。
「橋の端へ走れ。俺が道を作る」
「貴様は!」
「いいから行け!」
セリスィンが踏み込んだ。棒で男の手首を叩き、次に喉元へ突く。致命は避ける。だが躊躇はしない。
男が倒れ、その隙にジョルテが走る。
――だが、橋の端に“もう一人”いた。
さっきから見えなかった男だ。背丈は普通。武器は短い刃。動きが軽い。
(こいつが、もう一組の“戦える奴”か)
男はジョルテの進路にぴたりと立ち、静かに刃を構えた。
「お嬢ちゃん。止まれ」
ジョルテが足を止める。
セリスィンも止まった。
フードの男が笑う。
「そうだ。それでいい。大人しく戻れ、ジョルテ」
橋の上の空気が、一段冷えた。
セリスィンは棒を握り直す。
ここで無理に突っ込めば、ジョルテが切られる。
待てば、囲まれて終わる。
――選択肢は二つしかない。
セリスィンは、低く息を吐いた。
「……ジョルテ。合図したら伏せろ」
「何をする気だ」
「橋ごと、壊す」
ジョルテが目を見開く。
フードの男が眉をひそめた。
「何を言って――」
その瞬間、セリスィンは棒を捨て、橋の欄干へ飛びついた。石の隙間、古い継ぎ目――劣化した部分に狙いを定める。
路上育ちの勘が告げていた。
(この橋は“古い”。壊せる)
だが壊れるのは橋か、自分たちの運命か。
次の一手で、全部が決まる。




