怒りの矛先
三重の戦陣が組まれたまま、ローマ軍は十二、十三キロを進んだ。
歩兵の列がほどけない。
荷駄は中央に押し込められ、騎兵は翼のように左右へ張りついた。
止まらず、迷わず、余計な声もない。
セリスィンは自分の百人隊を見回し、盾の縁を指先で確かめた。
その隣でテオトニクスが、いつもの軽口を飲み込んだ顔をしている。
「なあセリスィン」
テオトニクスが小声で言った。
「何だ」
セリスィンは前を見たまま答えた。
「閣下、たいそう怒っとるで」
「分かる」
「行軍の仕方で分かるわ」
テオトニクスは顎を前へしゃくる。
「いつもは“勝てる形”を作ってから殴るやろ」
「今日は“殴る形”のまま歩いとる」
「余計な揺れがない」
セリスィンが言った。
「怒りが隊列に入ってる」
「怒りを隊列に入れたら、強い」
テオトニクスが言いかけて、言い直した。
「……でも、怖い」
セリスィンは頷いた。
「怒りを外に出すと、崩れる」
「内に閉じ込めた怒りは、命令になる」
前方の斥候が戻り、短い報告が飛ぶ。
敵の陣地が近い。
敵は止まっている。
迷っている。
ラビエヌスが馬上で言った。
「向こうは三日を欲しがった」
「その三日が、今ここで詰まっている」
ペディウスが答える。
「使者を出しておいて、騎兵を出す」
「やることが粗い」
「粗いから速い」
サビヌスが低く言った。
「速いから、今は止まっている」
クラッスス・ジュニアが前方を見据えた。
「止まった獣は、噛む場所を探してる」
その中心に、カエサルがいた。
兜の縁から覗く目は、誰も見ていないようで、全部を見ていた。
怒っているのが分かるのに、声は乾いている。
敵の陣は、整っていない。
武器を握った者もいれば、荷を掴んで走る者もいる。
逃げるべきか、戦うべきか、降るべきか。
迷いが、風に見えるほどだった。
「閣下」
誰かが進言しかけた。
「敵は――」
カエサルは最後まで聞かない。
ただ一言だけ落とした。
「やれ」
それが合図になった。
三重の列が一斉に前へ滑る。
盾が揃い、槍が揃い、脚が揃う。
テオトニクスが叫ぶ。
「走るな」
「歩幅を揃えろ」
「崩れたやつから死ぬぞ」
セリスィンは自分の列へ命じた。
「間を詰めろ」
「敵の悲鳴に釣られるな」
「旗を見る」
敵は様々だった。
武器を捨てて手を上げる者がいる。
荷を抱えて逃げる者がいる。
槍を構え、背を向けず抗う者もいる。
だが、多くは河へ向かった。
レーヌス河を渡れば助かると、足が知っている。
群れが河へ吸い寄せられていく。
カエサルは騎兵へ命じた。
「追え」
「歩兵は列を崩すな」
ガリア騎兵が走り出す。
その中にはアクィーターニアの者もいた。
昨日まで同じ言葉で笑っていた者たちが、今日は無言で槍を下げる。
「ガリアの騎兵、速いな」
テオトニクスが息の合間に言った。
「速さは、借り物でもいい」
セリスィンが答えた。
「戻ってくるなら」
追撃の先、モサ河とレーヌス河の合流点付近で、敵は潰れた。
先に辿り着いた者の死が見え、後から来た者の心が折れる。
抵抗を選ぶ者もいた。
だが、多くは武器を捨て、河へ飛び込んだ。
逆らうより先に終わらせる、という選び方だった。
テオトニクスが歯を食いしばる。
「……あかん」
「これ、止まらんやつや」
セリスィンは目を逸らさなかった。
「止めるのは、閣下だけだ」
「止めへんのやろな」
テオトニクスが呟く。
「ピーソー兄弟の名が、まだ地面にある」
セリスィンの声は硬かった。
やがて、報告が集まってくる。
敵の数は四十三万とも言う。
誇張が混じっていようと、群れの大きさは誰の目にも同じだった。
そして、こちらの損耗はほとんどないに等しい、と。
ペディウスが信じられない顔で言った。
「……これが、戦争か」
ラビエヌスは答えた。
「戦争だ」
「だが、戦いではない」
サビヌスが淡々と言う。
「約束を踏んだ結果だ」
戦が沈静化した頃、捕虜が一箇所に集められた。
泣き喚く声は少なく、ただ茫然とした目が多い。
カエサルは捕えた者たちを見下ろし、意外なことを言った。
「どこへ行ってもいい」
「自由だ」
兵の間に小さなどよめきが走る。
セリスィンも瞬きをした。
テオトニクスは思わず言った。
「え、逃がすんか」
セリスィンが小声で返す。
「逃がすんじゃない」
「切るんだ」
「群れを、ばらす」
捕虜の中の幾人かが、互いに顔を見合わせた。
そして一人が、通訳を介して叫ぶように言った。
「自由はいらない」
「我らを、ローマのもとで戦わせてくれ」
別の者も言う。
「仲間が多く殺されたと聞いた」
「戻っても居場所がない」
「なら、ここで降る」
テオトニクスが唇を引く。
「……降参って、そういう降り方もあるんやな」
セリスィンは、胸の奥が冷えるのを感じた。
戦いに勝つより前に、勝ち方が何かを変えてしまう。
カエサルは捕虜を見たまま言った。
「戦わせるかどうかは、私が決める」
「まずは命令に従え」
そして軍は再び動き出した。
三重の列は、怒りを使い切ったあとも崩れなかった。
崩れないまま、次の問題へ向かっていった。




