表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第2章 剣闘士
16/172

Great Escape

ある夜。


セリスィンは窓辺に腰掛け、外を眺めていた。月がやけに眩しい。


ついこの間まで、こんな生活は想像もできなかった。屋根のある寝床。麻や羊毛の寝具。丁寧に織られた服。入寮した頃は、それらがどれも落ち着かなかった。


当たり前の「普通」が、セリスィンには手の届かないものだった。


だが――あの親子の火事をきっかけに、ジムージーという男に目をつけられ、剣闘士として生きると決めた日から、世界は変わった。これが自分だけの“道”なのだと、思える時もある。クルスス・ホノルムなんて大仰な言葉を借りるなら、これはセリスィンなりのそれだった。


それでも、夢は消えない。


業火の中で叫ぶ母の姿。


『あなただけは逃げて』


伸ばされた手は、届かない距離へ遠ざかっていく。


セリスィンは小さく息を吐いた。剣闘士になった日の覚悟より、あの夜の記憶の方が、今も鋭く刺さってくる。あの悪夢がこの道へ繋がっていると思うと、世の中の歪さに笑いすら出ない。


だが、やることは変わらない。


もう庶民の暮らしには戻れない。一本道を進むと決めたとき、同時に「自分の思うままに生きる」とも決めた。どうせ一度は死にかけた身だ。なら、生きている間くらい――自分の望むように生きたい。


そう思い、窓辺から離れようとした、その瞬間だった。


窓の外で、何かが動いた。


しばらく目を凝らし、セリスィンはそれが人影だと確かめる。


(こんな時間に、何をしてる)


このあたりは市街の中心から外れ、民家がぽつぽつあるだけだ。盗人がうろつくような場所でもない――はずだった。


そして、もう一つ気づく。


(……足運びが違う)


すり足に近い運び。首を振るのも最小限。稽古を積んだ今なら分かる。兵か、戦う人間の動きだ。


普段なら見て見ぬふりをする。


だが今夜は眠れない。月も明るい。


「……ちょっと出るか」


同室のカタルスを起こさぬよう、セリスィンはそろりと部屋を出た。


◇  ◇  ◇


剣闘士の寮は、もちろん抜け出しやすい造りではない。それでも“不可能”でもなかった。夜番はいるが、すべての場所に目が届くわけじゃない。塀も、越えようと思えば越えられる高さだ。


路上で木にも塀にも登って生きてきたセリスィンにとって、壁は壁ではなかった。


外へ出る。月明かりを頼りに、さっきの人影を探す。


しばらく歩いたところで、草陰の向こうに“こそこそと移動する影”を捉えた。頭まで布を被り、周囲をうかがいながら少しずつ進んでいる。


(本当に、何を……)


距離を詰めるほど、既視感が強くなる。


あの動き――洗練されていて、無駄がない。直近で見た動きだ。闘技場で、確かに見た。


「……まさか」


横顔が月明かりをかすめる。


その瞬間、確信に変わった。


――あの女騎士だ。


なぜここにいる。なぜこんな時間に。なぜ隠れて歩く。


答えは、ひとつしか思いつかなかった。


(逃げる気か)


剣闘士が脱走する話は聞いたことがある。だが多くはない。捕まれば重い罰があるし、何より、近頃は“商品”として粗末に使い捨てにされることは減ってきている。無様な戦いをしなければ、飯と寝床は保証される。逃げる理由が薄いのだ。


――なのに彼女は、逃げている。


セリスィンは考えるより先に声をかけていた。


「おい」


「!?」


女騎士がびくりと振り向く。


暗さのせいか、こちらが誰か分からないらしい。彼女はセリスィンを数拍見つめ、次の瞬間、踵を返して走り出した。


「おい、待てよ!」


待つはずがない。夜の追いかけっこが始まった。


静かな街路に響くのは、二人の足音だけだ。まるで街に自分たちしかいないみたいだった。


どれくらい走ったのか。剣闘士の一試合が終わるほどの時間を、無言で追った気がする。


やがて女騎士が足を止めた。膝に手をつき、肩で息をしている。


(……ようやく話を聞く気になったか)


セリスィンが距離を詰めた、その瞬間。


女騎士が振り向きざま、何かを振った。


セリスィンは反射で身を引く。


「危ね……!」


月明かりの下で見えたのは、短い小刀と、細い麻縄。刃が光った。


「ちょっと待てって言ってるだろ!」


セリスィンが叫ぶ間もなく、女騎士は間合いを詰めて襲いかかってくる。


「くそっ」


セリスィンは後退し、刃を外す。受ければ血が出る。だが逃がせば、また追う羽目になる。


その隙に女騎士は身を翻し、再び走り出そうとした。


「待て!」


セリスィンは半ばタックルの形で飛びついた。


「きゃっ――!」


転がる。地面に叩きつけられた拍子に、女騎士の口から、さっきの剣闘場では想像もつかないほど“女の声”が漏れた。


「離せ!」


女騎士が全身で暴れる。


「待てって言ってるだろ」


セリスィンは魚を押さえるみたいに、必死で腕を抑えた。小刀がこちらへ向かないように、力を入れる。


(このままじゃ埒が明かない)


セリスィンは、咄嗟に言った。


「俺だって――!」


女騎士の動きが、ほんの一瞬だけ止まる。


彼女はセリスィンの顔を見た。


「……誰だ」


希望が砕ける。


「ほら、俺だ! あの試合の時の――!」


セリスィンが言うと、女騎士の顔がじわりと変わった。思い出したのか、苦虫を噛み潰したような表情になる。


「……まさか、貴様……」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ