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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第3章 女騎士”ジョルテ”
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川へ

遠くの足音が、また近づいてくる。


セリスィンはジョルテの肩を軽く押し、暗い路地へ体を寄せた。壁に背をつける。月明かりの差す角度を読む。影が濃い方へ、影が濃い方へ――。


「……走れるか」


「走れと言うなら走る」


ジョルテは強がるように言うが、呼吸がまだ整っていない。足取りにも迷いがある。疲労だけじゃない。追われる者の焦りが、視線をせわしなくする。


「じゃあ走るな」


セリスィンは言い切った。


「足音が増える。息が乱れる。見つかりやすい。歩け。俺の後ろにつけ」


「命令するな」


「命令じゃない。――生き残るための順番だ」


ジョルテは舌打ちし、黙ってついてくる。


路地の先で灯りが揺れた。油皿の匂い。男の声。酒の匂い。夜更けの宿屋の裏口か、番兵の詰め所か。


セリスィンは一瞬迷う。


(ここを抜ければ近道だ。だが、目がある)


別の道へ回るには時間がかかる。だが時間をケチって捕まれば終わりだ。セリスィンは迷いを捨て、わざと遠回りを選ぶ。


草の匂いが濃くなる。石畳が途切れ、土の道になる。市街の端だ。


「……お前、外に出たことがあるのか」


ジョルテが低い声で聞いた。


「路上で育った。こういうのは慣れてる」


「剣闘士の“路上”か」


嘲りとも違う。確かめるような響きだった。


セリスィンは答えなかった。答える余裕がない。今は耳を澄ます。


――後ろ。二つの足音がある。追手とは違う、軽い歩調。


セリスィンは立ち止まり、ジョルテの腕を引いた。


「止まれ」


草むらに身を沈める。風が葉を鳴らし、虫が鳴く。月の光が薄く地面をなぞる。


足音が近づき、二人の男が横を通り過ぎるのが見えた。棒を持った男と、短い刃物を腰に下げた男。間違いない、さっきの連中の一部だ。


「……チッ。見失った」


「川の方だ。橋を押さえるって言ってたろ」


「女の足でどこまで行ける」


その言い方が、セリスィンの腹を冷やす。


女だと知っている。つまり偶然追っているわけじゃない。最初から狙っている。誰かが、ジョルテの正体と動きを漏らした。


男たちが去る。


セリスィンは草の上で息を吐いた。ジョルテが小刀を握ったまま、声を殺して言う。


「……お前まで捕まるぞ」


「分かってる」


「分かっていて、なぜ」


またその問いだ。


セリスィンは答えず、代わりに言った。


「川へ出る。橋を越える前に、身なりを変える」


「身なり?」


「その布と鎧。目立つ」


ジョルテは反射で自分の肩口を押さえた。鎧は彼女の“鎧”であると同時に、“首輪”でもある。


「脱げと言うのか」


「今は言わない。だがこのままじゃ――遠くまで行けない」


ジョルテは唇を噛み、目を逸らす。拒絶ではない。選択肢が少ないことを理解した顔だ。


セリスィンは立ち上がり、土を払った。


「来い」


*


川音が聞こえ始めた頃には、空がわずかに薄くなっていた。夜明け前の青。空気が冷える。


川沿いの道は見通しが良すぎて危険だった。セリスィンは敢えて、畑と林の間――柵と溝の陰を選んで進む。路上の勘が、いま役に立っていた。


途中、朽ちかけた物置小屋を見つけた。扉は半分外れ、藁と古い麻袋が積まれている。


「ここで少し休め」


セリスィンが言うと、ジョルテは首を振った。


「止まったら追いつかれる」


「止まらないと倒れる」


セリスィンは淡々と言って、藁の上に麻袋を広げた。


「座れ。足を見る」


「……触るな」


「触らない。見るだけだ」


ジョルテは渋々座った。セリスィンは彼女の足元を覗く。靴の縁が擦り切れている。踵に血が滲んでいた。


「これじゃ走れない。歩くのもすぐ限界だ」


ジョルテは、悔しそうに拳を握る。


「……情けない」


「情けなくない。昨日も今日も、誰かに追われてたらこうなる」


セリスィンは小屋の隅の古布を裂き、簡単に包帯にした。


「結ぶ。自分でやれ」


布を渡す。


ジョルテは受け取って、自分で踵に巻いた。手つきが器用だった。戦う人間の手だ。剣だけじゃない。生き延びるための手。


外で鳥が鳴いた。遠くで犬が吠える。朝が近い。


セリスィンは小屋の隙間から外を見た。


「……追手、橋を押さえるって言ってたな」


「……ああ」


ジョルテが答えた声が硬い。


「橋を越えたい理由があるんだろ」


「……」


「答えなくてもいい」


セリスィンは言った。


「だが、橋に行くなら――戦いになる可能性が高い」


ジョルテは小刀を見つめた。あまりに頼りない刃だ。


「お前は……剣は?」


「今はない」


寮を抜ける時、武器は持ち出せなかった。持ち出せば即座に騒ぎになる。


ジョルテが、苦く笑った。


「……剣闘士が、素手で橋を越えるのか」


「素手は得意だ」


「……知っている」


ぽつりと、ジョルテが言った。闘技場で見たのだろう。あの“獣みたいに”と言われた戦いを。


セリスィンは立ち上がった。


「行くぞ。夜明けは人の目が増える。今のうちに外へ抜ける」


ジョルテも立つ。足取りはまだ重いが、さっきよりは安定していた。


小屋を出た瞬間、冷たい風が頬を撫でた。


*


川に近づくにつれ、霧が出てきた。薄い白が地面を這い、息が白くなる。視界が悪い――追手にも同じ条件だ。悪くない。


だが、霧の向こうに灯りが揺れた。


松明だ。


川沿いに、二つ、三つ。動いている。


セリスィンは即座にジョルテの背を押して伏せさせた。


「伏せろ」


ジョルテが歯を食いしばる。


「……来たのか」


「来てる」


セリスィンは霧の向こうを睨む。


男の声がする。はっきり聞き取れないが、数は少なくない。橋を押さえるという話が本当なら、迂回路も含めて張っているはずだ。


セリスィンはジョルテの耳元で言った。


「ここから先は、俺の合図で動け。勝手に走るな」


「……分かった」


ジョルテが初めて、短く従った。


霧の向こうで松明が揺れる。


川音が、さっきより近い。


そして――橋の影が、ぼんやりと見えた。


セリスィンは喉の奥で息を呑んだ。


(……橋まで、あと少し)


だが同時に、追手の灯りもそこに集まり始めている。


逃げ道は、一本ではない。


問題は、その一本が“今”通れるかどうかだった。



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