ピュレネーの向こうの槍
ソティアーテース族が降ったあとも。
南の空気は軽くならなかった。
降伏は終わりではなく、音を立てない次の準備の始まりだからだ。
クラッスス・ジュニアは軍を休ませすぎなかった。
勝った兵は休みたがる。
休んだ兵は、次に動くのを嫌がる。
嫌がり始めた瞬間から、敵の噂がこちらの足を縛る。
「進むぞ」
クラッスス・ジュニアが言う。
「次はウォカテース」
「そしてタルサーテース」
地図板の上で、アクィーターニアの名が少しずつ増えていく。
増えていくほど、ここが一つの部族の土地ではないと分かる。
小さな誇りが集まり、集まった誇りはやがて大きな刃になる。
「海より面倒やな」
テオトニクスが小声で言う。
「顔が多すぎる」
千夫長が横から叱る。
「口を減らせ」
「顔が多いなら、見る目を増やせ」
テオトニクスは肩をすくめ、馬の腹を軽く蹴った。
数日後。
斥候が戻ってきた。
土と汗の匂いが濃い。
それだけで、良い報せではないと分かる。
「閣下」
斥候が言う。
「アクィーターニアが動いています」
クラッスス・ジュニアは歩みを止めずに問う。
「どう動く」
斥候は息を整えながら続けた。
「各部族が使者をやり取りしています」
「誓約を交わし」
「互いに人質を差し出しています」
その言葉に、周囲の幕僚の顔が硬くなる。
誓約と人質。
それは「まとまった」という合図だ。
まとまった敵は、面倒な敵だ。
斥候はさらに言った。
「ピュレネーの向こうへも使者を出したようです」
「向こうだと」
千夫長が言う。
斥候が頷く。
「ヒスパニアです」
「以前、ローマと戦った者たちのいる地へ」
クラッスス・ジュニアの目が僅かに細くなる。
過去の戦を知る者を呼ぶ。
それは勇気ではない。
知恵だ。
敵が知恵を持つのは厄介だ。
幕僚が確認する。
「誰を呼んだ」
斥候が答える。
「かつてセルトリウスの下で戦った者たち」
「ローマのやり方を知っている者たち」
「戦の指揮に慣れた者たちです」
テオトニクスが鼻で息を吐いた。
「ベテラン呼んでくるんか」
「こっちは新人ばっかりやのに」
クラッスス・ジュニアはそれを咎めない。
ただ、言葉の向きを変える。
「新人なら」
クラッスス・ジュニアが言う。
「勝ってベテランになれ」
斥候は続けた。
「彼らは会議を開いています」
「指揮官を選び」
「作戦を決め」
「動く日と場所まで決めているようです」
幕僚が言う。
「整いすぎています」
「こちらを見ている」
「見ていない敵はいない」
クラッスス・ジュニアが返す。
「問題は、どれほど見ているかだ」
彼はその場で軍を止め、幹部を集めた。
短い会議だ。
短い会議ほど、決める内容は重い。
「敵はまとまった」
クラッスス・ジュニアが言う。
「誓約を交わし、人質を回した」
「さらにヒスパニアから腕の立つ者を呼ぶ」
千夫長が言う。
「待てば増えます」
「待てば増える」
クラッスス・ジュニアは頷く。
「だから整える」
幕僚が言う。
「兵站を」
「穀物を先に押さえろ」
クラッスス・ジュニアが命じる。
「道を押さえろ」
「川を押さえろ」
「敵が集まるなら、こちらは先に腹を集める」
騎兵隊長が言う。
「偵察を増やします」
「増やせ」
クラッスス・ジュニアが言う。
「ただし無駄に死なせるな」
「死んだ斥候は、敵の口になる」
テオトニクスが口を開いた。
「ほな」
「敵はこっちを“逃げるローマ”にはできへんわけやな」
クラッスス・ジュニアは一拍置いて答えた。
「できないようにする」
「ここで負ければ」
「ガリアの海で勝った話も、全部薄まる」
その言葉は兵に向けてではなく、自分に向けた刃だった。
クラッスス・ジュニアは若い。
若いからこそ、ここで勝つ必要がある。
勝ちが必要なのは名誉のためだけではない。
ローマの計画の外堀を埋めるためだ。
会議が終わると、命令が走った。
野営地が固められ、哨戒が増え、穀物の袋が前へ運ばれる。
兵は不満を言わない。
言っている暇がない。
テオトニクスは馬の首を撫でながら、ぼそりと言った。
「セリスィンおらんと」
「なんか調子狂うな」
隣の兵が言う。
「調子が狂うなら、戻せ」
テオトニクスは笑いかけて、笑い切れずに息を吐いた。
「戻すには」
「勝たなあかん」
クラッスス・ジュニアは遠くの山並みを見た。
ピュレネーの向こう。
そこから来る槍は、ただの槍ではない。
ローマの戦い方を知っている槍だ。
「来い」
彼は小さく言った。
「来たら折る」
そう言って、軍を進めた。
敵が整えるなら、こちらも整えて迎える。
アクィーターニアの戦は、いよいよ次の段へ入ろうとしていた。




