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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第3章 女騎士”ジョルテ”
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逃亡者

「……まさか、貴様……」


月明かりの下で、女騎士の目が細くなる。憎悪か、恐れか――どちらにせよ、刃先みたいに尖った視線だった。


「試合のときの……兜を――」


吐き捨てるように言いかけ、彼女は歯を噛んだ。


セリスィンは胸の奥で(やっぱり覚えてたか)とだけ思う。だが今は、それよりも重要なことがある。彼女の右手には短い小刀があり、腕の力は弱いのに、動きだけがやけに速い。


「落ち着け。殺しに来たわけじゃない」


「信用できるか!」


女騎士が小刀を振る。セリスィンは身体をずらし、刃筋を外した。掴めば切れる。けれど放せば、また逃げる。


だから――肘から先だけを狙う。


セリスィンは彼女の手首に自分の掌を当て、刃の向きを逸らし、そのまま地面へ押しつけた。小刀が石を擦り、甲高い音が鳴る。


「っ……!」


女騎士が暴れる。膝が跳ね、脇腹に当たりそうになる。セリスィンは体重をかけすぎないように抑えながら、低い声で言った。


「叫ぶな。人が来る」


「来ればいい! 貴様が――」


「違う」


セリスィンは短く遮る。


「俺は、ここの見張りでも、運営の犬でもない」


女騎士の動きが一瞬だけ止まる。だがすぐに、噛みつくように言った。


「なら、なぜ追ってきた」


「……怪しい動きしてたからだ」


「それだけか」


「それだけだ」


嘘ではない。だが全部でもない。セリスィン自身、なぜここまで食いついたのか説明できない。ただ――あの兜の下の“違和感”が、ずっと喉に刺さっていた。


女騎士はセリスィンを睨み、吐く。


「……離せ」


「逃げるんだろ」


セリスィンは言った。


「戻ればまずいことがある。だから、こんな夜中に抜け出した」


女騎士の睫毛がわずかに震えた。肯定も否定もしない。それが答えだった。


「……名前は」


「言う必要はない」


「じゃあ、俺も“おい”って呼ぶ。都合が悪いだろ」


女騎士は眉を寄せた。迷いが一瞬だけ顔に出る。


「……ジョルテ」


「ジョルテ。俺はセリスィンだ」


名を告げた瞬間、彼女の表情がさらに険しくなる。


「名乗ったところで、信用にはならない」


「分かってる」


セリスィンは小刀から目を離さず言った。


「でもな。お前、今ここで俺を刺しても、逃げ切れない」


「……」


「血の匂いは残る。騒ぎも起きる。追手がいるなら、なおさらだ」


ジョルテの呼吸が荒い。走ってきた疲れもある。だがそれ以上に、追い詰められている者の呼吸だった。


セリスィンはゆっくり手の圧を緩めた。小刀は奪わない。奪えば、彼女はもっと暴れる。代わりに、自分の掌を見せる。


「離す。刺すな。逃げるなら、勝手に行け」


ジョルテは一拍だけセリスィンを見た。


――そのとき。


遠くで、足音がした。


ひとつではない。複数。乾いた石畳を踏む音が、一定の間隔で近づいてくる。さらに微かに、金具の擦れる音。灯りが揺れる気配も混じった。


ジョルテの顔から血の気が引く。


(追手だ)


セリスィンが理解した瞬間、ジョルテは跳ね起きようとした。逃げる。反射だ。だが足がもつれて、膝が落ちる。


「くっ……!」


疲労が限界なのか。強がりで支えていた糸が切れたのか。


足音が近づく。


セリスィンは舌打ちし、ジョルテの腕を掴んだ。


「――来い」


「離せ!」


「今離したら、捕まる」


「それでも――」


「それでもじゃない。死ぬのか?」


セリスィンの声が低くなる。脅しではなく、事実として言った。


ジョルテが、言葉を失う。


セリスィンは彼女を引きずるようにして、道端の物陰へ押し込んだ。崩れた石垣と、蔦の影。月の光が届きにくい場所だ。


「息を殺せ」


ジョルテは小刀を握ったまま、唇を噛み、頷いた。


ほどなく、灯りが角を曲がってくる。


男が三人。うち二人は棒を持ち、もう一人は短い刃物の鞘を腰に下げている。剣闘士の仲間ではない。歩き方が違う。戦い慣れはしているが、闘技場の人間のそれではない。


「……見つからねえな」


「外へ出たのは確かだ。塀の北だって言ってた」


「女が一人、夜に出歩けると思うなよ。どこかで息してる」


その言葉で、セリスィンの背中が冷える。


(女だと――知ってる)


ジョルテの身体が小さく震えた。怒りか恐怖か、どちらでもいい。今、声を出されるのが最悪だ。


男たちは足を止め、辺りを見回す。


「おい、そっちは?」


「何もねえ」


灯りが、セリスィンたちの隠れた蔦をかすめる。


セリスィンは息を止めた。指先が石に食い込む。ジョルテが、刃を握る手に力を入れるのが分かる。


――頼むな、今は。


数秒が、一刻みたいに長い。


やがて男たちは舌打ちし、また歩き出した。


「ちっ。回り込むぞ。川の方だ」


「橋は押さえろ。夜明けまでに見つける」


足音が遠ざかり、灯りが曲がり角の向こうへ消える。


セリスィンはようやく息を吐いた。


ジョルテは、震えた声で言う。


「……なぜ」


「なにが」


「なぜ、助ける」


セリスィンは答えられなかった。


正義感で動いたわけじゃない。損得でもない。合理性なら「見なかったこと」にするのが一番だ。


それでも身体が動いた。


「分からない」


セリスィンは正直に言った。


「でも、あいつらはお前を“女”だって言った。つまり最初から狙ってる。捕まったら……終わりだろ」


ジョルテの瞳が揺れる。悔しさと、屈辱と、諦めになりかけた何か。


セリスィンは立ち上がり、手を差し出した。


「行くぞ。ここにいたら、次は見つかる」


「……どこへ」


「まずは、足を止められる場所だ。灯りの届かないところ。音のしないところ」


セリスィンは自分でも驚くほど迷いなく言っていた。


「……俺のせいで巻き込まれたって言うなら、朝までに終わらせる。逃げる手助けをする」


ジョルテは手を取らない。だが、立ち上がった。小刀はまだ握っている。


その刃先が、セリスィンに向かうことはなかった。


「……勘違いするな」


ジョルテが言う。


「貴様を信用したわけではない」


「分かってる」


セリスィンは頷き、暗い路地へ彼女を導いた。


遠くでまた、足音がした。


夜はまだ長い。



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