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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第13章 疾風怒濤
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冬の投票と請求書

霧が芝を平らにしていた。

カンプス・マルティウスの朝はいつも広い。

だがこの日は妙に狭かった。

人が集まっているのに空気が通らない。

声があるのに議論がない。


投票へ向かう道の角に若者が立っていた。

武具ではない。

棒と短剣。

そして「持っていてよい」と許された顔。

顔だけで道を仕切る種類の若さだった。


いつもなら候補者の周りには笑顔と握手と大声が渦を巻く。

だがこの朝、渦が見当たらなかった。

いるべき旗がない。

反対派の一団は噂だけが先に来て、姿を見せない。

霧の向こうの棒が、代わりにそこにいた。


呼名が始まると投票は淡々と進んだ。

淡々と進むほど、かえって不自然だった。

ローマの投票はいつも何かが引っかかる。

怒号や横槍や、わざとらしい混乱が挟まる。

今日はそれがない。

代わりに、道の角の若者がある。


結果が告げられると歓声は大きかった。

ただし喜びの形ではなく命令の形だった。

歓声が遅れる者を睨み、拍手が同調の速度を強制する。


「ポンペイウス!」

「クラッスス!」


二つの名は勝利宣言というより封印に近かった。

この名に異議を唱えれば、霧の向こうの棒が動く。

そういう種類の圧勝だった。


誰かが低い声で言った。


「勝ったというより、今日という日が彼らのために用意されていた」


クラッススは祝杯をあげなかった。

酒が嫌いなのではない。

酒は「今日」を曇らせる。

彼に必要なのは今日の輪郭だった。


執務机の上に蝋板が並ぶ。

書記が息を殺し、数字を待っている。

外では歓声がまだ引きずられているのに、ここには紙の擦れる音しかない。


「圧勝です、閣下」

書記が言う。


言い方は祝いだが目は怯えている。

怯えは当然だ。

勝利は金になる。

金は人を変える。

人が変われば約束の値段が上がる。


クラッススは外套を脱ぐのが遅かった。

濡れた布を肩に置いたまま、蝋板を一枚引き寄せる。


「圧勝ほど高い」

クラッススが言う。


それだけ言って尖筆で線を引いた。

一本目は支払い。

二本目は回収。

三本目は貸し。


「この部族の区は誰が抑えた」

クラッススが言う。


「……あの者たちです、閣下」

書記が答える。


「なら支払いは人で済ませろ」

クラッススが言う。

「金を渡すと次は金を要求する」


書記が頷く。

クラッススは口元を拭った。

頼りない仕草だ。

だが次に出る指示は冷たいほど正確だった。


「この家の借りは残せ」

クラッススが言う。

「残す価値がある」

「ただし期限を刻め」

「恩は伸ばすと腐る」


勝利は喝采ではない。

請求書の束だ。

クラッススはその束を、最初から分かっていた顔でめくっていく。


扉が叩かれ、使者が入る。

封のある巻紙。

押し殺した興奮。


「ポンペイウス閣下より」

使者が言う。

「今夜——」


クラッススは巻紙を受け取り、封を割らずに机に置いた。


「今夜は会わない」

クラッススが言う。


「ですが——」

使者が言いかける。


「勝った日に会うのは弱い者のすることだ」

クラッススが言う。

「明日会え」

「明日なら条件が見える」


使者が退く。

扉が閉まり、室内はまた紙の音に戻った。


「次」

クラッススが書記へ言う。

「法だ」

「約束は今から形にする」

「形にならない勝利は、ただの騒ぎだ」


頼りなさが消えた。

代わりに現れたのは、金で世界を固定する人間の顔だった。


キケロは窓を開けなかった。

開ければ歓声が入る。

歓声は時に刃物より鋭い。

刃物なら避けられるが、歓声は避けられない。

街全体が武器になる。


机の上の蝋板に、彼は短い文を刻んでいく。

相手はアッティクスでもいい。

誰でもいい。

要は言葉を外へ出すことだ。

胸の中に置けば腐る。


投票は成立した。

成立した、というだけで人々は安堵している。

「だが私は安堵できない」


文字が小刻みに震えた。

手が震えているのではない。

ローマが震えているのだと彼は思いたかった。


圧倒的、と皆が言う。

圧倒的とは、反対が圧し潰されたという意味でもある。

「私の耳には歓声よりも沈黙の方が大きい」


沈黙。

反対派が黙ったのではない。

黙らされた沈黙。


キケロは自分の帰還のために、かつて誰の力も借りた。

借りを忘れてはいない。

だが借りが都市の骨格を歪める瞬間を、もう見たくなかった。


扉の外で足音がして家人が囁く。


「先生、外が……また」


「また、か」

キケロが言う。


ローマでは「また」が一番危険だ。

人は「またか」と思った瞬間から異常に慣れる。


「ポンペイウスは勝った」

「クラッススも勝った」

「だが私は問う」

「勝ったのは誰だ」

「都市か」

「彼らか」

「それとも…」

 棒を持った若者たちか。


書き終えると、キケロは蝋板を伏せた。

伏せた瞬間、歓声が遠くで一段大きくなった気がした。

彼は目を閉じ、短く息を吐いた。


勝利の報せは誰かにとっては希望だ。

だが希望はたいてい請求書と一緒に届く。


北の空は薄く、風は乾いていた。

野営地では兵が息を白くしながら槍を磨いている。

戦争の準備は静かだ。

政治の準備の方がよほど騒々しい。


そこへ急使が来た。

馬も人も汗で濡れている。

冬の汗は命の削れ方が違う。


「将軍、ローマから」

急使が言う。


巻紙の封は二重だった。

剥がす手が震えたのは寒さのせいだろう。

カエサルは封を割らず、まず急使の顔を見た。


「投票は」

カエサルが言う。


急使は頷いた。

頷き方が勝った側のそれではない。

終わった側の頷きだった。


「成立しました」

急使が言う。

「……ポンペイウスとクラッススです」

「圧倒的に」


カエサルはその言葉を一度、舌の上で転がした。

圧倒的。

戦場では褒め言葉だ。

だがローマの中では別の意味を持つ。


「反対は」

カエサルが言う。


急使は一瞬だけ目をそらした。


「……集まれなかった者が多い、と」


カエサルはそこで初めて封を割り、文面を読んだ。

短い報告。

短い確認。

短い約束。

彼の口元に微笑が浮かんだ。

勝利の微笑ではない。

歯車が噛み合った時の微笑だった。


「よし」

カエサルが言う。


幕僚が言う。


「将軍、これで——」


「これで形ができる」

カエサルが言う。


彼は地図の余白を指で叩いた。

余白はまだ広い。

そこへ線を引くのが仕事だ。

ローマの投票所で引かれた線が、遠くの海や森へも伸びてくる。

その伸び方を彼は好んだ。


「ルッカで交わしたものが、ようやく地面に刺さった」

カエサルが言う。

「刺さった杭は抜けにくい」

「抜こうとする者には、杭が敵になる」


誰も返事をしない。

返事の代わりに遠くで角笛が鳴った。

次の行軍の合図だ。


カエサルは巻紙を畳み、火皿のそばに置く。


「彼らは勝った」

カエサルが言う。

「なら次は、勝利の代金を支払う番だ」


声は落ち着いていた。

落ち着きの中に、これから何が起きるかが含まれていた。



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