逃亡者
「……まさか、貴様……」
月明かりの下で、女騎士の目が細くなる。憎悪か、恐れか――どちらにせよ、刃先みたいに尖った視線だった。
「試合のときの……兜を――」
吐き捨てるように言いかけ、彼女は歯を噛んだ。
セリスィンは胸の奥で(やっぱり覚えてたか)とだけ思う。だが今は、それよりも重要なことがある。彼女の右手には短い小刀があり、腕の力は弱いのに、動きだけがやけに速い。
「落ち着け。殺しに来たわけじゃない」
「信用できるか!」
女騎士が小刀を振る。セリスィンは身体をずらし、刃筋を外した。掴めば切れる。けれど放せば、また逃げる。
だから――肘から先だけを狙う。
セリスィンは彼女の手首に自分の掌を当て、刃の向きを逸らし、そのまま地面へ押しつけた。小刀が石を擦り、甲高い音が鳴る。
「っ……!」
女騎士が暴れる。膝が跳ね、脇腹に当たりそうになる。セリスィンは体重をかけすぎないように抑えながら、低い声で言った。
「叫ぶな。人が来る」
「来ればいい! 貴様が――」
「違う」
セリスィンは短く遮る。
「俺は、ここの見張りでも、運営の犬でもない」
女騎士の動きが一瞬だけ止まる。だがすぐに、噛みつくように言った。
「なら、なぜ追ってきた」
「……怪しい動きしてたからだ」
「それだけか」
「それだけだ」
嘘ではない。だが全部でもない。セリスィン自身、なぜここまで食いついたのか説明できない。ただ――あの兜の下の“違和感”が、ずっと喉に刺さっていた。
女騎士はセリスィンを睨み、吐く。
「……離せ」
「逃げるんだろ」
セリスィンは言った。
「戻ればまずいことがある。だから、こんな夜中に抜け出した」
女騎士の睫毛がわずかに震えた。肯定も否定もしない。それが答えだった。
「……名前は」
「言う必要はない」
「じゃあ、俺も“おい”って呼ぶ。都合が悪いだろ」
女騎士は眉を寄せた。迷いが一瞬だけ顔に出る。
「……ジョルテ」
「ジョルテ。俺はセリスィンだ」
名を告げた瞬間、彼女の表情がさらに険しくなる。
「名乗ったところで、信用にはならない」
「分かってる」
セリスィンは小刀から目を離さず言った。
「でもな。お前、今ここで俺を刺しても、逃げ切れない」
「……」
「血の匂いは残る。騒ぎも起きる。追手がいるなら、なおさらだ」
ジョルテの呼吸が荒い。走ってきた疲れもある。だがそれ以上に、追い詰められている者の呼吸だった。
セリスィンはゆっくり手の圧を緩めた。小刀は奪わない。奪えば、彼女はもっと暴れる。代わりに、自分の掌を見せる。
「離す。刺すな。逃げるなら、勝手に行け」
ジョルテは一拍だけセリスィンを見た。
――そのとき。
遠くで、足音がした。
ひとつではない。複数。乾いた石畳を踏む音が、一定の間隔で近づいてくる。さらに微かに、金具の擦れる音。灯りが揺れる気配も混じった。
ジョルテの顔から血の気が引く。
(追手だ)
セリスィンが理解した瞬間、ジョルテは跳ね起きようとした。逃げる。反射だ。だが足がもつれて、膝が落ちる。
「くっ……!」
疲労が限界なのか。強がりで支えていた糸が切れたのか。
足音が近づく。
セリスィンは舌打ちし、ジョルテの腕を掴んだ。
「――来い」
「離せ!」
「今離したら、捕まる」
「それでも――」
「それでもじゃない。死ぬのか?」
セリスィンの声が低くなる。脅しではなく、事実として言った。
ジョルテが、言葉を失う。
セリスィンは彼女を引きずるようにして、道端の物陰へ押し込んだ。崩れた石垣と、蔦の影。月の光が届きにくい場所だ。
「息を殺せ」
ジョルテは小刀を握ったまま、唇を噛み、頷いた。
ほどなく、灯りが角を曲がってくる。
男が三人。うち二人は棒を持ち、もう一人は短い刃物の鞘を腰に下げている。剣闘士の仲間ではない。歩き方が違う。戦い慣れはしているが、闘技場の人間のそれではない。
「……見つからねえな」
「外へ出たのは確かだ。塀の北だって言ってた」
「女が一人、夜に出歩けると思うなよ。どこかで息してる」
その言葉で、セリスィンの背中が冷える。
(女だと――知ってる)
ジョルテの身体が小さく震えた。怒りか恐怖か、どちらでもいい。今、声を出されるのが最悪だ。
男たちは足を止め、辺りを見回す。
「おい、そっちは?」
「何もねえ」
灯りが、セリスィンたちの隠れた蔦をかすめる。
セリスィンは息を止めた。指先が石に食い込む。ジョルテが、刃を握る手に力を入れるのが分かる。
――頼むな、今は。
数秒が、一刻みたいに長い。
やがて男たちは舌打ちし、また歩き出した。
「ちっ。回り込むぞ。川の方だ」
「橋は押さえろ。夜明けまでに見つける」
足音が遠ざかり、灯りが曲がり角の向こうへ消える。
セリスィンはようやく息を吐いた。
ジョルテは、震えた声で言う。
「……なぜ」
「なにが」
「なぜ、助ける」
セリスィンは答えられなかった。
正義感で動いたわけじゃない。損得でもない。合理性なら「見なかったこと」にするのが一番だ。
それでも身体が動いた。
「分からない」
セリスィンは正直に言った。
「でも、あいつらはお前を“女”だって言った。つまり最初から狙ってる。捕まったら……終わりだろ」
ジョルテの瞳が揺れる。悔しさと、屈辱と、諦めになりかけた何か。
セリスィンは立ち上がり、手を差し出した。
「行くぞ。ここにいたら、次は見つかる」
「……どこへ」
「まずは、足を止められる場所だ。灯りの届かないところ。音のしないところ」
セリスィンは自分でも驚くほど迷いなく言っていた。
「……俺のせいで巻き込まれたって言うなら、朝までに終わらせる。逃げる手助けをする」
ジョルテは手を取らない。だが、立ち上がった。小刀はまだ握っている。
その刃先が、セリスィンに向かうことはなかった。
「……勘違いするな」
ジョルテが言う。
「貴様を信用したわけではない」
「分かってる」
セリスィンは頷き、暗い路地へ彼女を導いた。
遠くでまた、足音がした。
夜はまだ長い。




