目的
橋を渡るとき、兵は妙に静かだった。
レーヌス河の上に置かれた木の道が、軍の重みを受けて低く鳴る。
十日かけて作ったものを、十歩で越える。
それがローマのやり方だった。
セリスィンは橋脚のほうへ目をやった。
流れは強い。
だが橋は、流れに押されるほど締まっている。
この構造を考えた者の顔ではなく、命じた者の顔が思い浮かぶのが、なおさら怖かった。
テオトニクスが隣で息を吐く。
「ほんまに渡りよったな」
「渡ると言ったからな」
セリスィンは足元を見て答えた。
「川が境界ちゃうって、こういうことか」
「そうだ」
橋の向こう岸には、すでに噂が先回りしていた。
使節が来る。
人質も来る。
恐る恐る差し出される手は、敬意よりも計算に近い。
今この場で滅ぼされないための、最短の動きだ。
ペディウスが帳面を見ながら言った。
「来た部族は多い」
「使節と人質」
「橋は言葉より速いな」
ラビエヌスが周囲を見回した。
「スガンブリーは」
返事は、斥候が持ってきた。
息が切れていない。
走らずとも間に合う報せだったからだ。
「逃げています」
斥候が言う。
「橋が作られ始めた頃から準備していたようです」
「テンクテーリーとウシペテースの残党と合流し」
「全財産を持って森へ」
サビヌスが鼻で笑った。
「賢い」
「抵抗しても、残るのは死体だと知っている」
デキムスが短く言う。
「森へ逃げるなら追うか」
ラビエヌスが首を振る。
「森は奴らの城だ」
「こちらの列が壊れる」
カエサルは黙っていた。
渡河そのものが目的ではない。
渡河した後に何を残すかが目的だった。
「なら」
カエサルが言った。
「残すものを残す」
命令はすぐ形になった。
ローマ軍はスガンブリー族の領地に数日滞在し、村と家を焼いた。
穀物も刈り倒した。
兵にとっては追撃でも決戦でもない。
だが土地にとっては、戦いそのものだった。
テオトニクスが火の粉を避けながら言った。
「逃げられたのに、焼くんやな」
セリスィンは答える。
「逃げたから焼く」
「戻る場所を残せば、また戻る」
「ほな、こっちの橋と同じか」
テオトニクスが小さく笑う。
「戻り道は残すな、って」
セリスィンは笑わなかった。
焼ける音はいつも、勝利より人を黙らせる。
作戦は短く終わった。
スガンブリーの森を追わず、ローマ軍はウビィ族の領地へ引き返した。
待っていたウビィの使者は、顔色が悪いのに目だけが明るかった。
脅迫が一つ、剥がれた者の目だ。
「カエサル」
使者は深く頭を下げた。
「感謝する」
「だが、次が来る」
「スヴェヴィか」
カエサルが問う。
使者は頷いた。
「偵察で、橋が作られることを知ると」
「すぐ会議を開いた」
「使者を四方に出した」
ラビエヌスが促す。
「続けろ」
「街を出た」
使者の声が早くなる。
「妻子と財産を森へ移した」
「武器を取れる者を一か所に集めた」
ペディウスが眉を寄せた。
「集結地点は」
「領地のほぼ中央だ」
使者。
「そこなら、どこからでも来れる」
「そこで待つ」
「ローマ軍が来るのを待ち」
「決戦するつもりだ」
天幕の外で風が鳴った。
火が揺れる。
誰もすぐには口を開かなかった。
決戦という言葉が重いからではない。
決戦が、相手の都合で用意されているからだ。
サビヌスが最初に言う。
「行くべきだな」
「見せると言ったのは、ここまでじゃない」
「スヴェヴィに“待てば勝てる”と思わせるな」
デキムスが頷く。
「今引けば、橋は脅しで終わる」
ペディウスは慎重だった。
「だが、敵が中央に集まるなら」
「こちらの補給線が伸びる」
「相手の森と湿地に引きずり込まれる」
ラビエヌスも言う。
「決戦は、相手が選んだ地形で起きる」
「勝っても、こちらの損耗は大きい」
テオトニクスがセリスィンへ小声を落とす。
「攻め込む派と、様子見する派やな」
セリスィンも小さく返した。
「どちらも正しい」
「だから難しい」
カエサルは全員の言葉を聞き終えてから、静かに言った。
「目的を忘れるな」
サビヌスが食い下がる。
「目的は牽制です」
「そうだ」
カエサル。
「スガンブリーを脅し」
「ウビィを強迫から救う」
「当初の目的は達した」
デキムスが問う。
「スヴェヴィは」
「牽制は、必ずしも戦いで完成しない」
カエサルは言った。
「渡った」
「焼いた」
「戻る」
「それだけで十分に伝わる」
ラビエヌスが頷いた。
「こちらが望めば、また渡れる」
「それを示したのが最大の成果です」
サビヌスは不満を隠さない。
「逃げた者を取り逃がしたまま、帰るのか」
カエサルは目を細めた。
「逃げた者は、森で飢える」
「だが、我らが森で飢える必要はない」
「勝つために無理をするな」
「勝ちを保つために無理をしない」
その決断に、天幕の空気が落ち着いた。
熱が引くのではない。
戦いの熱を、別の場所へ移す落ち着きだ。
撤収は素早かった。
そして帰り道。
レーヌス河の橋が見えたとき、兵は一瞬だけ足を止めた。
作ったものを、壊す命令が出ると分かっていたからだ。
テオトニクスが呆れたように言う。
「せっかく作ったのにな」
セリスィンは橋脚を見上げる。
水の力を味方にした構造が、今日で終わる。
だが終わらせるのもまた、ローマの意思だ。
「残すと、誰かが渡る」
セリスィン。
「そらそうや」
テオトニクス。
「でも、壊すのも手品みたいやな」
「手品じゃない」
セリスィンはいつものように言いかけて、少しだけ言い換えた。
「政治だ」
橋は壊された。
板が剥がされ、留木が外され、杭が抜かれる。
レーヌス河は再び境界の顔に戻る。
だが、戻ったのは顔だけだった。
向こう岸の部族が覚えたのは。
境界は川ではなく、ローマの意思で決まるという事実だった。




