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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第13章 疾風怒濤
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地下の息

谷間の混戦は、勝ったというより噛み砕かれなかったという形で終わった。

追撃の熱が冷め、土煙が薄れ、ようやく前後の距離が見えるようになった頃。

テオトニクスは馬上で息を吐いた。

吐いた息が白くなるほど冷たいのに、額は汗で濡れている。


「……生きとるな」

自分に言うみたいに呟く。


周囲の騎兵が、泥と血で汚れた顔を向けた。

勝ち誇る顔ではない。

生き残った顔だ。

生き残った顔は、次の命令に一番よく従う。


「列、戻せ」

テオトニクスが叫ぶ

「散るな」

「散ったらまた喰われる」

「死体を踏むな」

「踏んだら馬が折れる」


声は枯れていた。

それでも届いた。

届く声は、戦の中で唯一の道標だ。


本隊が追いついた時、クラッスス・ジュニアは馬を止めずに周囲を見回した。

倒れた馬。

折れた槍。

そして息を切らした者たち。

その上で、テオトニクスの顔を見て頷いた。


「よく持ちこたえた」

クラッスス・ジュニアが言う


テオトニクスは軽口を叩こうとして、やめた。

ここで笑えば、死んだ者の数が重くなる。

代わりに短く返す。


「……谷が悪い」


クラッスス・ジュニアは答えない。

谷が悪いのは分かっている。

分かっている上で、次を決めねばならない。


ソティアーテース族は、ローマを撃退した経験がある。

それが彼らの背骨だった。

背骨がある敵は、折れるまで粘る。

そして背骨がある敵を折るには、こちらの背骨も要る。


クラッスス・ジュニアは軍を整え、兵を集め、短く言った。


「焦れるな」

「相手は勝った記憶で戦う」

「こちらは勝つ癖で戦う」

「癖は崩すな」


兵の喉が鳴り、列が揃う。

敗北を知らぬ者の誇りではない。

崩れない列への信頼が、兵を立たせた。


戦況は長く激しいものになった。

ソティアーテース族は退かない。

退かない者は勇敢だ。

勇敢な者は、倒すのに時間がかかる。


それでも、最後に残るのは数と規律だ。

規律は腹から生まれ、腹は穀物から生まれる。

クラッスス・ジュニアは穀物を整え、騎兵を整え、属州の兵を招集していた。

準備は血の代わりに働く。


そして、ゆっくりとローマに軍配が傾き始めた。


敵は街へ籠った。

街は小さく見えても、守りの形をしている。

守りの形は、人を粘らせる。


クラッスス・ジュニアはすぐに囲いを固め、襲撃を重ねた。

だが無闇に突っ込まない。

冷静に距離を詰める。

詰めるために必要なのは、剣より先に木と土だった。


「小屋を立てろ」

「塔を上げろ」

「近づく道を作れ」


命令が落ちると、兵の手が動く。

木を組み、土を盛り、盾で守りながら梁を渡す。

戦の顔が、少しずつ工事の顔に変わっていく。


テオトニクスはその作業を見て、口の端を歪めた。


「また土木かいな」

小声で言う。

「ローマの剣は、だいたい土から生えてくるな」


千夫長が横から言う。


「黙って運べ」

「口で盛った土は、壁にならん」


テオトニクスは肩をすくめ、木材を担いだ。


敵も黙ってはいない。

突撃してくる。

夜のうちに城壁の外へ出て、囲いを焼こうとする。

小屋の足を狙い、塔の綱を切ろうとする。


「来たぞ」

見張りの声が上がる。


槍が並び、盾が合わせられる。

城壁の影から飛び出した敵を、列で受け止める。

受け止めれば、勢いが死ぬ。

勢いが死ねば、勇気も死ぬ。


だがソティアーテース族は粘った。

それがこの戦の厄介さだった。

突撃が通じなければ、別の手を出す。

城壁を囲う土の下へ潜る。

小屋の下へ潜る。

地下道を掘ってくる。


「下だ」

「土が鳴っている」


工兵が耳を地面に当て、嫌な顔をする。


「掘ってきています」

「ここで支えを抜かれれば」


クラッスス・ジュニアは即座に命じた。


「対抗の坑道を掘れ」

「音を追え」

「追いついたら煙を入れろ」

「崩して塞げ」


地下でも戦が始まる。

地上では槍が鳴り、地下では土が鳴る。

どちらも同じだ。

先に相手の息を奪った方が勝つ。


敵は粘りを見せた。

粘りは勇敢さの証だ。

だが粘りは、数の前では摩耗する。

摩耗した勇敢は、最後に絶望へ変わる。


塔が城壁に届いた。

小屋が寄った。

投槍が落ち、盾が上がり、壁の上の敵の声が薄くなる。


クラッスス・ジュニアは前へ出すぎない。

それでも兵には聞こえる声で言った。


「形を崩すな」

「勝ちはもう来ている」

「余計な死で、勝ちを汚すな」


その言葉は冷たい。

冷たいから効く。

勝ちが見える時ほど人は乱れる。

乱れを抑えるのが指揮官の仕事だ。


やがて敵の側の門が開き、使者が白い布を掲げて出てきた。

白は土で汚れている。

汚れているほど、降伏は本物に見える。


「降伏する」

使者が言う

「もう戦えない」


クラッスス・ジュニアは頷いた。

頷きは勝利の合図ではない。

処理の始まりの合図だ。


「認める」

クラッスス・ジュニアが言う

「だが条件はローマが決める」


兵が息を吐く。

息を吐いた瞬間、疲労が一気に肩へ落ちる。

戦の最中は痛みが薄い。

終わった瞬間に痛みが戻る。


テオトニクスは地面に座り込みそうになるのを堪え、空を見上げた。

空は狭くない。

谷の空でもない。

それなのに、胸の奥が少し狭い。

勝ったのに狭い。


「……終わったか」

彼は小さく呟いた。


終わった。

だがローマの戦は、勝ってからが長い。

そしてクラッスス・ジュニアの顔はすでに、次の手順を数えていた。

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