朝の槍と、海の向こう
朝の訓練場は、霜の名残りが消えきらずに土を硬くしていた。
槍が揃って突き出されるたび、乾いた息が白くほどける。
盾がぶつかる音は、眠気を追い払う鐘のように規則正しかった。
セリスィンの百人隊は列を崩さず、足の運びだけで前へ進んでいく。
テオトニクスが横から声を飛ばす。
「間あけんな」
「肩で押すな、盾で押せ」
セリスィンが短く返す。
「呼吸を揃えろ」
「焦るな、焦った足が列を割る」
その一段高い場所で、カエサルとラビエヌスが訓練を見ていた。
二人とも鎧を着けているが、武器は抜いていない。
抜かなくても、ここでは命令が刃になる。
ラビエヌスが言った。
「橋を壊しても、兵は落ち着いています」
「河の向こうへ行けると知ったのが効いている」
カエサルは視線を訓練場へ置いたまま答える。
「見せたかったのは、支配ではない」
「意志だ」
ラビエヌスが頷く。
「ゲルマンへの牽制は終わった」
その言葉に、カエサルの声が少しだけ低くなった。
「終わったが、もう一つ落とさないといけない土地がある」
ラビエヌスは間を置かずに問う。
「それはどこで」
カエサルは言い切った。
「ブリタニアだ」
訓練場の音が一瞬遠くなる。
ラビエヌスは言葉の重みを量るように息を吸った。
「海の向こうの島ですか」
「そうだ」
カエサル。
「ローマにとっても」
「ガリアにとっても」
「まだ霧の中だ」
ラビエヌスが眉を寄せる。
「全体の大きさも」
「どれほどの部族が住み」
「どれほどの人がいるのかも」
「確かなことはほとんどない」
「だからだ」
カエサルは訓練場の一角を顎で示した。
倒れた者を引き起こす兵の動きが見える。
「知らない場所は」
「噂だけでこちらを刺す」
ラビエヌスが続ける。
「北部の補給ですね」
カエサルは頷く。
「ガリアの補給」
「特に北部で、その名を聞くことが多い」
「奴らの寝床だ」
「情報もそこを通る」
ラビエヌスが静かに言う。
「掻っ攫う必要がある」
カエサルは短く肯定した。
「掻っ攫う」
「そして、こちらが届くと示す」
訓練場で、テオトニクスがまた声を張る。
「背中見せるな」
「背中は盾ちゃうぞ」
セリスィンが叱るように重ねた。
「笑うな」
「笑った口に矢が入る」
ラビエヌスがその声を聞きながら言った。
「だが、もう夏も終わりに近い」
「今年、渡りますか」
カエサルは首を振る。
「今年のブリタニアは」
「決戦じゃない」
「実地調査だ」
ラビエヌスが理解した顔になる。
「島の位置」
「潮」
「上陸地点」
「それが分かれば、次が変わる」
「変わる」
カエサル。
「上陸地点を知るだけで」
「戦いは半分終わることがある」
ラビエヌスは頷き、確認する。
「他の閣僚にも伝えますか」
「伝える」
カエサル。
「準備のためだ」
「噂にして兵を騒がせるためではない」
ラビエヌスが少し笑う。
「騒ぐのは止められません」
「止めなくていい」
カエサルは淡々と言う。
「騒ぎは」
「うまく使えば前進になる」
カエサルはそこで、訓練場から目を外し、海の方角を見た。
見えるはずのない島を、見ている目だった。
「危険を冒す前に」
カエサルが言った。
「先発の偵察が要る」
ラビエヌスが即座に答える。
「ガイウス・ウォルセヌスを」
「先んじて送る」
カエサル。
「岸を見せろ」
「港を数えろ」
「逃げ道も見ろ」
ラビエヌスは頷いた。
「彼なら」
「目で拾って、口で余計なことを言いません」
「そういう男が要る」
カエサルは言い、訓練場へ視線を戻した。
「噂の島へ行くときは」
「噂を持ち帰るな」
「事実を持ち帰れ」
訓練場では、列がもう一度組み直されていた。
槍の穂先が朝日に光り、盾の縁が一斉に揃う。
ゲルマンへの牽制は終わった。
だが次の敵は、まだ姿すら見せていない。
海の向こうの霧が、次の戦の形をしていた。




