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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第13章 疾風怒濤
157/175

背後へ回す刃

翌朝。

霧が薄く流れ、丘の輪郭が曖昧なまま残っていた。

その曖昧さの向こうに、敵の陣がある。

アクィーターニア諸部族の寄り合い所帯。

それだけならまだよかった。

その中に、ピュレネーの向こうから来た者たちが混じっている。

セルトリウスの戦争を知る、ヒスパニアの古参兵。

こちらの癖を痛みで覚えた連中だ。


斥候が戻ってきて、短く言った。


「敵は今日も動きません」

「陣地を固めています」


幕僚が舌打ちする。


「待ち合いだな」

「こちらの腹が減るのを待っている」


クラッスス・ジュニアは頷いた。

だが頷きは諦めではない。

計算だ。


「敵は守りを信じている」

クラッスス・ジュニアが言う。

「ならば守りが完成する前に崩す」


千夫長が言う。


「攻めるのですか」


「攻める」

クラッスス・ジュニアが答える。

「ただし」

「こちらの形を崩さずにだ」


その日のうちに、敵の動きが見えた。

丘の稜線の下で土が動く。

木が運ばれる。

斧が鳴る。

柵が伸びる。

それだけではない。


「壕だ」

工兵が呟く。

「こちらを囲うつもりです」


敵は、こちらの陣地を見ていた。

ただ眺めていたのではない。

外側から締める形を作ろうとしている。

道を塞ぎ、採集と水汲みを難しくし、焦りを誘う。

セルトリウスの時代にローマを苦しめたやり口だ。


テオトニクスが馬上で低く言う。


「やり口、うざいな」

「殴れへん相手ほど殴りたなる」


騎兵隊長が返す。


「殴りたくなった時ほど殴るな」

「殴る場所を選べ」


テオトニクスは笑いかけてやめた。

笑いは油だ。

油は刃を滑らせる。

今は滑らせている場合ではない。


夜。

天幕で幹部が集められた。

蝋燭の火が小さく揺れ、地図板の影が伸びる。

クラッスス・ジュニアは地図板を指で叩いた。

敵陣。

こちらの陣。

その間の地形。

谷と斜面と林。


「敵は外側の輪を作ろうとしている」

クラッスス・ジュニアが言う。

「完成すれば、こちらは腹で死ぬ」


千夫長が言う。


「ならば明日」

「攻めて止めますか」


「止めるだけでは足りない」

クラッスス・ジュニアが言う。

「折る」


幕僚が問う。


「敵は高地です」

「さらにヒスパニアの古参が混じっています」


クラッスス・ジュニアは短く答える。


「だから早い」

「整った相手ほど、崩すなら初動だ」


テオトニクスが口を挟む。


「ほな騎兵は」


クラッスス・ジュニアはテオトニクスを見る。

若い目だ。

だが若さで動かす目ではない。

役目で動かす目だ。


「お前らは動くな」

「最初は見せるだけだ」

「敵が形を作った時」

「背後へ回る」


テオトニクスが眉を上げる。


「背後」


「そうだ」

クラッスス・ジュニアが言う。

「敵は正面の強さを誇っている」

「誇りは背中に弱い」


千夫長が頷く。


「歩兵は」


「真っ直ぐ上がる」

クラッスス・ジュニアが答える。

「逃げ道を作るな」

「作った逃げ道は、追撃でこちらを殺す」


命令が落ちる。

火が小さく鳴る。

皆がそれぞれの持ち場へ散る。

静けさが陣に降りた。


明け方。

霧が薄いまま、軍が動いた。

角笛は短い。

足音は揃う。

盾が鳴らないように革が締められている。


敵は高地にいた。

こちらが近づくのを見て、すぐに列を作った。

アクィーターニアの槍の列。

その間に混じる、妙に整った動きの歩兵。

ヒスパニアの古参だ。

並び方が違う。

盾の出し方が違う。

目の置き方が違う。


「……あれが向こうの記憶か」

誰かが呟く。


クラッスス・ジュニアは声を上げない。

上げずに、近くの百人隊長へだけ言う。


「登れ」

「足を止めるな」

「止めた所が死に場所だ」


歩兵が斜面を上がる。

上から石が落ちる。

投槍が飛ぶ。

盾が鳴る。

足が滑る。

だが列は崩れない。

崩れないまま、少しずつ距離が詰まる。


「投げろ」

百人隊長が叫ぶ

「一息で」


投槍が飛ぶ。

敵の列が揺れる。

揺れた瞬間、ローマが前へ出る。

剣が抜かれ、盾が押し出され、斜面の上で刃が噛み合った。


戦いは激しかった。

敵は勇敢だった。

勇敢というより、折れ方を知らない顔だった。

ヒスパニアの古参は前に出すぎない。

前に出ないまま、横へ回ろうとする。

こちらの列を薄くし、包み、崩す。


幕僚が叫ぶ。


「右が回られます」

「包囲の形です」


クラッスス・ジュニアはその声を待っていたように頷いた。

合図を上げる。

旗が一つ動く。


テオトニクスがそれを見た。

背後へ回れ。

その旗だ。


「きたで」

テオトニクスが騎兵に言う

「ついて来い」

「叫ぶな」

「蹄で喋れ」


騎兵が林の縁へ消える。

敵から見えない角度で回り、斜面の陰を使って背へ出る。

土が跳ね、蹄が速くなる。

速くなるほど、声が減る。


そして。

背後へ出た。


テオトニクスが剣を上げた。


「今や」


騎兵が敵の背へ突っ込む。

背中は盾が薄い。

薄い盾は一撃で割れる。

割れた瞬間、前線の敵の目が揺れる。

揺れる目は、前へ出ている者を殺す。

殺される前に退こうとする。

退こうとすれば前線が崩れる。


崩れたところへ、斜面の正面からローマ歩兵が押し込む。

押し込みと背後の突撃が同時に噛み合った。

敵の形が、紙のように裂けた。


「押せ」

「逃がすな」

「列を崩すな」


ローマの声が重なり、敵の声が薄くなる。

薄くなる声は、もう命令ではない。

悲鳴だ。


やがて敵は退き始めた。

退きが逃げに変わる。

逃げが崩れに変わる。

崩れた軍は、もう軍ではない。


クラッスス・ジュニアは追撃に熱が出るのを見て、短く命じた。


「追い過ぎるな」

「勝ちを汚すな」


勝っている時ほど、声は冷たい。

冷たい声がないと、勝ちは地面に落ちて泥になる。


敵は散った。

散った敵は、翌日には別の顔で使者を出す。

それもまた戦の形だ。


その通りだった。

ほどなくして周辺の部族から次々と使者が来た。

誓約の言葉は薄く、降伏の姿勢は早い。

勝った側の条件が、今度は鎖になる。


テオトニクスは血のついた剣を鞘へ戻しながら呟いた。


「結局」

「背中が一番弱いんやな」


クラッスス・ジュニアは答えない。

答えは地面に転がる盾と槍の数が示している。


アクィーターニアの戦は、ここで一つの山を越えた。

だが山を越えるたび、次の山の形がはっきり見える。

ローマの勝利はいつも、次の仕事を連れてくる。

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