川へ
遠くの足音が、また近づいてくる。
セリスィンはジョルテの肩を軽く押し、暗い路地へ体を寄せた。壁に背をつける。月明かりの差す角度を読む。影が濃い方へ、影が濃い方へ――。
「……走れるか」
「走れと言うなら走る」
ジョルテは強がるように言うが、呼吸がまだ整っていない。足取りにも迷いがある。疲労だけじゃない。追われる者の焦りが、視線をせわしなくする。
「じゃあ走るな」
セリスィンは言い切った。
「足音が増える。息が乱れる。見つかりやすい。歩け。俺の後ろにつけ」
「命令するな」
「命令じゃない。――生き残るための順番だ」
ジョルテは舌打ちし、黙ってついてくる。
路地の先で灯りが揺れた。油皿の匂い。男の声。酒の匂い。夜更けの宿屋の裏口か、番兵の詰め所か。
セリスィンは一瞬迷う。
(ここを抜ければ近道だ。だが、目がある)
別の道へ回るには時間がかかる。だが時間をケチって捕まれば終わりだ。セリスィンは迷いを捨て、わざと遠回りを選ぶ。
草の匂いが濃くなる。石畳が途切れ、土の道になる。市街の端だ。
「……お前、外に出たことがあるのか」
ジョルテが低い声で聞いた。
「路上で育った。こういうのは慣れてる」
「剣闘士の“路上”か」
嘲りとも違う。確かめるような響きだった。
セリスィンは答えなかった。答える余裕がない。今は耳を澄ます。
――後ろ。二つの足音がある。追手とは違う、軽い歩調。
セリスィンは立ち止まり、ジョルテの腕を引いた。
「止まれ」
草むらに身を沈める。風が葉を鳴らし、虫が鳴く。月の光が薄く地面をなぞる。
足音が近づき、二人の男が横を通り過ぎるのが見えた。棒を持った男と、短い刃物を腰に下げた男。間違いない、さっきの連中の一部だ。
「……チッ。見失った」
「川の方だ。橋を押さえるって言ってたろ」
「女の足でどこまで行ける」
その言い方が、セリスィンの腹を冷やす。
女だと知っている。つまり偶然追っているわけじゃない。最初から狙っている。誰かが、ジョルテの正体と動きを漏らした。
男たちが去る。
セリスィンは草の上で息を吐いた。ジョルテが小刀を握ったまま、声を殺して言う。
「……お前まで捕まるぞ」
「分かってる」
「分かっていて、なぜ」
またその問いだ。
セリスィンは答えず、代わりに言った。
「川へ出る。橋を越える前に、身なりを変える」
「身なり?」
「その布と鎧。目立つ」
ジョルテは反射で自分の肩口を押さえた。鎧は彼女の“鎧”であると同時に、“首輪”でもある。
「脱げと言うのか」
「今は言わない。だがこのままじゃ――遠くまで行けない」
ジョルテは唇を噛み、目を逸らす。拒絶ではない。選択肢が少ないことを理解した顔だ。
セリスィンは立ち上がり、土を払った。
「来い」
*
川音が聞こえ始めた頃には、空がわずかに薄くなっていた。夜明け前の青。空気が冷える。
川沿いの道は見通しが良すぎて危険だった。セリスィンは敢えて、畑と林の間――柵と溝の陰を選んで進む。路上の勘が、いま役に立っていた。
途中、朽ちかけた物置小屋を見つけた。扉は半分外れ、藁と古い麻袋が積まれている。
「ここで少し休め」
セリスィンが言うと、ジョルテは首を振った。
「止まったら追いつかれる」
「止まらないと倒れる」
セリスィンは淡々と言って、藁の上に麻袋を広げた。
「座れ。足を見る」
「……触るな」
「触らない。見るだけだ」
ジョルテは渋々座った。セリスィンは彼女の足元を覗く。靴の縁が擦り切れている。踵に血が滲んでいた。
「これじゃ走れない。歩くのもすぐ限界だ」
ジョルテは、悔しそうに拳を握る。
「……情けない」
「情けなくない。昨日も今日も、誰かに追われてたらこうなる」
セリスィンは小屋の隅の古布を裂き、簡単に包帯にした。
「結ぶ。自分でやれ」
布を渡す。
ジョルテは受け取って、自分で踵に巻いた。手つきが器用だった。戦う人間の手だ。剣だけじゃない。生き延びるための手。
外で鳥が鳴いた。遠くで犬が吠える。朝が近い。
セリスィンは小屋の隙間から外を見た。
「……追手、橋を押さえるって言ってたな」
「……ああ」
ジョルテが答えた声が硬い。
「橋を越えたい理由があるんだろ」
「……」
「答えなくてもいい」
セリスィンは言った。
「だが、橋に行くなら――戦いになる可能性が高い」
ジョルテは小刀を見つめた。あまりに頼りない刃だ。
「お前は……剣は?」
「今はない」
寮を抜ける時、武器は持ち出せなかった。持ち出せば即座に騒ぎになる。
ジョルテが、苦く笑った。
「……剣闘士が、素手で橋を越えるのか」
「素手は得意だ」
「……知っている」
ぽつりと、ジョルテが言った。闘技場で見たのだろう。あの“獣みたいに”と言われた戦いを。
セリスィンは立ち上がった。
「行くぞ。夜明けは人の目が増える。今のうちに外へ抜ける」
ジョルテも立つ。足取りはまだ重いが、さっきよりは安定していた。
小屋を出た瞬間、冷たい風が頬を撫でた。
*
川に近づくにつれ、霧が出てきた。薄い白が地面を這い、息が白くなる。視界が悪い――追手にも同じ条件だ。悪くない。
だが、霧の向こうに灯りが揺れた。
松明だ。
川沿いに、二つ、三つ。動いている。
セリスィンは即座にジョルテの背を押して伏せさせた。
「伏せろ」
ジョルテが歯を食いしばる。
「……来たのか」
「来てる」
セリスィンは霧の向こうを睨む。
男の声がする。はっきり聞き取れないが、数は少なくない。橋を押さえるという話が本当なら、迂回路も含めて張っているはずだ。
セリスィンはジョルテの耳元で言った。
「ここから先は、俺の合図で動け。勝手に走るな」
「……分かった」
ジョルテが初めて、短く従った。
霧の向こうで松明が揺れる。
川音が、さっきより近い。
そして――橋の影が、ぼんやりと見えた。
セリスィンは喉の奥で息を呑んだ。
(……橋まで、あと少し)
だが同時に、追手の灯りもそこに集まり始めている。
逃げ道は、一本ではない。
問題は、その一本が“今”通れるかどうかだった。




