Great Escape
ある夜。
セリスィンは窓辺に腰掛け、外を眺めていた。月がやけに眩しい。
ついこの間まで、こんな生活は想像もできなかった。屋根のある寝床。麻や羊毛の寝具。丁寧に織られた服。入寮した頃は、それらがどれも落ち着かなかった。
当たり前の「普通」が、セリスィンには手の届かないものだった。
だが――あの親子の火事をきっかけに、ジムージーという男に目をつけられ、剣闘士として生きると決めた日から、世界は変わった。これが自分だけの“道”なのだと、思える時もある。クルスス・ホノルムなんて大仰な言葉を借りるなら、これはセリスィンなりのそれだった。
それでも、夢は消えない。
業火の中で叫ぶ母の姿。
『あなただけは逃げて』
伸ばされた手は、届かない距離へ遠ざかっていく。
セリスィンは小さく息を吐いた。剣闘士になった日の覚悟より、あの夜の記憶の方が、今も鋭く刺さってくる。あの悪夢がこの道へ繋がっていると思うと、世の中の歪さに笑いすら出ない。
だが、やることは変わらない。
もう庶民の暮らしには戻れない。一本道を進むと決めたとき、同時に「自分の思うままに生きる」とも決めた。どうせ一度は死にかけた身だ。なら、生きている間くらい――自分の望むように生きたい。
そう思い、窓辺から離れようとした、その瞬間だった。
窓の外で、何かが動いた。
しばらく目を凝らし、セリスィンはそれが人影だと確かめる。
(こんな時間に、何をしてる)
このあたりは市街の中心から外れ、民家がぽつぽつあるだけだ。盗人がうろつくような場所でもない――はずだった。
そして、もう一つ気づく。
(……足運びが違う)
すり足に近い運び。首を振るのも最小限。稽古を積んだ今なら分かる。兵か、戦う人間の動きだ。
普段なら見て見ぬふりをする。
だが今夜は眠れない。月も明るい。
「……ちょっと出るか」
同室のカタルスを起こさぬよう、セリスィンはそろりと部屋を出た。
◇ ◇ ◇
剣闘士の寮は、もちろん抜け出しやすい造りではない。それでも“不可能”でもなかった。夜番はいるが、すべての場所に目が届くわけじゃない。塀も、越えようと思えば越えられる高さだ。
路上で木にも塀にも登って生きてきたセリスィンにとって、壁は壁ではなかった。
外へ出る。月明かりを頼りに、さっきの人影を探す。
しばらく歩いたところで、草陰の向こうに“こそこそと移動する影”を捉えた。頭まで布を被り、周囲をうかがいながら少しずつ進んでいる。
(本当に、何を……)
距離を詰めるほど、既視感が強くなる。
あの動き――洗練されていて、無駄がない。直近で見た動きだ。闘技場で、確かに見た。
「……まさか」
横顔が月明かりをかすめる。
その瞬間、確信に変わった。
――あの女騎士だ。
なぜここにいる。なぜこんな時間に。なぜ隠れて歩く。
答えは、ひとつしか思いつかなかった。
(逃げる気か)
剣闘士が脱走する話は聞いたことがある。だが多くはない。捕まれば重い罰があるし、何より、近頃は“商品”として粗末に使い捨てにされることは減ってきている。無様な戦いをしなければ、飯と寝床は保証される。逃げる理由が薄いのだ。
――なのに彼女は、逃げている。
セリスィンは考えるより先に声をかけていた。
「おい」
「!?」
女騎士がびくりと振り向く。
暗さのせいか、こちらが誰か分からないらしい。彼女はセリスィンを数拍見つめ、次の瞬間、踵を返して走り出した。
「おい、待てよ!」
待つはずがない。夜の追いかけっこが始まった。
静かな街路に響くのは、二人の足音だけだ。まるで街に自分たちしかいないみたいだった。
どれくらい走ったのか。剣闘士の一試合が終わるほどの時間を、無言で追った気がする。
やがて女騎士が足を止めた。膝に手をつき、肩で息をしている。
(……ようやく話を聞く気になったか)
セリスィンが距離を詰めた、その瞬間。
女騎士が振り向きざま、何かを振った。
セリスィンは反射で身を引く。
「危ね……!」
月明かりの下で見えたのは、短い小刀と、細い麻縄。刃が光った。
「ちょっと待てって言ってるだろ!」
セリスィンが叫ぶ間もなく、女騎士は間合いを詰めて襲いかかってくる。
「くそっ」
セリスィンは後退し、刃を外す。受ければ血が出る。だが逃がせば、また追う羽目になる。
その隙に女騎士は身を翻し、再び走り出そうとした。
「待て!」
セリスィンは半ばタックルの形で飛びついた。
「きゃっ――!」
転がる。地面に叩きつけられた拍子に、女騎士の口から、さっきの剣闘場では想像もつかないほど“女の声”が漏れた。
「離せ!」
女騎士が全身で暴れる。
「待てって言ってるだろ」
セリスィンは魚を押さえるみたいに、必死で腕を抑えた。小刀がこちらへ向かないように、力を入れる。
(このままじゃ埒が明かない)
セリスィンは、咄嗟に言った。
「俺だって――!」
女騎士の動きが、ほんの一瞬だけ止まる。
彼女はセリスィンの顔を見た。
「……誰だ」
希望が砕ける。
「ほら、俺だ! あの試合の時の――!」
セリスィンが言うと、女騎士の顔がじわりと変わった。思い出したのか、苦虫を噛み潰したような表情になる。
「……まさか、貴様……」




