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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第1章 無名の孤児
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青年の名は

「生きて。セリスィン、お願い――生きて」


焼ける匂いと、喉の奥を刺す煙。耳の奥で誰かの泣き声が反響する。


セリスィンは跳ね起きた。


背中に冷えた土の感触。建物と建物の隙間――市街から少し離れた、誰にも見つかりにくい路上の陰で、彼は息をしていた。


「……また、あの夢かよ」


舌打ちが乾いた空気に落ちる。


東から射す朝日が、カンパニアの町並みを淡く染めていた。ぶどう畑の向こうに草原が広がり、早くも市場へ向かう馬車が軋む音を立てる。老人たちが連れ立って歩き、政治の噂を、まるで天気の話みたいに語り合っている。


いつもと変わらない朝だ。


セリスィンも、いつもと変わらない動きで身体を起こした。周りには生ごみと食べかす。鼠が一匹、彼の足元をすり抜けていく。着ているのは、どこで拾ったかも覚えていない、擦り切れたチュニカと汚れた外套――それが彼の一張羅だった。


路地裏から表へ出る。朝のうちに動いておかないと、管理人や兵士に見つかって追い払われる。太陽はやけに眩しく、手の甲で影を作っても光が刺さってきた。


「……食い物でも探すか」


それだけ言って、歩き出す。


ここはカプア。紀元前60年、イタリア南部カンパニア地方の大きな町だ。アッピア街道が通り、ローマへも繋がっている。豊かな土と交易のおかげで、表向きは栄えている――だが、少し裏へ入れば、路上の子どもが息を潜めて眠っている。


この土地には、まだ傷が残っていた。


十三年前。剣闘士の訓練場から逃げ出した者たちが蜂起し、ローマを揺るがした。スパルタクス。名前だけは、酒場の噂話でも時折聞く。鎮圧されたはずの記憶が、町の空気にこびりついている。怒りや恐れが、理由もなく人を殴らせることがある。


……もっとも、セリスィンはまだ、その“理由”の全体像を知らない。


彼の一日は単純だった。川で身体と布をすすぎ、森や海辺、町外れを歩いて食べ物を探す。山菜や果実を見つけ、手製の釣り針で魚を取り、火を起こして食う。できるだけ家の畑には手を出さない。だが、どうしても腹が空けば、祈るように手を合わせて、食える分だけを持ち去る。


五年。そうやって生き延びてきた。


病で倒れかけたこともある。毒草で腹を壊し、目の前が暗くなった夜もあった。それでも、なぜか死ななかった。死ねないだけなのかもしれない。


今日も、野いちごを摘み、木の実を探し、プラムやオリーブの残りを拾った。日が傾けば、寝床に戻る――それが“生きる”という作業だった。


だが、ときどき胸の奥が妙に痛む。


このまま歳を取ったら、どうなる? 身体が動かなくなったら? 路上で痩せ細って、誰にも覚えられずに死ぬ。そんな未来が、ひどく現実的だった。


何のために生まれた?


幼い頃、母はよく言った。「男の子なんだから」と。歴史に名を残せとは言わない。でも、せめて――誰かに誇れる生き方をしてほしいと。あの声を思い出すたび、現実が黒く滲む。


今日も、ただの一日で終わるはずだった。


「おい、てめえ」


怒鳴り声に、足が止まる。


声のほうを見ると、少年が一人、数人の若者に囲まれていた。足元には潰れたプラムが転がっている。


「てめえ、俺様が誰だと知ってぶつかってきた?」


頭らしい男が、少年へ唾を飛ばす。少年は怯えて首を振った。


「……わざとじゃ、ない」


「なんだと」


男の蹴りが腹に入る。少年が咳き込み、取り巻きが笑った。


セリスィンは視線を逸らし、通り過ぎようとした。関わると面倒が増える。逃げるのが正しい。――そう思ったのに。


取り巻きの一人が気づき、肘で頭をつついた。


「おい、あいつ」


「んあ?」


頭の男が、セリスィンを見た。


セリスィンは目を合わせないまま歩幅を変える。だが背中へ声が刺さった。


「ちょっと待て。見ない顔だな。俺様ブオルティクの前で、礼もなく去る気か?」


取り巻きが半円を作って塞いでくる。


「俺は何も見てない」


「そうはいかねえ。お前は俺様に忠誠を――」


言い終わる前に、最初の拳が飛んだ。


セリスィンは身体をずらした。拳が空を切り、次の腕を掴まれる。肘の関節が逆に入る寸前で、男が悲鳴を上げて膝をついた。


「……やめておいた方がいい。怪我をする」


「するのはお前だ!」


二人目が突っ込んでくる。セリスィンは低く身を沈め、足を払う。土煙。倒れた背に膝を落とし、呼吸を奪うように短く打つ。


速い。無駄がない。まるで――誰かに仕込まれた動きだ。


三人、四人。襲いかかるたびに、倒れる者が増えた。最後に残ったブオルティクは、口を半開きにしたまま後ずさり、そして踵を返した。


「……覚えてろ!」


声は震えていた。


少年は呆然とセリスィンを見つめ、やがて小さく言った。


「……ありがとう」


「気にするな」


セリスィンは踵を返し、その場を離れた。面倒は嫌いだ。だが、巻き込まれたなら、長引かせない。穏便に済ませる――それが彼の癖だった。


それは、過去の出来事が彼に刻んだ癖でもある。


*


夕刻。


腹を満たす分だけの食糧を確保し、セリスィンは今夜の寝床を探した。路地裏でもいいが、最近は土の冷たさが骨に残る。草原の端、木の根元。風を避けられて、見つかりにくい場所を選ぶ。


仰向けになって息を吐くと、心地の良い風が頬を撫でた。


五年。よく生き延びた、と自分でも思う。


だが、その自覚の奥で、何かが摩耗している気がした。生きることで精一杯で、削れていることに気づけないまま、彼は一日一日をやり過ごしてきた。


眠りに落ちかけた、その瞬間――


遠くで、犬の遠吠えがした。


一匹ではない。何匹も。しかも収まらない。そこへ、聞き慣れない不気味な音――木が爆ぜる音が混じった。


面倒には関わらない。そう決めている。なのに、胸の奥がざわついた。好奇心が足を動かした。


近づくにつれ、火の匂いが濃くなる。


草原の端の民家が燃えていた。火の粉が夜気に舞い、犬たちが狂ったように吠えている。


そして――昼に助けた少年が、火の前で泣きながら立ち尽くしていた。


「どうした」


セリスィンが声をかけると、少年は顔を上げ、声にならない声で言った。


「……知らない間に、うちが燃え始めたんだ。中に、お母さんが……!」


火は家全体に回り、今にも梁が落ちそうだった。


「ここで待て」


セリスィンは近くの桶を掴み、水を頭からかぶる。息を止め、家の中へ飛び込んだ。


中は、まだ“動ける”程度には保っていた。だが煙が重い。喉が焼ける。木柱が軋み、いつ倒れてもおかしくない。


部屋を探し、倒れている女を見つける。息はある。


セリスィンは女を背負い、出口へ向かった。だが階段の手前で材木が落ち、道が塞がる。戻ろうにも、来た道は火が強くなっていた。


別の部屋――まだ火が薄いほうへ走る。窓があった。二階だ。自分一人なら飛べる。だが背の女は――。


視線を走らせ、縄を見つけた。藁を運ぶためのものだろう。女の身体に回し、結び、窓枠へ寄る。


「おい、少年! いるか!」


下から、少年が駆け寄ってきて見上げた。


「今から母さんを下ろす。受け取れ」


縄を家具に固定し、セリスィンは女を窓の外へ押し出す。手が滑らないよう指に力を込め、ゆっくり、ゆっくりと下ろす。縄が軽くなった――受け取ったのだ。


「……よし」


セリスィンは窓から飛び降りた。


「ありがとう、ありがとう……!」


少年が泣きながら抱きついてくる。セリスィンは肩をすくめ、頭を軽く撫でた。


母子を家から遠ざけ、火を見上げる。原因は火の不始末――そう考えるのが自然だ。だが、草むらに何かが落ちているのが見えた。


セリスィンは拾い上げる。


「……これは」


昼間、少年を囲んでいた連中が身につけていた飾りと、よく似ていた。

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