表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第14章 怒りの矛先
171/177

目的

橋を渡るとき、兵は妙に静かだった。

レーヌス河の上に置かれた木の道が、軍の重みを受けて低く鳴る。

十日かけて作ったものを、十歩で越える。

それがローマのやり方だった。


セリスィンは橋脚のほうへ目をやった。

流れは強い。

だが橋は、流れに押されるほど締まっている。

この構造を考えた者の顔ではなく、命じた者の顔が思い浮かぶのが、なおさら怖かった。


テオトニクスが隣で息を吐く。


「ほんまに渡りよったな」


「渡ると言ったからな」

セリスィンは足元を見て答えた。


「川が境界ちゃうって、こういうことか」


「そうだ」


橋の向こう岸には、すでに噂が先回りしていた。

使節が来る。

人質も来る。

恐る恐る差し出される手は、敬意よりも計算に近い。

今この場で滅ぼされないための、最短の動きだ。


ペディウスが帳面を見ながら言った。

「来た部族は多い」

「使節と人質」

「橋は言葉より速いな」


ラビエヌスが周囲を見回した。

「スガンブリーは」


返事は、斥候が持ってきた。

息が切れていない。

走らずとも間に合う報せだったからだ。


「逃げています」

斥候が言う。

「橋が作られ始めた頃から準備していたようです」

「テンクテーリーとウシペテースの残党と合流し」

「全財産を持って森へ」


サビヌスが鼻で笑った。

「賢い」

「抵抗しても、残るのは死体だと知っている」


デキムスが短く言う。

「森へ逃げるなら追うか」


ラビエヌスが首を振る。

「森は奴らの城だ」

「こちらの列が壊れる」


カエサルは黙っていた。

渡河そのものが目的ではない。

渡河した後に何を残すかが目的だった。


「なら」

カエサルが言った。

「残すものを残す」


命令はすぐ形になった。

ローマ軍はスガンブリー族の領地に数日滞在し、村と家を焼いた。

穀物も刈り倒した。

兵にとっては追撃でも決戦でもない。

だが土地にとっては、戦いそのものだった。


テオトニクスが火の粉を避けながら言った。


「逃げられたのに、焼くんやな」


セリスィンは答える。

「逃げたから焼く」

「戻る場所を残せば、また戻る」


「ほな、こっちの橋と同じか」

テオトニクスが小さく笑う。

「戻り道は残すな、って」


セリスィンは笑わなかった。

焼ける音はいつも、勝利より人を黙らせる。


作戦は短く終わった。

スガンブリーの森を追わず、ローマ軍はウビィ族の領地へ引き返した。

待っていたウビィの使者は、顔色が悪いのに目だけが明るかった。

脅迫が一つ、剥がれた者の目だ。


「カエサル」

使者は深く頭を下げた。

「感謝する」

「だが、次が来る」


「スヴェヴィか」

カエサルが問う。


使者は頷いた。

「偵察で、橋が作られることを知ると」

「すぐ会議を開いた」

「使者を四方に出した」


ラビエヌスが促す。

「続けろ」


「街を出た」

使者の声が早くなる。

「妻子と財産を森へ移した」

「武器を取れる者を一か所に集めた」


ペディウスが眉を寄せた。

「集結地点は」


「領地のほぼ中央だ」

使者。

「そこなら、どこからでも来れる」

「そこで待つ」

「ローマ軍が来るのを待ち」

「決戦するつもりだ」


天幕の外で風が鳴った。

火が揺れる。

誰もすぐには口を開かなかった。

決戦という言葉が重いからではない。

決戦が、相手の都合で用意されているからだ。


サビヌスが最初に言う。

「行くべきだな」

「見せると言ったのは、ここまでじゃない」

「スヴェヴィに“待てば勝てる”と思わせるな」


デキムスが頷く。

「今引けば、橋は脅しで終わる」


ペディウスは慎重だった。

「だが、敵が中央に集まるなら」

「こちらの補給線が伸びる」

「相手の森と湿地に引きずり込まれる」


ラビエヌスも言う。

「決戦は、相手が選んだ地形で起きる」

「勝っても、こちらの損耗は大きい」


テオトニクスがセリスィンへ小声を落とす。


「攻め込む派と、様子見する派やな」


セリスィンも小さく返した。

「どちらも正しい」

「だから難しい」


カエサルは全員の言葉を聞き終えてから、静かに言った。

「目的を忘れるな」


サビヌスが食い下がる。

「目的は牽制です」


「そうだ」

カエサル。

「スガンブリーを脅し」

「ウビィを強迫から救う」

「当初の目的は達した」


デキムスが問う。

「スヴェヴィは」


「牽制は、必ずしも戦いで完成しない」

カエサルは言った。

「渡った」

「焼いた」

「戻る」

「それだけで十分に伝わる」


ラビエヌスが頷いた。

「こちらが望めば、また渡れる」

「それを示したのが最大の成果です」


サビヌスは不満を隠さない。

「逃げた者を取り逃がしたまま、帰るのか」


カエサルは目を細めた。

「逃げた者は、森で飢える」

「だが、我らが森で飢える必要はない」

「勝つために無理をするな」

「勝ちを保つために無理をしない」


その決断に、天幕の空気が落ち着いた。

熱が引くのではない。

戦いの熱を、別の場所へ移す落ち着きだ。


撤収は素早かった。

そして帰り道。

レーヌス河の橋が見えたとき、兵は一瞬だけ足を止めた。

作ったものを、壊す命令が出ると分かっていたからだ。


テオトニクスが呆れたように言う。


「せっかく作ったのにな」


セリスィンは橋脚を見上げる。

水の力を味方にした構造が、今日で終わる。

だが終わらせるのもまた、ローマの意思だ。


「残すと、誰かが渡る」

セリスィン。


「そらそうや」

テオトニクス。

「でも、壊すのも手品みたいやな」


「手品じゃない」

セリスィンはいつものように言いかけて、少しだけ言い換えた。

「政治だ」


橋は壊された。

板が剥がされ、留木が外され、杭が抜かれる。

レーヌス河は再び境界の顔に戻る。

だが、戻ったのは顔だけだった。


向こう岸の部族が覚えたのは。

境界は川ではなく、ローマの意思で決まるという事実だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ