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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第3章 女騎士”ジョルテ”
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街道の橋

夜明け前の霧は、畑の縁でほどけ始めていた。


薄い光が地面を洗い、草先の露が銀色に光る。鳥の声が増える。遠くで車輪が軋む音――街道が目を覚まし始めている。


セリスィンとジョルテは畑の端を沿って走り、低い石垣の陰でいったん息を整えた。


「……ここから先は、人が増える」


セリスィンが言うと、ジョルテが鼻で笑った。


「なら、私は見つかりにくいだろう。女の旅人など珍しくない」


「女の旅人じゃないだろ、お前は」


セリスィンはジョルテの兜と肩当てを見た。夜の闇ならともかく、朝の光では金具が目立つ。剣闘士の装備は“職業”そのものだ。


「……なら、どうする」


「脱げ」


セリスィンが言うと、ジョルテの目が鋭くなる。


「冗談を言っている場合か」


「冗談じゃない。鎧は今のところお前を守ってない。お前を縛ってる」


ジョルテが言い返そうとした瞬間、街道から笑い声が聞こえた。行商人の一団だ。荷車の横を歩く女が、子どもを叱っている。犬が走り回る。


――人の目。


ジョルテは歯を噛んだ。


「……ここで脱げと言うのか」


「ここじゃない」


セリスィンは石垣の陰を指差す。


「裏。見えないところで外す。布で隠す。装備は捨てない。あとで必要になる」


ジョルテは迷い、だが頷いた。


石垣の裏に回り、ジョルテは手早く肩当てと腕当てを外し始めた。動きが慣れている。着るより、脱ぐ方が慣れているように見えた。


セリスィンは自分の外套を脱ぎ、彼女へ投げた。


「それを羽織れ。頭も隠せ」


「……貴様は」


「俺はこのままでも、“どこにでもいる若造”だ」


セリスィンはそう言いながら、ジョルテの外した装具を麻袋に包み、石垣の割れ目に押し込んだ。目印に小石を三つ、並べる。


「忘れるなよ」


「忘れない」


その声は短いが、固い。


ふたりは街道へ出た。今度は走らない。歩調を合わせ、旅人のふりをして、荷車の後ろに紛れる。


橋は近い。街外れの大きな石橋――アッピア街道に繋がる要の場所だ。


やがて視界の先に、橋のアーチが見えた。霧の向こうに黒く立ち、川面を跨いでいる。朝の人の流れが橋へ吸い込まれていく。商人、農夫、使い走り、兵らしき男――。


そして、橋のたもとに「動き」があった。


松明こそないが、立ち方が同じだ。辺りを見回し、通る者の顔を一人ずつ確かめている。棒を持った男。腰に刃物。犬は――いない。だが油断はできない。


(……張ってる)


セリスィンは荷車の陰で足を止めた。


「橋にいる」


ジョルテが外套の下で息を詰めるのが分かる。


「……なら、戻る」


「戻ったら囲まれる」


セリスィンは周囲を見た。橋の端には簡単な検問のような形ができている。兵ではない。だが“兵の真似”をする連中だ。通行を止める権限はないはずなのに、誰も強く出ない。揉め事を嫌うからだ。


そのとき、橋のたもとの近くで、怒鳴り声が上がった。


「おい! 止まれ!」 「何の用だよ、俺は納税してるぞ!」


荷車の男が反発し、棒を持った男が肩を押した。揉み合いになり、周囲の人が避ける。


セリスィンはそこに“隙”を見た。


「今だ」


「何が――」


「揉めてる間に混ざる。視線が散る」


セリスィンはジョルテの袖を引き、荷車の列に合流した。荷車の横、桶を抱えた女の後ろ、背の高い男の影――視線の死角を縫うように歩く。


橋のたもとが近づく。棒の男がこちらを向く。


セリスィンは呼吸を整え、顔を少しだけ汚れた外套の襟で隠す。ジョルテは俯く。女の目元だけが、外套の隙間から光っている。


「おい、そっち――」


棒の男が声をかけかけた、その瞬間。


「ほら、道を開けろ!」


別の方向から荷車が強引に割り込んだ。怒鳴り声が重なり、人の流れが押し合いになる。


棒の男の視線がそちらへ逸れた。


セリスィンはジョルテを半歩前へ押し出し、橋の影へ滑り込ませた。


――渡れる。


そう思った。


だが、橋の真ん中に差し掛かったところで、ジョルテの足が一瞬、止まった。


息が詰まる。


(何を――)


セリスィンが横目で見ると、ジョルテの視線は橋の上流側、川沿いの小道を見ていた。そこに、ぼろをまとった少年が座っている。朝の冷気の中で膝を抱え、薄い布にくるまっていた。


ジョルテの瞳が、わずかに揺れる。


「……どうした」


セリスィンが囁くと、ジョルテは唇を噛み、絞り出すように言った。


「……似ている」


「誰に」


「弟に」


その一言で、セリスィンは理解した。ジョルテの“目的地”は橋の向こうだけじゃない。橋そのものが――何かの境目になっている。


「後で見る。今は渡る」


セリスィンが言うと、ジョルテは苦しそうに頷き、歩き出した。


橋を渡り切った瞬間、二人は人の流れに紛れて路地へ入った。石造りの倉の陰。そこでようやく、息を吐く。


「……今のは、危なかった」


セリスィンが言う。


「危なかったのは、いつもだ」


ジョルテが刺すように返す。


だが、その声はさっきより少し震えていた。


セリスィンは低い声で言った。


「さっきの話の続き。金が届いてなかったって言ったな」


ジョルテの肩が強張る。


「……届いていた。最初は」


ジョルテは目を逸らしたまま言った。


「最初の数回だけ。私は勝った。賞金も出た。……『弟に渡した』と、誰かが言った」


「誰が」


「仲介の男だ。『安全に届ける』と言った。私は鎧を着て、名を隠して、勝って金を稼いだ。……だから私は信じた」


ジョルテは自嘲気味に息を吐いた。


「馬鹿だった」


「どうして分かった」


ジョルテは外套の奥から、小さな布切れを取り出した。汚れている。折り目が何重にもついている。


「これが届いた」


セリスィンが受け取る。字は粗いが、読める。


『金は来ていない。母は倒れた。薬がない。俺は働く。でも……姉ちゃん、ごめん』


短い文だった。最後の文字が滲んでいる。涙か、雨か、それは分からない。


セリスィンは喉の奥が少し苦くなるのを感じた。


「それで、お前は――」


「探した」


ジョルテが言う。


「仲介の男を。金の行方を。弟の居場所を。……だが、私が動けば動くほど、誰かが嫌がった」


彼女は外套の襟を握り、吐き捨てるように言った。


「だから追われている。最初から、私の正体を知っていた連中に」


セリスィンは橋の方角を見た。あの棒の男たち。犬。松明。統制の取れた動き。素人の盗賊ではない。


(誰かが雇った)


ジョルテは声を落とし、続ける。


「橋の向こうに……会う約束がある。弟のことを知っていると、言った」


「誰と」


「分からない」


ジョルテの目が鋭くなる。


「名前も顔も知らない。だが、私の弟の名を言った。……だから行く」


セリスィンは一瞬、嫌な予感を噛んだ。


「罠の可能性は?」


「分かっている」


「分かっていて行くのか」


「行くしかない」


その言葉には、剣闘士の覚悟とは別の種類の硬さがあった。生きるためじゃない。誰かを生かすための硬さだ。


セリスィンは小さく息を吐く。


「……場所は」


ジョルテが橋の上流側を指した。


「街外れの古い石橋。小さい橋だ。人目が少ない」


セリスィンは頷いた。


それは、追手が「橋」と言ったときに想定していた“大きな橋”ではない。だが、逆に、罠を張るならそっちの方が都合がいい。


ジョルテが言う。


「ここまででいい。貴様は戻れ」


「戻らない」


セリスィンは即答した。


ジョルテが睨む。


「なぜだ。ここから先は私の問題だ」


「俺の問題でもある」


「どうして」


セリスィンは答えに詰まり、結局、短く言った。


「……見たくない。お前が捕まるところを」


ジョルテの目が揺れた。怒りではない。困惑でもない。ほんの一瞬だけ、何かが緩む。


だが、すぐに固くなる。


「感傷で動くな。剣闘士だろう」


「剣闘士だから動くんだよ」


セリスィンは言って、外套の襟を正した。


「行くぞ。古い橋まで。そこで終わりにする」


ジョルテは一拍遅れて頷いた。


「……勝手にしろ」


そう言って歩き出す背中は、やっぱり騎士みたいに真っ直ぐだった。


だが、路地の角を曲がった先で――


遠くに、見覚えのある歩き方があった。


棒を持った男たちとは違う。もっと静かで、もっと確実に近づく歩き方。


セリスィンは、足を止めた。


(……もう一組、いる)


追手は一つではない。


そして今度の相手は、たぶん――戦える人間だ。

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