橋の影
橋の上で松明の光が増えた。
「この辺りだ! 川沿いを洗え!」 「橋の下もだ。――犬を入れろ!」
犬、という言葉にセリスィンの胃がきゅっと縮む。
橋脚の窪みの奥で、ジョルテが兜を握りしめた。さっきまでの告白の余韻は消え、目が獲物の色に戻っている。
「ジョルテ」
セリスィンは息だけで呼ぶ。
「今は動くな。犬が来たら、川に入る」
「……寒さで動けなくなる」
「なら死ぬよりマシだ」
ジョルテが小さく舌打ちした。だが反論はしない。
橋の上から、革が擦れる音が落ちてくる。犬の鼻息が近い。爪が石を叩く音が、窪みの入り口を探るみたいにうろついた。
セリスィンは身体を低くし、石積みの陰で息を止める。ジョルテの呼吸が早い。抑えろ、と言えば逆効果になる。だから何も言わない。
松明の光が橋脚の縁を舐め、窪みの入口が一瞬だけ白く照らされた。
――犬が吠えた。
セリスィンの背中が冷える。
「いたか!?」
「……違う。水の匂いだ。こっちじゃねえ」
男の声。犬は引かれ、足音が橋の上を遠ざかる。吠え声も薄れていく。
セリスィンはようやく息を吐いた。
ジョルテが小さな声で言う。
「……運が良かっただけだ」
「運も実力のうちだ」
「その言い方、嫌いだ」
セリスィンは答えず、外を覗いた。
霧が薄くなってきている。夜明けが近い。夜明けは人を増やす。人が増えれば、逃げ道が減る。
(ここにいても詰む)
橋を渡る? 正面は押さえられている。川沿いは犬が来る。なら――上でも下でもない場所。
セリスィンはジョルテの肩に触れ、合図した。
「行くぞ。橋は使わない」
「じゃあどうする」
「川を下る」
ジョルテが目を細める。
「泳ぐのか」
「泳がない。歩く」
「……意味が分からない」
「浅瀬がある。石が並んでる場所がある。そこを渡る」
セリスィンは言い切った。路上の勘だけではない。さっきまでの追跡で、川の音と流れの癖を見ていた。
ジョルテは一拍だけ迷い、頷いた。
窪みから滑るように這い出し、川縁へ。二人は霧に紛れて下流へ進んだ。足元はぬかるみ、湿った草が足首にまとわりつく。水の匂いが濃い。
やがて川幅が少しだけ広がり、流れが緩む場所に出た。水面の下に、丸い石が連なっている。普段は子どもが遊ぶような浅瀬だ。
「ここだ」
セリスィンが言うと、ジョルテが顔をしかめた。
「滑る」
「滑るな」
「無茶を言う」
それでもジョルテは石へ足を置いた。踵の傷が痛むはずなのに、歯を食いしばって一歩ずつ渡る。兜が揺れる。腕がぶれる。だが、落ちない。
そのとき――背後で犬が吠えた。
近い。見つかったわけではないが、匂いを拾い始めた。
「急げ」
セリスィンが言い、ジョルテの背へ手を添えて押す。ジョルテが苛立ったように振り返るが、今は文句を言う余裕がない。
二人が浅瀬を渡り切った瞬間、対岸の茂みの向こうで松明が揺れた。
「いたぞ! 川だ!」 「逃がすな!」
声が跳ね上がる。数は三、いや四。橋を押さえていた連中の一部が回り込んできたのだ。
セリスィンは迷わず、ジョルテの腕を掴んで走った。
「走るなって言っただろ!」
「今は例外だ!」
藪を割り、土を蹴り、林の陰へ飛び込む。背後で水音がする。追手も浅瀬に入った。犬の吠え声がさらに近づく。
ジョルテが息を切らしながら言う。
「……戦うか」
「まだだ」
「いつ戦う!」
「必要になった時だ!」
セリスィンは走りながら周囲を見た。畑。低い石垣。そこに――古い水路。人が一人通れるほどの溝が、畑の端を走っている。
「入れ!」
セリスィンはジョルテを先に押し込み、自分も滑り込む。二人は泥を這うようにして進んだ。上からは畑の草が覆い、霧と混じって視界が曖昧になる。
追手の足音が頭上を通り過ぎた。
「どこだ!」 「こっちに匂いが――いや、消えたぞ!」
犬がぐるぐる回るような足音。鼻息。だが水路の泥と草の匂いが、匂いを攪拌している。
セリスィンは手でジョルテに合図する。
止まれ。息をするな。
時間が伸びたように感じた。
やがて足音が遠ざかり、松明の光も薄れる。
「……見失ったか?」 「橋へ戻れ。女は必ず渡る。でかい橋だ。街道の――」
その言葉に、セリスィンは内心で舌打ちした。
(こっちの狙いは読まれてる)
追手は、ジョルテが“街道の橋”を目指すと踏んでいる。つまり――街外れの大きな橋。そこが最後の関門になる。
足音が完全に消える。
水路の中で、ジョルテが小さく息を吐いた。
「……貴様、慣れているな」
「生き延びるのに慣れてるだけだ」
セリスィンが言うと、ジョルテが硬い声で返す。
「私は、慣れたくて慣れたわけじゃない」
その言葉は刃より鋭かった。
セリスィンは何も言わず、水路の出口を探った。少し先に、崩れた石の隙間がある。そこから外へ出られる。
朝の光が少し強くなっている。鳥が鳴き、遠くで人の声も混じり始めた。
セリスィンはジョルテを見た。
「……橋へ行く」
ジョルテの目が揺れる。
「行けば、待っている」
「だから行く。待ってるなら、待ってる前提で動くしかない」
セリスィンは一拍置いて続けた。
「そこで、お前の話の続きを聞く。金が届いてなかったって言ったな。――それを取り戻すのか、弟を探すのか、どっちだ」
ジョルテは視線を逸らし、短く言った。
「……両方だ」
セリスィンは頷いた。
「なら、急ぐ。夜が明け切る前に」
二人は水路から這い出し、霧の残る畑の端を走った。
街外れの橋へ向かって。
追手が先に着くか、自分たちが先に抜けるか。
勝負は、そこからだった。




