表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第3章 女騎士”ジョルテ”
19/165

霧の下で

川霧は、音を吸う。


白い幕の向こうで松明が揺れるたび、世界が少しだけ明るくなり、また暗くなる。橋の輪郭がぼんやり浮かび、流れの音だけが絶えず耳の底を撫でていた。


セリスィンは腹ばいのまま、霧の中を数えた。


灯りは――四つ。人影はもっといる。橋の上、橋のたもと、川沿い。押さえているという言葉は本当だ。


(正面は無理だ)


セリスィンはジョルテの手首を軽く引き、息だけで合図する。


待つ。動くな。


ジョルテは頷く。さっきまでの反抗的な目は影を潜めていた。追われる側の勘が、状況のまずさを理解している。


しばらくして、松明の一つが遠ざかった。交代か、巡回か。足音が霧に溶け、代わりに犬の鼻息のような音がかすかに混じる。


(犬……)


セリスィンは舌の裏が乾くのを感じた。血や汗を嗅がれたら終わりだ。


そのとき、ジョルテが小さく身を強張らせた。


霧の中から、ぬっと黒い影が現れたのだ。男ではない。犬だ。鼻を地にこすりつけるように、こちらへ向かってくる。


セリスィンは瞬時に決めた。


(橋の下だ)


彼はジョルテの背へ手を添え、身を低くしたまま川縁へ滑る。石と草の境目、足跡が残りにくいところを選んで動く。ジョルテも黙ってついてくる。踵が痛むはずなのに、声ひとつ上げない。


橋脚の影に入った瞬間、世界の色が変わった。霧が少し薄くなり、代わりに湿った冷気がまとわりつく。


セリスィンは橋の下、石積みの窪みへジョルテを押し込むように導いた。ここなら松明の光が届きにくい。犬も上からは見えない。


息を殺す。


犬の足音が近づいて――橋の上で止まった。


「こっちか?」


「違う。川に流されたんじゃねえのか」


「橋の下、見とけ」


松明の光が橋脚の縁を舐める。犬が吠えた。セリスィンの心臓が嫌な跳ね方をする。


だが次の瞬間、犬は別の方へ引かれていった。鼻が捉えたものが、ここではなかったのか。あるいは霧と水に匂いが散ったのか。


「……ちっ。回れ。逃がすなよ」


声が遠ざかる。


セリスィンはようやく息を吐いた。指先が痛い。石を掴みすぎていた。


ジョルテは、窪みの奥で膝を抱えていた。布で頭を覆ったまま、兜を抱えるようにしている。逃亡者というより、鎧に守られてきた何かを必死に抱え込む子どもに見えた。


「……助かったな」


セリスィンが言うと、ジョルテは低く返す。


「助かったのは貴様の都合だろう。巻き込まれた」


いつもの刺だ。だが声が少し枯れている。


「そうかもな」


セリスィンは、腰の袋を探った。乾いた果実が二つ。訓練の後に隠しておいたものだ。ひとつを差し出す。


「食え。手が震えてる」


「……いらん」


「じゃあ落とす」


セリスィンは果実をジョルテの足元へ転がした。反射でジョルテが掴む。次の瞬間、悔しそうに顔をしかめた。


セリスィンは何も言わない。


少し沈黙が落ちた。川音だけが続く。


ジョルテが果実を噛み、ようやく口を開いた。


「……なぜ、まだいる」


「橋を越えるまで」


「それで終わりか」


「終わりだ」


ジョルテは鼻で笑う。


「剣闘士は、そんなに善人だったか」


セリスィンは答えず、代わりに問いを返した。


「お前、何から逃げてる」


ジョルテの肩がぴくりと動く。


「言う必要はない」


「じゃあ聞き方を変える」


セリスィンは静かに言った。


「……お前は、なんで剣闘士になった」


ジョルテの指が兜の縁を強く握った。金属がきしむ。拒むなら拒むでいい。セリスィンはそう思った――が、ジョルテはしばらく黙ったあと、ぽつりと言った。


「……話せば、笑うか」


「笑わない」


「……誓えるか」


「誓う」


ジョルテは一度、目を閉じた。霧の冷たさとは違う、別の何かで身を固くしているようだった。


「私は――貧しい家の生まれだ」


声が少しだけ、柔らかくなる。


「父は早くにいなくなった。母は働きすぎて体を壊した。家には金がなかった。何かを売っても、次の日には腹が空く」


セリスィンは黙って聞いた。


「女が金を稼ぐ術は、限られている」


ジョルテは言葉を選ぶように続ける。


「糸を紡ぐ。人の家で働く。笑って頭を下げる。……あるいは、身体を売る」


最後の言葉を吐いたとき、ジョルテの目が硬くなる。恥ではない。怒りに近い。


「私は、男勝りだと言われた」


彼女は少しだけ、口元を歪めた。


「弟と喧嘩して泣かせるほど強くて、外の子どもと殴り合って帰ってくる。母に叩かれても、謝るのは“悪いことをしたから”じゃなく、“母を悲しませたから”だった」


その言い方が、妙にセリスィンの胸に引っかかった。誇りと後悔が同じところにある。


「弟がいた」


ジョルテの声が、そこで少し低くなる。


「小さくて、病がちで、腹が減るとすぐ倒れるような弟だ。あいつは私みたいに喧嘩もできない。盗みにも向かない。……私が守らなければ、確実に死ぬ」


ジョルテは兜を抱え、目を伏せた。


「だから私は決めた。弟のためなら、私の誇りなど何でもいいと」


その言葉は美しく、同時に残酷だった。自分の価値を自分で切り売りする決意だ。


「剣闘士は、金になる」


ジョルテは淡々と言う。


「勝てば賞金が出る。運が良ければ贔屓がつく。食い扶持だけは、確実に手に入る。……弟を飢えさせずに済む」


「それで、自分を売ったのか」


「そうだ」


短い肯定。そこに迷いはない。


「ただし――女の剣闘士は、見世物として“別枠”に押し込められる」


ジョルテの声に、怒りが混じる。


「半端に笑われ、半端に欲の目で見られる。戦いが上手くても、“女にしては”で終わる。金も、扱いも、男と同じにならない」


彼女は顔を上げ、まっすぐセリスィンを見た。


「私は、弟のためにここへ来た。名誉のためでも、夢のためでもない。……だから余計に、負けられない。稼げない場所に置かれるわけにはいかない」


セリスィンはようやく理解した。


彼女が兜を外さなかった理由。誰とも喋らなかった理由。男の群れに混じってでも戦おうとした理由。


「男に紛れれば、稼げる」


ジョルテは呟くように言った。


「女だと知られなければ、対戦も、賞金も、“男の枠”に入れる。……弟の薬が買える。冬を越えられる」


その言葉は、どこまでも現実だった。美談にしたくなるほどの“献身”なのに、根っこは泥だ。


セリスィンは自分の掌を見た。血と砂の匂いが染みついた掌だ。


「……それで、逃げるのか」


ジョルテが一拍、沈黙する。


「……逃げたいのは、剣闘士そのものじゃない」


ジョルテは言った。


「私が稼いだ金は、弟のところへ届くはずだった。届いていたはずだった」


その「はずだった」が、何より不吉だった。


セリスィンが続きを促そうとした、そのとき。


橋の上で、松明の光が増えた。


男の声が近い。


「この辺りだ! 川沿いを見ろ!」 「橋の下もだ、念のため!」


ジョルテの瞳が、一瞬で戦う者の色に戻る。


彼女は兜を掴み、被り直そうとする。手が僅かに震えていた。さっきの告白が、彼女から力を奪ったのか、逆に燃料をくべたのか――どちらでも同じだ。今は動くしかない。


セリスィンは窪みの外を見た。


霧が、薄くなり始めている。


(朝が来る)


朝は人の目を増やす。つまり、逃げる道を減らす。


セリスィンは低く言った。


「……ジョルテ。橋を渡る。今だ」


ジョルテは一瞬だけ迷い、そして頷いた。


彼女の過去は、まだ全部は語られていない。


だが今は、続きを聞くために生き延びるしかなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ