霧の下で
川霧は、音を吸う。
白い幕の向こうで松明が揺れるたび、世界が少しだけ明るくなり、また暗くなる。橋の輪郭がぼんやり浮かび、流れの音だけが絶えず耳の底を撫でていた。
セリスィンは腹ばいのまま、霧の中を数えた。
灯りは――四つ。人影はもっといる。橋の上、橋のたもと、川沿い。押さえているという言葉は本当だ。
(正面は無理だ)
セリスィンはジョルテの手首を軽く引き、息だけで合図する。
待つ。動くな。
ジョルテは頷く。さっきまでの反抗的な目は影を潜めていた。追われる側の勘が、状況のまずさを理解している。
しばらくして、松明の一つが遠ざかった。交代か、巡回か。足音が霧に溶け、代わりに犬の鼻息のような音がかすかに混じる。
(犬……)
セリスィンは舌の裏が乾くのを感じた。血や汗を嗅がれたら終わりだ。
そのとき、ジョルテが小さく身を強張らせた。
霧の中から、ぬっと黒い影が現れたのだ。男ではない。犬だ。鼻を地にこすりつけるように、こちらへ向かってくる。
セリスィンは瞬時に決めた。
(橋の下だ)
彼はジョルテの背へ手を添え、身を低くしたまま川縁へ滑る。石と草の境目、足跡が残りにくいところを選んで動く。ジョルテも黙ってついてくる。踵が痛むはずなのに、声ひとつ上げない。
橋脚の影に入った瞬間、世界の色が変わった。霧が少し薄くなり、代わりに湿った冷気がまとわりつく。
セリスィンは橋の下、石積みの窪みへジョルテを押し込むように導いた。ここなら松明の光が届きにくい。犬も上からは見えない。
息を殺す。
犬の足音が近づいて――橋の上で止まった。
「こっちか?」
「違う。川に流されたんじゃねえのか」
「橋の下、見とけ」
松明の光が橋脚の縁を舐める。犬が吠えた。セリスィンの心臓が嫌な跳ね方をする。
だが次の瞬間、犬は別の方へ引かれていった。鼻が捉えたものが、ここではなかったのか。あるいは霧と水に匂いが散ったのか。
「……ちっ。回れ。逃がすなよ」
声が遠ざかる。
セリスィンはようやく息を吐いた。指先が痛い。石を掴みすぎていた。
ジョルテは、窪みの奥で膝を抱えていた。布で頭を覆ったまま、兜を抱えるようにしている。逃亡者というより、鎧に守られてきた何かを必死に抱え込む子どもに見えた。
「……助かったな」
セリスィンが言うと、ジョルテは低く返す。
「助かったのは貴様の都合だろう。巻き込まれた」
いつもの刺だ。だが声が少し枯れている。
「そうかもな」
セリスィンは、腰の袋を探った。乾いた果実が二つ。訓練の後に隠しておいたものだ。ひとつを差し出す。
「食え。手が震えてる」
「……いらん」
「じゃあ落とす」
セリスィンは果実をジョルテの足元へ転がした。反射でジョルテが掴む。次の瞬間、悔しそうに顔をしかめた。
セリスィンは何も言わない。
少し沈黙が落ちた。川音だけが続く。
ジョルテが果実を噛み、ようやく口を開いた。
「……なぜ、まだいる」
「橋を越えるまで」
「それで終わりか」
「終わりだ」
ジョルテは鼻で笑う。
「剣闘士は、そんなに善人だったか」
セリスィンは答えず、代わりに問いを返した。
「お前、何から逃げてる」
ジョルテの肩がぴくりと動く。
「言う必要はない」
「じゃあ聞き方を変える」
セリスィンは静かに言った。
「……お前は、なんで剣闘士になった」
ジョルテの指が兜の縁を強く握った。金属がきしむ。拒むなら拒むでいい。セリスィンはそう思った――が、ジョルテはしばらく黙ったあと、ぽつりと言った。
「……話せば、笑うか」
「笑わない」
「……誓えるか」
「誓う」
ジョルテは一度、目を閉じた。霧の冷たさとは違う、別の何かで身を固くしているようだった。
「私は――貧しい家の生まれだ」
声が少しだけ、柔らかくなる。
「父は早くにいなくなった。母は働きすぎて体を壊した。家には金がなかった。何かを売っても、次の日には腹が空く」
セリスィンは黙って聞いた。
「女が金を稼ぐ術は、限られている」
ジョルテは言葉を選ぶように続ける。
「糸を紡ぐ。人の家で働く。笑って頭を下げる。……あるいは、身体を売る」
最後の言葉を吐いたとき、ジョルテの目が硬くなる。恥ではない。怒りに近い。
「私は、男勝りだと言われた」
彼女は少しだけ、口元を歪めた。
「弟と喧嘩して泣かせるほど強くて、外の子どもと殴り合って帰ってくる。母に叩かれても、謝るのは“悪いことをしたから”じゃなく、“母を悲しませたから”だった」
その言い方が、妙にセリスィンの胸に引っかかった。誇りと後悔が同じところにある。
「弟がいた」
ジョルテの声が、そこで少し低くなる。
「小さくて、病がちで、腹が減るとすぐ倒れるような弟だ。あいつは私みたいに喧嘩もできない。盗みにも向かない。……私が守らなければ、確実に死ぬ」
ジョルテは兜を抱え、目を伏せた。
「だから私は決めた。弟のためなら、私の誇りなど何でもいいと」
その言葉は美しく、同時に残酷だった。自分の価値を自分で切り売りする決意だ。
「剣闘士は、金になる」
ジョルテは淡々と言う。
「勝てば賞金が出る。運が良ければ贔屓がつく。食い扶持だけは、確実に手に入る。……弟を飢えさせずに済む」
「それで、自分を売ったのか」
「そうだ」
短い肯定。そこに迷いはない。
「ただし――女の剣闘士は、見世物として“別枠”に押し込められる」
ジョルテの声に、怒りが混じる。
「半端に笑われ、半端に欲の目で見られる。戦いが上手くても、“女にしては”で終わる。金も、扱いも、男と同じにならない」
彼女は顔を上げ、まっすぐセリスィンを見た。
「私は、弟のためにここへ来た。名誉のためでも、夢のためでもない。……だから余計に、負けられない。稼げない場所に置かれるわけにはいかない」
セリスィンはようやく理解した。
彼女が兜を外さなかった理由。誰とも喋らなかった理由。男の群れに混じってでも戦おうとした理由。
「男に紛れれば、稼げる」
ジョルテは呟くように言った。
「女だと知られなければ、対戦も、賞金も、“男の枠”に入れる。……弟の薬が買える。冬を越えられる」
その言葉は、どこまでも現実だった。美談にしたくなるほどの“献身”なのに、根っこは泥だ。
セリスィンは自分の掌を見た。血と砂の匂いが染みついた掌だ。
「……それで、逃げるのか」
ジョルテが一拍、沈黙する。
「……逃げたいのは、剣闘士そのものじゃない」
ジョルテは言った。
「私が稼いだ金は、弟のところへ届くはずだった。届いていたはずだった」
その「はずだった」が、何より不吉だった。
セリスィンが続きを促そうとした、そのとき。
橋の上で、松明の光が増えた。
男の声が近い。
「この辺りだ! 川沿いを見ろ!」 「橋の下もだ、念のため!」
ジョルテの瞳が、一瞬で戦う者の色に戻る。
彼女は兜を掴み、被り直そうとする。手が僅かに震えていた。さっきの告白が、彼女から力を奪ったのか、逆に燃料をくべたのか――どちらでも同じだ。今は動くしかない。
セリスィンは窪みの外を見た。
霧が、薄くなり始めている。
(朝が来る)
朝は人の目を増やす。つまり、逃げる道を減らす。
セリスィンは低く言った。
「……ジョルテ。橋を渡る。今だ」
ジョルテは一瞬だけ迷い、そして頷いた。
彼女の過去は、まだ全部は語られていない。
だが今は、続きを聞くために生き延びるしかなかった。




